ウキペディアから。
初代 (元文3年(1738年) - 寛政11年(1799年)3月)
摂津国東五百住村(現・高槻市)生まれ。幼名は古藤(ことう)栗太郎。寛延年間に京に出て清水焼の海老屋清兵衛に師事し、1771年(明和8年)独立して五条坂建仁寺町に窯を開き、名を六兵衛と改める。
妙法院宮の御庭焼に黒楽茶碗を供して六目印を受け、天竜寺の桂洲和尚より六角内に清字の印を受ける。土焼風の抹茶器、置物などを製作。号は愚斎。
2代 (寛政2年(1790年) - 万延元年(1860年)3月)
初代の子。文化8年(1811年)2代目を襲名。白磁器を焼く。号は静斎。
3代 (文政5年(1822年) - 明治16年(1883年)6月4日)
2代の次男。1853年(嘉永6年)、京都小御所に大雪見灯籠二基を焼成する。号は祥雲。
1868年頃、古藤六兵衛を清水(しみず)六兵衛に改める。
海外にも積極的に出品し賞を受賞。
4代 (嘉永元年(1848年) - 大正9年(1920年)11月)
3代の長男。のち清水六居。東京国立博物館蔵大灯籠を制作。号は祥鱗。
5代 (1875年3月6日 - 1959年8月1日)
4代の長男。のち清水六和。清水の読みを「きよみず」に改める。
6代 (1901年9月13日 - 1980年4月17日)
5代の長男。名は清水正太郎。
1920年(大正9年) - 京都市立美術工芸学校絵画科卒業。
1923年(大正12年) - 京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)卒業。
1931年、1934年に帝展で特選。
1945年(昭和20年) - 6代を襲名。
1948年(昭和23年) - 京都陶芸家クラブを結成。
1956年(昭和31年) - 「玄窯叢花瓶」で日本芸術院賞受賞
1962年(昭和37年) - 日本芸術院会員
1976年(昭和51年) - 文化功労者
1980年(昭和55年) - 日本橋高島屋で開かれた「清水六兵衛歴代名陶展」の際に挨拶をしていたところ倒れ、死去。
7代 (1922年5月15日 - 2006年7月21日)
6代の長女と結婚後、養嗣子となる。東京芸術大学鋳金科卒業。
1967年から1987年まで作陶を中止、清水九兵衛を名乗り彫刻家として活躍、“Affinity”(親和)と題するシリーズ作品が著名、受賞多数。
1981年に7代目を襲名するも作陶再開は1987年。
8代 (1954年 - )
7代の長男。名は清水柾博。2000年に8代を襲名。
京都造形芸術大学教授
ウキペディアより。
長谷川 潔(はせがわ きよし、1891年(明治24年)12月9日 - 1980年(昭和55年)12月13日)は大正・昭和期に活躍した日本の版画家。
1918年(大正7年)にフランスへ渡り、様々な銅版画の技法を習熟。特にメゾチント(マニエール・ノワールとも)と呼ばれる古い版画技法を復活させ、独自の様式として確立させたことで有名。渡仏して以来、数々の勲章・賞を受けたが、一度も帰国せずにパリで没した。
生涯
銀行家であった長谷川一彦の長男として神奈川県横浜市に生まれる。裕福な家庭に育ち、小学生の頃より父から論語の素読や書、日本画などを教わる。大阪在住の1902年(明治35年)に父・一彦が死去。東京の麻布に転居する。
虚弱体質であったため、勤め人は無理だと判断され、好きであった美術の道へ進む。麻布中学校卒業前に母・欣子が死去する。1910年(明治43年)に麻布中学校を卒業した後、葵橋洋画研究所で黒田清輝から素描を、本郷洋画研究所で岡田三郎助、藤島武二から油彩を学ぶ。また、バーナード・リーチからはエッチング技法の指導を受けている。その後、1913年(大正2年)に文芸同人誌『仮面』に参加、表紙や口絵を木版画で製作する。日夏耿之介や堀口大學の本の装幀なども担当した。
1918年(大正7年)、版画技術の習得の為フランスへ渡航。翌年の4月4日にパリに到着するが、静養のため10月から南フランスに約三年間滞在。その間、版画技法の研鑽を積む。そしてパリに戻り、1923年(大正12年)からサロン・ドートンヌ等のサロンや展覧会に作品を出品。1925年(大正14年)には初の版画の個展を開き、高い評価を得る。翌年にはサロン・ドートンヌ版画部の会員となり、パリ画壇で確固たる地位を築いた。
しかし、1939年(昭和14年)に第二次世界大戦が勃発すると、長谷川の生活は一変する。フランス在住の多くの画家が帰国してしまう中、長谷川はフランスに留まるが、パリを離れることを余儀なくされる。その為サルト県にある斎藤豊作邸に疎開、その後もボルドー、ビアリッツなどを転々とする。一時パリに戻り製作を続けるが、経済的にも健康面でも苦しい日々を送った。1945年(昭和20年)には収容所に収監されるも、知人の助力もあり約一ヶ月後に解放される。
戦後、創作を再開。銅版画に没頭し、様々な技法を最高の域まで高める。そして最後には自らが復活させたメゾチントに没頭、数々の名作を発表した。
1980年(昭和55年)12月13日、パリの自宅で死去。89歳。渡仏してから一度も日本へ帰ることはなかった。
年譜 [編集]1891年(明治24年)12月9日:誕生。
1916年(大正5年):広島晃甫(広島新太郎)、永瀬義郎と共に日本版画倶楽部を結成。
1918年(大正7年):フランスに渡る。
1928年(昭和3年):春陽会会員。
1931年(昭和6年):日本版画協会創立会員。
1935年(昭和10年):フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を受章。
1939年(昭和14年):第二次世界大戦勃発。
1943年(昭和18年):ミシェリーヌ・M・ビアンキと結婚。
1945年(昭和20年):収容所に収監される。
1964年(昭和39年):フランス芸術院コレスポンダン会員。
1966年(昭和41年):フランス文化勲章を受章。
1966年(昭和41年):現代日本美術展で特賞を受賞。
1967年(昭和42年):勲三等瑞宝章を授与される。
1980年(昭和55年):京都国立近代美術館で大回顧展「銅版画の巨匠・長谷川潔展」が開催。
1980年(昭和55年)12月13日:死去。
補足・エピソード
第二次大戦中のエピソードとして有名なものに、『一本の樹』にまつわる話がある。これは、「画題を探すために散歩をしていたところ、一本の樹が不意に「ボンジュール」と語りかけてきた。私も「ボンジュール」と答える。すると、その樹が実に素晴らしいものに見えてきた。」というもので、長谷川の自然観や思想、作品を考える上で重要なエピソードである。
1972年(昭和47年)にはフランスの国立貨幣・賞牌鋳造局からメダルが発行された。(日本人としては葛飾北斎、藤田嗣治に次いで三人目)
主にメゾチントによる幻想的な作品が知られているが、アクアチント、エッチング、ドライポイント、エングレービング等の、他の技法による銅版画も評価が高い。また、銅版画だけでなく、木版画、水彩、油彩等も描いている。
インクや紙に強いこだわりを持っており、特にインクに関しては顔料や油、調合方法などに細心の注意を払い、イタリアの石の粉を加えるなど工夫を凝らしていた。
『黒の版画家』とされる通り、「黒には7色の色がある」と語っている。
長谷川の作品を摺っていたのはケネヴィルという摺師である。彼に長谷川は細かく注文を付け、互いに技術を高め合うことで多くの名作を世に送りだした。長谷川はケネヴィルを深く信頼しており、1970年(昭和45年)に彼が亡くなると、『横顔』という作品を最後に、活動を止めている。
主な作品 ※年号の後に書かれているのは使われている技法である。
『南仏古村(ムーアン・サントゥー)』 1925年(大正14年)、メゾチント
『アレキサンドル三世橋とフランスの飛行船』 1930年(昭和5年)、メゾチント
『竹取物語 挿絵』 1933年(昭和8年)、ドライポイント、エングレービング
『2つのアネモネ』 1934年(昭和9年)、メゾチント
『一樹(ニレの木)』 1941年(昭和16年)、ドライポイント
『花(切子ガラスに挿したアネモネと草花)』 1945年(昭和20年)、アクアチント
『狐と葡萄(ラ・フォンテーヌの寓話)』 1963年(昭和38年)、メゾチント
『時、静物画』 1969年(昭和44年)、メゾチント
その他、1980年に回顧展が開かれた京都国立近代美術館や、彼の故郷、横浜市にある横浜美術館には多数の作品が所蔵されている。
関連書 評伝 「作品集 長谷川潔」長谷川潔著、玲風書房
「白昼に神を視る」 長谷川潔著・長谷川仁ほか編、白水社
「長谷川潔の世界 上」猿渡紀代子著、有隣堂
「長谷川潔の世界 中」(同上)
「長谷川潔の世界 下」(同上)
画集 「長谷川潔作品集 京都国立近代美術館所蔵」画・長谷川潔 編・京都国立近代美術館、光村推古書院、2004年
「長谷川潔版画作品集」 美術出版社 1981年
「銅版画家長谷川潔作品のひみつ」画・長谷川潔 企画監修・横浜美術館、玲風書房 2006年
「長谷川潔の全版画」編・魚津章夫、玲風書房 1999年
「長谷川潔の全版画 第二版」(同上)
「長谷川潔展図録 銅版画の巨匠 京都国立近代美術館所蔵作品による」 1994年
「長谷川潔展 パリに生きた銅版画の巨匠 版画・油彩・デッサンを中心に」 東京都庭園美術館編 1993年
関連項目 藤田嗣治:同じくフランスで活躍し、高い評価を得た画家。
堀口大學:長谷川が本の装幀を担当。
日夏耿之介:(同上)
齋藤磯雄:(友人)
文中黒字化と*は私。
…前略。
小佐古氏が辞任会見でもっとも問題視したのは、…中略。
なぜ、政府は非常識ともいえる数値を採用したのか? 原子力災害対策本部関係者が内幕をこう明かす。
「放射線被曝の問題は、枝野幸男、福山哲郎両氏が担当していたが、2人とも途中から疲労が蓄積し、思考停止状態に陥り、官僚の言いなりになってました。年間20ミリシーベルトは文科省の審議官2人がはじき出した数字です。4月14日に文科省が調査したところ、毎時3・8マイクロシーベルト以上の高い数値が検出された学校が13校もあった。年間線量を20ミリリシーベルト以下にすると該当する学校がさらに増えるので対応が難しくなると予測し、高い数値をあえて選択したのです。〝空き缶″状態の菅首相は意味もあまり理解せず、言われるがまま、決めたのです」
小佐古氏の辞任後、内堀雅雄・福島県副知事は復興構想会議の席上で不信感をあらわにした。
「同じ政府関係者で言うことが違うと何を基準に安心したらいいのかわからなくなる」
身内である民主党の2議員も20ミリリシーベルトの基準を速やかに見直すよう、菅首相に文書で申し入れた。
自民党など野党は、福島県全域、茨城、栃木両県に住む15歳以下のすべての子どもに対し、甲状腺などの被曝線量の調査を実施すべきだと主張している。、
先が見えない事故の収束に向けて、首相のリーダーシップが問われている。
本誌取材班
*何故、こういう事実を、新聞やテレビは報道しないのか?…それが私たちの国の弱点だろう。
何度も言うが、週刊朝日は29万部なのである。一方、新聞は落ち込みが激しい(それも当然だろうが)とはいえ、100万部単位、テレビは全国民が観ている。
こんな有様、おかしいと思わないか。ましてやテレビはいまだに痴呆テレビだ。こんなものを見て育ち、本を読むなどとは考えられない様な人間達が、巷に巣くう…もはや、国民の2割は占めようかと言う悪党どもに成っているのだと、私は確信する。
債権放棄論 東証社長、枝野氏批判
東京証券取引所グループの斉藤惇社長は17日の定例記者会見で、枝野幸男官房長官が東京電力に融資する金融機関に債権放棄を促したことについて「世界的にも非常に混乱を生む。思っても言わない方がいい。しっかり考えて発言すべきだ」と批判した。
斉藤社長は、まず「どういう立場でおっしゃっているのか分からない」と述べ、債権放棄を促した発言に法的根拠がないと指摘。安易に金融機関に債権放棄を求めると「銀行は東電に金を貸さなくなる。そのときは国が貸すのか。そういうことが論理立つていない」と語気を強めた。
枝野官房長官は13日の会見で、東電の原発事故の損害賠償支援の枠組みをめぐり、金融機関に債権放棄を促す発言をした。
私は何度も言うが、誰が、この様な内閣を組成させたのか、ということを考えるべきなのだ。
私の読者なら…現内閣は、去年9月の代表選前後に書いた、芥川の懸念通り、全く、予想通りになっている事が分かるはずだ。
小沢一郎氏に対する報道の酷さに、政治にリンクせざるを得なかったのだが。
その為に、当然ながら、更に忙しくなってしまっていた間隙を、巷に巣くう悪党につけいられて、甚大な損害を被るという代償まで払いながら、私は、マスメディアの、おかしさを指摘し続けていたのだと言う事も。
分かってくれている読者の方が居ると言う事を、励ましに、この悪党どもと、それに手を貸す更なる悪党どもと戦いながら、私は書き続ける。…私は、悪党に手を貸す層を国民の2割と推測するのだが、この層が悪の温床ではないのか。
その数の多さに、源信は、あの様な事を言ったのだろう。収拾がつかなくなるとでも思ったのか。馬鹿げた事だ。
文中黒字化と*は私。
新工程表乏しい現実感
4月17日の工程表公表時に比べ、冷温停止への道のりは厳しい。にもかかわらず、当初計画のまま、遅くとも来年1月半ばまでに1~3号機とも事故収束にメドがづくという。どうしてか。
工程表では7月半ばまでに「ステップ1」として、1、3号機を「冠水」状態にする計画だった。しかし1号機は核燃料を収めた圧力容器ばかりか、格納容器からの水漏れも判明した。
格納容器の底部に穴が開いている2号機と同様に、汚染水を浄化して循環利用する仕組みにする必要が出てきた。3号機も似た状況。3つの原子炉の高濃度汚染水を循環させる長い配管と処理装置が必要で、放射線量が高く、がれきも散乱するなかで綱渡りが予想される。大量の汚染水を外に漏らさず扱うリスクも増す。
まさか菅直人首相が「年明けには周辺住民の帰宅の判断ができる」と述べたことに縛られているのではあるまい。「まず締め切りありき」の工程表では本末転倒だ。
*まさかではなく、その懸念通りであることは、国民の8割は知っている。今回、世界に感銘を与えているのは、東北人のGentleness、そこから生まれる粘りと頑張り、その様な彼らの、つまり、国民の振る舞いに対してであって、現政権に感銘を覚えている者など一人もいはしないのだ。
私は、筆者に指摘するが、その事は、貴方がたが、この20年超、やり続けて来た事や、松下政経塾や、朝まで生テレビなどは、何物でもなかっただけではなく、極論すれば、批判的な事を格好良く言って立身出世したい、目立ちたい等のロクでなしを政界に大量に生みだしただけなのだ。
「国民の2割は悪党なのだ」というのは芥川の持論になりつつあるが、彼らは、この悪党どもと何ら変わらない、醜悪でindecentの塊であり、この20年超は、そういう政治家もまた数百人規模で生みだしたというだけの事なのではないか。
工程表は新築家屋の納期とは違う。生活の場を奪われ避難を余儀なくされた約10万人の住民の帰宅や生活再建がかかる。最悪の事態もあえて示す現状認識への厳しさを欠いては説得力もなく住民は気をもむばかりだ。
事態の深刻さを直視したうえ、そうならない手立てを幾重にも講じる複線的で現実感のある工程表でなくてはならない。
東京電力の情報の出し方は危機感に乏しい。今月15日、事故発生から2ヵ月たって1号機の炉心溶融を認めたが、多くの専門家は事故直後から指摘していた。恵只工業大学のニノ方寿教授は「東電も(炉心溶融などの深刻な事態は)従来の工程表が示された時期にはすでにわかっていたはずだ」という。悪い知らせは確認されるまで口にしない。そんな姿勢が不信につながる。
17日の記者会見で、認識の甘さを問われ、東電の武藤栄副社長は「炉心溶融は工程表に影響しない」と言い切った。首をかしげざるを得ない。核燃料がほぼ無傷なのと、溶け落ちたのとでは事故の性格が違うのは明らかだ。
工程表は、菅首相が東電に作成を指示、1ヵ月で修正した。なぜ政府と東電が事故収束のため組織した統合対策室の名で公表しないのか。東電への丸投げで政府のかかわりが見えないのでは、周辺住民や国民の信頼を得るには遠い。
(編集委員 滝順一)
講談社・1785円/しんぽ・ゆういち 61年生まれ。作家。『ホワイトアウト』『奪取』『覇王の番人』など。
戦国時代の隠れた一面を照射
江戸川乱歩賞作家の手になる、戦国時代小説の第二弾である。
江戸時代に比べて、この時代は信頼すべき文献史料が少なく、考証的にもめんどうといわれるが、常に未開の土地の開墾に挑戦する、著者らしい選択といえよう。
本書の主人公細川政元は、応仁の乱で東軍の総帥を務めた細川勝元の息子である。
織田信長に先駆ける、変わり者の武将だった、と伝えられる政元の、聡明丸と呼ばれた子供のころから、家臣によって暗殺されるまでの41年の生涯が、独自の手法と語り口で、淡々とつづられる。
著者は、政元自身の視点をあえて排除し、政元に関わる人びとの目を通して、上下左右さまざまな角度から、その人物像を浮かび上がらせるという、凝った手法を採った。
政元の後見役を務める、分家・典厩家の当主、細川政国。腹違いの姉で、政元がひそかに思慕する安喜こと尼僧の洞勝。
政元の重臣、香西元長と安富元家。
将軍足利義政の妻で、裏で隠然たる権力を振るう日野富子。
そうした人びとの視点から、政元の茫洋かつ超然とした人物像が、印象的に描き出される。
修験道に凝り、生涯、妻を持たなかった政元の生き方は、表面的には勝手気ままと受け取られよう。
政元が何を考えているのか、読者にも分からない。
そこから、いかなる人物像を思い描くかは、読者の判断と解釈にゆだねられる、といった風情である。
政元は、決して表舞台に立とうとせず、つねに冷静に人の器量を評価し、それによって人を自在に動かす。
その本領は、足利将軍の首をすげ替える、というところにまで及ぶ。
著者の本意は、戦国活劇を書くことにはなかっただろう。
政元という多分に奇矯な人物を核にして、戦国時代の隠れた一面を照射するのが、真の狙いと思われる。
そこには、今の政局の混乱に通じるものもあって、終始興味深く読まされた。
評・逢坂 剛 作家
灼熱の中で作られる明珍火箸
スティービー・ワンダーさんが私のシンセサイザー音楽「月の光」を聴き、来日の折に「会いたい」と訪ねてきた。
お土産に「明珍火箸」を渡すと、すぐに音を聴き、たいそう喜んだ。
あれは何十年前のことだろう。
まだ蒸気機関車の時代、主要駅では燃料や水などを補給するため10分くらいの停車時間があり、弁当以外にも色々と売りに来た。
明珍火箸も姫路駅で停車中、たまさか買い求めただけだ。
東京に帰宅後、鳴らした瞬間の驚きは忘れない。
鋳型に流した鉄器では得られない妙なる音は間違いなく、灼熱の鍛冶屋仕事とともに育まれた本物だった。
1970年、大阪で開かれた万国博覧会では、黒川紀章さん設計の「東芝IHI館」全館の音楽を任された。
今のように音を自分のスタジオで作って持ち込むのではなく、現場で制作した時代、大阪のホテルでの拘束は3ヵ月に及んだ。
空き日を利用し、姫路駅を再訪した。
蒸気機関車は電車にとって代わられ、「もうホームで火箸は売らない。姫路城の売店ならある」という。
姫路城で明珍さんの工房の住所を教わって訪ねると、まさに灼熱地獄、大変な重労働の現場だった。
水風呂が備えてあり、熱に耐えられなくなるたび、ザブンと入る。
原理はサウナと同じだから、健康にいいのか、歴代長生きで「先代は103歳まで生きた」。
当主も健康そのもの、「先祖伝来の妙音といわれるが’、代が進むほど良い音ですよ」と指摘された時は、目からうろこが落ちる気がした。
ある楽器が昔どう弾かれていたかを調べるのは重要でも、製作者も演奏者も現代に生きる以上、いったん自分の体に入り込んで出した音でない限り、音楽にはならない。
私が明珍火箸を使うのも今、この音が素晴らしいと思い、創作に生かせるとの確信からだ。
最初は自作「源氏物語」のロンドン公演の際、ロンドン・フィルの打楽器奏者が雪の降る場面で何本か使った。
次いで司馬遼太郎さん原作のNHKドキュメンタリー番組の「街道をゆく」、さらに山田洋次監督の映画「武士の一分」……と大活躍してきた。
シンセサイザー以外では最も頼りになる楽器である。
以下は、7;00発行の、メルマガとました。
読んで下さい。
パキスタン、米と相互不信 首相訪中、中国に接近
「ニューデリー=岩城聡」
国際テロ組織アルカイダの指導者ウサマ・ビンラディン容疑者の殺害を巡り、パキスタンで反米感情が高まっている。
従来は国際テロ対策で協調してきた両国だったが、パキスタンは事件後、同容疑者を隠匿してきたとの疑惑を米国から突きつけられ、国際社会からも孤立。
パキスタンのギラニ首相は17日から中国を訪問し、同国への接近をちらつかせるなど、米パ間の相互不信が深まりつつある。
パキスタン上下院は14日「米国の(ビンラディン殺害)作戦はパキスタンの主権侵害であり、容認できない」と米国を強く非難する決議を全会一致で採択した。
パキスタンは従来、アフガニスタンに駐留する米軍がパキスタン北西部の部族地域にいる武装勢力を無人機で攻撃するのを事実上黙認してきたが、今回の殺害作戦を受け、自国領への無人機攻撃を即刻停止するよう要求。軍幹部も予定していた訪米を急きよ取りやめ、米国への反発を示した。
米民主党のケリー上院外交委員長は16日、米パ間の緊張を和らげるためパキスタンを訪問。
ザルダリ大統領やギラニ首相、軍幹部と会談した。
その内容は明らかにされていないが、地元報道によると「同盟維持」を訴えたケリー氏に対し、パキスタン側は「軍の激しい感情をぶつけた」という。
パキスタンは従来、対テロ問題で米国と連携する一方、中国とも良好な関係を維持してきたが、米パ関係が冷却化した結果、中パの緊密ぶりが鮮明になりつつある。
中国政府は事件直後から「国際社会はパキスタン政府を理解し、支援すべきだ」などとしきりに同国を擁護した。
17日から訪中するギラニ首相は、胡錦濤国家主席や温家宝首相と会談し、ビンラディン容疑者殺害後の国際情勢やテロ対策などを巡り協議する予定だ。
中国はパキスタンが進める原子力発電所建設への具体的な支援策を打ち出すともいわれる。
パキスタン訪問 米国務長官検討
【ワシントン=中山真】
米国務省のトナー副報道官代行は16日の記者会見で、クリントン国務長官がパキスタンを近く訪問する方向で調整していることを明らかにした。
アフガニスタン・パキスタン担当のグロスマン特別代表が週内にパキスタン入りし、具体的な日程などを協議する。
トナー氏はクリントン長官のパキスタン訪問について「米国とパキスタンとの今後の関係に関する米政府の考えを伝え、2国間の協力に関する戦略的な協議を行う」と説明した。
【ニューデリー=岩城聡」
国際協力機構(JICA)はインドでの日本企業の事業環境改善に的を絞ったインフラ整備支援に乗り出す。
第1弾として今年度内に、日産自動車や東芝などが進出している南部タミルナド州の州都チェンナイに計200億円以上の円借款を供与。
道路や橋梁の整備や、同州政府と日本企業の対話の場も設置する。
今回、円借款で実施するのは、南部オラガダム工業団地から、道路の渋滞が慢性的なチェンナイ市内を迂回して同市北部のエンノール港に向かう道路の新設と既存道路の改修。
事業費は約200億円を見込む。
同工業団地には日産と仏ルノーの合弁工場がある。
日産は欧州に完成車を輸出しているが、市内の渋滞で運搬に時間がかかるなどの問題が指摘されていた。
円借款は、道路新設や既存道路の拡張・舗装、橋梁の架け替えに使われる予定だ。
…前略
3・11の震災以降、〝イラ菅”ぶりが際立っていたという。
事故発生直後、政府に燃料を冷やす外部冷却装置を付ける提案をした元佐賀大学長の上原春男氏は、3月20日、佐賀県選出の国会議員の仲介で、菅首相と直接、電話で話をした。
上原氏は、こう振り返る。
「外部冷却装置について、『決断してください』と訴えたところ、大声で原発についての持論を言われて、結局、とりあってもらえなかった。もしかしたら冷静な判断ができなくなっているのでは、と感じました」
その後、官邸での菅首相のあだ名はいつの間にか〝空き菅(缶)″へ変わっていたという。
「発生当初は東電、官僚、補佐官らがアポを事前に取って官邸の執務室ヘレクに出向いても、『俺はそんな約束、聞いていないぞ』とごねるなど〝イラ菅″を爆発させていた。
だが、次第にレクについていけなくなり、放心したように執務室に引きこもる姿が見られるようになった。
頭が空っぽのような様子から〝空き菅″と呼ばれるようになり、精神状況が心配されていた矢先、浜岡原発で息を吹き返しました」(政府高官)
「浜岡停止表明」がなされた5月6日の夜から、震災以降、自粛していた菅首相の〝美食会合″も解禁となった。
首相動静によれば同日夜、赤坂の中国料理店で約2時間、食事をしている。
そのお相手は、最近、関係悪化が囁かれていた仙谷由人官房副長官だった。
…後略。
*新聞やテレビは、何故か、このような事実を全く報道しない訳であるが、いやはや、全く、何と言う話だろうか。
これこそ、呆れかえる、と言う事だろう。そう思いませんか、梅原大先輩。
私の同級生に気仙沼出身の親友がいた事は、該当の章を観て頂ければお分かりの通り。
気仙沼市長が県=国からの市外、県外への仮設住宅への移転居住要請に対して、気仙沼を愛する地元市民の心情を最優先して、毅然として、それは話の進め方が違う。
市は、地元民の気持ちを優先して、市内で用地確保に努める。
街から40kmも50kmも離れた所に、誰が行くんですか。
仮設住宅での暮しは2年、3年以上かかるでしょう。と。
私の該当の章を読んで頂ければ一読で分かると思うが、気仙沼は、伊達に三陸リアス式海岸国立公園ではない、極めて美しい街なのです。
海の美しさと豊穣さは尋常ではない。
漁業従事者が、ここの海は豊穣なんだ、絶対に離れないと答えていたが、それは全くその通りだろう。
何からかにまで自分の延命で頭が一杯の人間が、今度は、「お盆までには、仮設住宅を建設する」と言ったからと言って、そんな、およそ全ての事に於いて、何の戦略も、構想もなく、ただ、ただ、己の保身、権力維持。
その為なら、どんな嘘を付くことも厭わないという、巷に巣くう悪党どもと一体、どこがどう違うのか、と言いたいぐらいな事が、今日発売の、週刊朝日にも、掲載されている。
新聞やテレビは報じない、事実=真実の数々だ。
そんな人間の為に、世界が今でも称賛している東北人、気仙沼市民は、YESを言う必要はない。
ましてや市民政治家であるということを唯一の売りにしているポリティシャンじゃないか。
市民の気持ちは一番良く分かっているはずじゃないか。
それともなにか、市民政治家という自称も、自分を売り込むためだけのものだったということか。
本部はビジョンを明確に
日本のものづくりの「現場」には、品質の高い商品を安く、効率よくつくるという普遍的な目標が常にある。
戦後の復興期から高度成長期にかけて、日本の組織は「本部(本社)」が明確な目標を定め、現場は目標に向かってチーム一丸となることが多かった。
それが欧米に肩を並べてからは日本企業の「本部」はどこへ行けばいいのかという戦略目標が定められなくなった。
その結果、一部の優良企業は別として、バブル崩壊後の日本企業は「強い現場、弱い本部」が定着した。
一方、米国企業は「弱い現場、強い本部」が一般的で、その典型はゼネラルーモーターズ(GM)など苦境に陥った米国の自動車メーカーだった。
日本の社会も企業も目指すべきは「強い現場(の維持)、強い本部」だ。
大震災後の日本企業の多くは「現場の復旧」という目標に向かって現場も本部も強かった。
だが政府の本部機能には混乱が生じた。
今後、復興に向けて歩み出すとき、本部がビジョンとそれを実現するための戦術を明確にする必要がある。
Nobody told me there'd be days like these
Nobody told me there'd be days like these
Strange days indeed -- most peculiar, mama
Everyone's a winner and nothing left to lose
There's a little yellow idol to the north of Katmandu
Everybody's flying and no one leaves the ground
Everybody's crying and no one makes a sound
There's a place for us in the movies you just gotta lay around