片山さつき氏や竹中平蔵氏の発言を取り上げて思うことに、理論の逆が正しいとい意味不明な主張をする人がたくさんいるということだ。市場競争が正しい。そこまではいい。問題は、市場競争の中のどれを政策として実行するかである。市場競争の基本はより成果を上げたものに多くの報酬を与えるということだ。これは格差が広がる可能性もあるが、同時に障壁が取り払われることによって平等化が進むという可能性もある。
それを、竹中平蔵氏は富の集中に反対してはならないという。問題は、富が集中する理由として成果を上げた人間が報酬を多く貰うという可能性以外に、寡占や障壁や不公正によって富が集中する可能性もあると言うことである。だから、富が集中することを認めるかどうかは、市場競争とはあまり関係ない。問題なのは、富んでいるものが本当に成果を上げたのかどうかということである。片山氏の発言のほうは、さらに笑えるのだが、労働者を恣意的に分けて一方の労働者には低賃金を甘受することを要求する。それも、外国人労働者というほかの労働者とは違う基準を突然持ち出してそう主張する。
両方に言えることであるが、本来の市場競争から自分の考えに基づいて範囲を拡張していく、そしてある考えが市場競争ともいえるから正しいはずだと主張する。問題は、市場競争の原理からまったく逆の結論も導き出せるということだ。正規労働者と非正規労働者の格差は市場競争を否定するものである。だから、本来の市場競争の考え方からすれば駄目なはずだ。それを、それが市場競争の一部とも考えられるという論理で押し付けようとする。
このようなことを許せばある理論から論理を展開していって、逆と言ってもいいような結論に行き着いたら元の理論の逆が正しいということになる。実際、上のような主張はそういうことを意味する。そうすると、一部のものがそう考えれば理論の逆が正しく、それに反対することが許されないということになる。このような理論の逆が正しいという主張を許すことは論理と社会を破壊することになるだろう。