芥川は、今、悪人論を書きだそうとしているのだが、源信を否定することは既述の通り。
悪人に対しては、例えば、イスラム教の罰…ひとのものを盗んだ者は両手を落とす、と言った明確な罰。
信長、秀吉、家康殿の時代なら、どんなものだったかは言うまでもない事。
(岩波新書・800円)
▼ふじい・しょうぞう 52年生まれ。東京大教授。著書に 『村上春樹のなかの中国』など。
寂寥感に引かれ現代性伝える
著者は魯迅の短編「故郷」を小学生の時に読み、この小説に漂う底知れぬ暗さに引き寄せられ、大学入学以来、一貫して魯迅研究に没頭してきたという。私も「故郷」を読んでみたのだが、ひたぶるに哀しい。故郷の旧居を手放さざるをえなくなった「僕」が母と甥を異郷に辿れ出すための最後の帰郷の物語である。
しかし、そこでみたものは、幼少の頃の面影をまるで残すことなく、零落し愚民となった人々であった。故郷喪失が深い寂寥感をもって描かれている。小学生の著者の心を捉えたものが魯迅に固有なこの寂寥感であったとすれば、著者は運命づけられて魯迅研究の糸を紡いできたのにちがいない。
「狂人日記」「阿Q正伝」などはただ薄気味悪いだけの小説だと思っていたのだが、それでもたまには書庫から取り出して読み耽ることがある。どうしてなのかはわからないが、わが内なる「狂人」や「阿Q」が時に私を魯迅に引き戻すのであろうか。著者はいう。
「阿Qとは当時の中国人の多くを占める下層農民ばかりでなく、欧化途上にあった北京など都市の民衆、さらには魯迅自身をも含めた国民国家成立途上の中国人の国民性を、厳しい批判と深い共感を以て描いているのである」
どうしようもなく愚昧で惰弱なる民衆を軽蔑しつつ、しかし同時に哀切の眼をもって彼らを描写するというのが魯迅の手法である。著者は「伝統を否定しながら現代にも深い疑念を抱いて迷走する」人物が魯迅だったといっているのだが、秀逸な表現である。
ノーベル平和賞を授与された劉暁波氏の中に魯迅の影を見出している中国人が多いという。インターネット上で交信される魯迅論の中には、「ボロを纏った阿Qは村にも町にもいるし、ブランド物のスーツを着た阿Qは豪邸でよろしくやっている」といった類の批判的言辞がしばしば登場しているらしい。
近代化の途上にあってその課題の容易ならざるを知らされている近隣アジア諸国にとっても、魯迅はけっして過去の人ではない。このことを著者はふくよかな記述で私達に伝えてくれる。
評:拓殖大学学長 渡辺 利夫
▼ふじい・しょうぞう 52年生まれ。東京大教授。著書に 『村上春樹のなかの中国』など。
寂寥感に引かれ現代性伝える
著者は魯迅の短編「故郷」を小学生の時に読み、この小説に漂う底知れぬ暗さに引き寄せられ、大学入学以来、一貫して魯迅研究に没頭してきたという。私も「故郷」を読んでみたのだが、ひたぶるに哀しい。故郷の旧居を手放さざるをえなくなった「僕」が母と甥を異郷に辿れ出すための最後の帰郷の物語である。
しかし、そこでみたものは、幼少の頃の面影をまるで残すことなく、零落し愚民となった人々であった。故郷喪失が深い寂寥感をもって描かれている。小学生の著者の心を捉えたものが魯迅に固有なこの寂寥感であったとすれば、著者は運命づけられて魯迅研究の糸を紡いできたのにちがいない。
「狂人日記」「阿Q正伝」などはただ薄気味悪いだけの小説だと思っていたのだが、それでもたまには書庫から取り出して読み耽ることがある。どうしてなのかはわからないが、わが内なる「狂人」や「阿Q」が時に私を魯迅に引き戻すのであろうか。著者はいう。
「阿Qとは当時の中国人の多くを占める下層農民ばかりでなく、欧化途上にあった北京など都市の民衆、さらには魯迅自身をも含めた国民国家成立途上の中国人の国民性を、厳しい批判と深い共感を以て描いているのである」
どうしようもなく愚昧で惰弱なる民衆を軽蔑しつつ、しかし同時に哀切の眼をもって彼らを描写するというのが魯迅の手法である。著者は「伝統を否定しながら現代にも深い疑念を抱いて迷走する」人物が魯迅だったといっているのだが、秀逸な表現である。
ノーベル平和賞を授与された劉暁波氏の中に魯迅の影を見出している中国人が多いという。インターネット上で交信される魯迅論の中には、「ボロを纏った阿Qは村にも町にもいるし、ブランド物のスーツを着た阿Qは豪邸でよろしくやっている」といった類の批判的言辞がしばしば登場しているらしい。
近代化の途上にあってその課題の容易ならざるを知らされている近隣アジア諸国にとっても、魯迅はけっして過去の人ではない。このことを著者はふくよかな記述で私達に伝えてくれる。
評:拓殖大学学長 渡辺 利夫
リサイクルや海底資源に注目
尖閣諸島中国漁船衝突事件に端を発した中国のレアアース対日輸出制限、福島第一原発事故による電力供給問題は、我々に資源に対する考え方を根本的に見直すように迫っている。本書は東日本大震災の直前に書かれたものだが、そういった問題意識にまさに応えてくれる本だ。
著者は江戸のリサイクル技術に学べと提唱している。資源リスクが問われている現代日本にとっては、「今後、江戸の人々のように、身の回りにある資源をいかに有効活用していくかという視点が必要になる」。
家電製品類に使われている金属資源をリサイクルできれば、それは「都市鉱山」となる。その金・銀の蓄積量を、海外の地下埋蔵量と比較すれば、日本は世界1位だという。また、日本の広大な排他的経済水域にある海底鉱床には膨大なレアアースが存在し、黒潮が運んでくる海水にも大量のリチウム、ウラン、コバルトが含まれている。
それらからの採鉱を可能とする技術を生む日本人の「英知」も資源と考えるなら、日本は間違いなく「世界一の資源大国」になると著者は力説している。
その実現には、更なる技術開発、関係者の横の連携、法改正等を早急に進める必要がある。課題も多いが、著者の前向きな主張は読者の気持ちを明るくしてくれる。(講談社プラスアルファ新書・880円)
評:加藤出(エコノミスト)
尖閣諸島中国漁船衝突事件に端を発した中国のレアアース対日輸出制限、福島第一原発事故による電力供給問題は、我々に資源に対する考え方を根本的に見直すように迫っている。本書は東日本大震災の直前に書かれたものだが、そういった問題意識にまさに応えてくれる本だ。
著者は江戸のリサイクル技術に学べと提唱している。資源リスクが問われている現代日本にとっては、「今後、江戸の人々のように、身の回りにある資源をいかに有効活用していくかという視点が必要になる」。
家電製品類に使われている金属資源をリサイクルできれば、それは「都市鉱山」となる。その金・銀の蓄積量を、海外の地下埋蔵量と比較すれば、日本は世界1位だという。また、日本の広大な排他的経済水域にある海底鉱床には膨大なレアアースが存在し、黒潮が運んでくる海水にも大量のリチウム、ウラン、コバルトが含まれている。
それらからの採鉱を可能とする技術を生む日本人の「英知」も資源と考えるなら、日本は間違いなく「世界一の資源大国」になると著者は力説している。
その実現には、更なる技術開発、関係者の横の連携、法改正等を早急に進める必要がある。課題も多いが、著者の前向きな主張は読者の気持ちを明るくしてくれる。(講談社プラスアルファ新書・880円)
評:加藤出(エコノミスト)
これは、先週日曜日、日経読書欄に載った作品。これも書評の競演となった。
都甲幸治・久保尚美訳、新潮社・2520円/Junot Diaz 68年ドミニカ生まれ。本作でピュリツァー賞。
評・松永 美穂 早稲田大学教授・ドイツ文学
ぶっ飛んだ、というのが率直な感想。すごい小説、いや、タイトルの言葉を借りれば「凄まじい」小説だ。
その理由はいくつも挙げることができる。まず、物語に途方もない力があって、読者をぐいぐい引っ張っていくのだ。主人公オスカーはニュージャージーで育ったドミニカ系の青年だが、彼のライフ・ヒストリーに加えて、彼の姉、母、祖父たちの物語も語られ、舞台はアメリカとドミニカのあいだを往還する。小説から見えてくるドミニカの現代史もまた、激しく凄まじい。オスカーの家族の年代記は、ドミニカの暗黒時代の記憶と強く結びついている。
次に、語りの文体。オスカーに関する部分で繰り出されるゲームやアニメの知識が半端ではない。SF映画の登場人物が次々と比喩に使われたりするのだが、翻訳ではその一つ一つに丁寧に割り注がつけられている。オタクっぽい語り手のノリのいい文体にも驚かされるが、そこにちりぱめられた情報を親切に解説する訳者の努力に脱帽した。しかも、原文は英語のはずなのに出てくるスペイン語の量も相当なもので、これらをルビで示しつつ訳し抜いているのにも敬服させられる。
日本への言及がしばしば見られる不思議な小説でもある。オスカーがアニメ『AKIRA』の大ファンなのでその登場人物の名前が出てくるのは当然として、オスカーの姉も日本へ行く計画を立てるし、作者による巻末の謝辞には下北沢という地名が挙がっている。日本のアニメ文化がこんなふうに米国の若者の日常と結びついていることに新鮮な驚きを覚えた。
それにしても、これほどセックスと暴力に満ちた物語でありながら、信じられないほどの純愛小説でもあり、軽そうに見えて重く、深い。最後まで読んで構成の巧みさに気づかされ、呪いや絶望に打ち克つ文学の力を感じて、もう一度ぶっ飛んだ。
都甲幸治・久保尚美訳、新潮社・2520円/Junot Diaz 68年ドミニカ生まれ。本作でピュリツァー賞。
評・松永 美穂 早稲田大学教授・ドイツ文学
ぶっ飛んだ、というのが率直な感想。すごい小説、いや、タイトルの言葉を借りれば「凄まじい」小説だ。
その理由はいくつも挙げることができる。まず、物語に途方もない力があって、読者をぐいぐい引っ張っていくのだ。主人公オスカーはニュージャージーで育ったドミニカ系の青年だが、彼のライフ・ヒストリーに加えて、彼の姉、母、祖父たちの物語も語られ、舞台はアメリカとドミニカのあいだを往還する。小説から見えてくるドミニカの現代史もまた、激しく凄まじい。オスカーの家族の年代記は、ドミニカの暗黒時代の記憶と強く結びついている。
次に、語りの文体。オスカーに関する部分で繰り出されるゲームやアニメの知識が半端ではない。SF映画の登場人物が次々と比喩に使われたりするのだが、翻訳ではその一つ一つに丁寧に割り注がつけられている。オタクっぽい語り手のノリのいい文体にも驚かされるが、そこにちりぱめられた情報を親切に解説する訳者の努力に脱帽した。しかも、原文は英語のはずなのに出てくるスペイン語の量も相当なもので、これらをルビで示しつつ訳し抜いているのにも敬服させられる。
日本への言及がしばしば見られる不思議な小説でもある。オスカーがアニメ『AKIRA』の大ファンなのでその登場人物の名前が出てくるのは当然として、オスカーの姉も日本へ行く計画を立てるし、作者による巻末の謝辞には下北沢という地名が挙がっている。日本のアニメ文化がこんなふうに米国の若者の日常と結びついていることに新鮮な驚きを覚えた。
それにしても、これほどセックスと暴力に満ちた物語でありながら、信じられないほどの純愛小説でもあり、軽そうに見えて重く、深い。最後まで読んで構成の巧みさに気づかされ、呪いや絶望に打ち克つ文学の力を感じて、もう一度ぶっ飛んだ。
(栗原泉訳、白水社・2600円)
▼著者は69年米国ミズーリ州生まれ。ブリジストン大卒のジャーナリスト。
評者:早稲田大学准教授 阿古智子
激しく変化する国、人々を活写
本書は2001-09年、雑誌ニューヨーカー北京特派員などの身分で中国に滞在した著者が記す「物語風ノンフィクション」だ。
構成は3部から成る。1部は愛用のレンタカー、チェロキー7250型「シティ・スペシャル」で北京から万里の長城をたどり、嘉昭関を越えてチベット高原を走り抜けた経験を、2部はセカンドハウスを借りて暮らした北京北部の農村での生活を、3部は南部の小都市・麗水市での起業家や出稼ぎ労働者との交流を描く。
情景の描写がていねいで、読み進めながら、まるでロードムービーを観ているかのように感じた。登場人物はコメディー映画のキャラクターのように愛らしく、個性的だ。著者の人に対するやさしいまなざし、感情の起伏を鋭く読み取る感性がこうした人々との出会いを可能にしたのだろう。
登場人物は自分で力強く道を切り開いていく。政治運動からは何も得られない、政府に頼ることなく別の方法でのし上がることが賢明だと有能な中国人たちは知っているからだ。彼らは利用できるものは何でも利用する。特に「関係」を駆使しなければ中国では生き残ることができない。
農村から出てきた雑技団は、届出もせず、改装したトラックを無免許で運転しながら、出稼ぎ労働者の受けを狙い、ヌードショーやお涙頂戴ものの劇を見せる。姉の身分証で年齢を偽り工場で仕事を得た少女は、今では新米工の2倍以上の給料を稼ぎ、おしゃれを楽しんでいる。字も読めない組み立てラインエは、熟練技術工を経て従業員10人の会社を立ち上げた。
しかし、猛スピードで変化する社会で、方向感覚を失う人もいる。著者は「発展には反対しない」が「個人の内面的な動揺こそ、もっとも深刻な問題ではないか」。人々は「他人と意味のあるつながりを持ちたいと願っている」と考える。
激しく動く中国を立ち止まってじっくり見据えるのは容易ではない。本書のように、地元の人々と生活の苦労と喜びを分かち合いながらも、フリーの立場で、周囲から一定の距離を確保して得られる視点は、中国を芯の部分で理解するために非常に重要である。
▼著者は69年米国ミズーリ州生まれ。ブリジストン大卒のジャーナリスト。
評者:早稲田大学准教授 阿古智子
激しく変化する国、人々を活写
本書は2001-09年、雑誌ニューヨーカー北京特派員などの身分で中国に滞在した著者が記す「物語風ノンフィクション」だ。
構成は3部から成る。1部は愛用のレンタカー、チェロキー7250型「シティ・スペシャル」で北京から万里の長城をたどり、嘉昭関を越えてチベット高原を走り抜けた経験を、2部はセカンドハウスを借りて暮らした北京北部の農村での生活を、3部は南部の小都市・麗水市での起業家や出稼ぎ労働者との交流を描く。
情景の描写がていねいで、読み進めながら、まるでロードムービーを観ているかのように感じた。登場人物はコメディー映画のキャラクターのように愛らしく、個性的だ。著者の人に対するやさしいまなざし、感情の起伏を鋭く読み取る感性がこうした人々との出会いを可能にしたのだろう。
登場人物は自分で力強く道を切り開いていく。政治運動からは何も得られない、政府に頼ることなく別の方法でのし上がることが賢明だと有能な中国人たちは知っているからだ。彼らは利用できるものは何でも利用する。特に「関係」を駆使しなければ中国では生き残ることができない。
農村から出てきた雑技団は、届出もせず、改装したトラックを無免許で運転しながら、出稼ぎ労働者の受けを狙い、ヌードショーやお涙頂戴ものの劇を見せる。姉の身分証で年齢を偽り工場で仕事を得た少女は、今では新米工の2倍以上の給料を稼ぎ、おしゃれを楽しんでいる。字も読めない組み立てラインエは、熟練技術工を経て従業員10人の会社を立ち上げた。
しかし、猛スピードで変化する社会で、方向感覚を失う人もいる。著者は「発展には反対しない」が「個人の内面的な動揺こそ、もっとも深刻な問題ではないか」。人々は「他人と意味のあるつながりを持ちたいと願っている」と考える。
激しく動く中国を立ち止まってじっくり見据えるのは容易ではない。本書のように、地元の人々と生活の苦労と喜びを分かち合いながらも、フリーの立場で、周囲から一定の距離を確保して得られる視点は、中国を芯の部分で理解するために非常に重要である。
今日は、同じ本が、朝日と日経で書評競演のような趣きだった。先ずは、朝日から。
栗原泉訳、白水社・2730円/PeterHessler 69年生まれ。米国のフリージャーナリスト。 90年代に中国・四川省で2年間、英語教師をし、2000~07年、「ニューヨーカー」北京特派員を務め、08年、全米雑誌賞を受賞。
評者:楊 逸(作家)
道なき道を進み 淡々と事実のみ
中国が疾走し始めた1990年代の後半に一度、2年ぶりに帰省したことがあった。ハルビン駅から家までタクシーでわずか10分ほどの道のりだが、陸橋が何本も重なるように造られ、両側のボロ家も立派な欧風マンションに変わっていた。知らない町にでも迷い込んだようで、何が起きたのか事態をつかめずに戸惑った。
それからというもの、東京にいながらにして我が母国を片時も目を離さずに見つめてきた。それで分かったこともあれば、かえって疑問が深まることもある。むろん後者の方が多いようだ。
国外にいる中国人という私と対照的な立場で、あえて中国に出向き、社会の最底辺に潜り込み、貧しい人々と暮らしを共にしながら、笑いも怒りも共有できた「よそ者」もいた。アメリカ人のフリージャーナリストで、2000年から07年まで「ニューヨーカー」北京特派員だった著者だ。
「長城」「村」「工場」という3部構成の本書は、どこから読み始めても良いが、合わせて読むことで、中国像がより立体的かつ躍動的に浮き上かってくるのだ。
01年、中国に着いて1年足らずの著者は、さっそく車の免許を取り、レンタカーで「長城」に沿って西を目指した。途中で、ヒッチハイクする農民を乗せたり、車が立ち往生して困る人を助けたりしながら、愚直なほど道なき道を突き進んだ。
挫折を食らわされても、再度挑戦しついにチベット高原に入ることができた。過酷な旅の中で出会った人や村、歴史や現実、どれも、途切れ途切れの長城のように、砂に埋もれようとして、危機的な状態にある。
「長城」の確固たるイメージと裏腹に、中華民族の臆病な本質が見え隠れした。
その後、著者は長城の麓にある「村」に居を構えて住むことに。
若者が都市へ出稼ぎで消え、子どもがたった一人しかいない長閑(のどか)なこの村も、道路建設によって開発の波にさらされる。そんな中、残った中高年者による権力闘争が繰り広げられていた。
一方で南の、温州商人が名を恥せる浙江では、開発ラッシュが始まっていた。切り拓いた山に「工場」が建つなり、成り金経営者も出稼ぎ農民も忽ち集まってくる。15歳の少女が、年齢をごまかして工員として働くことも。
先入観が先走りする中国ルポが多い中、淡々と事実のみを語る本書の、嫌みも澱みもない口調に、疾走ぶりの凄まじさが一層際立ってくる。数字上では日本を抜いて世界第二の経済大国になった中国。環境汚染をはじめとする様々な問題が深刻化する一方だ。中国人の触れようとしないこれらの問題を、本書は取り上げた。
栗原泉訳、白水社・2730円/PeterHessler 69年生まれ。米国のフリージャーナリスト。 90年代に中国・四川省で2年間、英語教師をし、2000~07年、「ニューヨーカー」北京特派員を務め、08年、全米雑誌賞を受賞。
評者:楊 逸(作家)
道なき道を進み 淡々と事実のみ
中国が疾走し始めた1990年代の後半に一度、2年ぶりに帰省したことがあった。ハルビン駅から家までタクシーでわずか10分ほどの道のりだが、陸橋が何本も重なるように造られ、両側のボロ家も立派な欧風マンションに変わっていた。知らない町にでも迷い込んだようで、何が起きたのか事態をつかめずに戸惑った。
それからというもの、東京にいながらにして我が母国を片時も目を離さずに見つめてきた。それで分かったこともあれば、かえって疑問が深まることもある。むろん後者の方が多いようだ。
国外にいる中国人という私と対照的な立場で、あえて中国に出向き、社会の最底辺に潜り込み、貧しい人々と暮らしを共にしながら、笑いも怒りも共有できた「よそ者」もいた。アメリカ人のフリージャーナリストで、2000年から07年まで「ニューヨーカー」北京特派員だった著者だ。
「長城」「村」「工場」という3部構成の本書は、どこから読み始めても良いが、合わせて読むことで、中国像がより立体的かつ躍動的に浮き上かってくるのだ。
01年、中国に着いて1年足らずの著者は、さっそく車の免許を取り、レンタカーで「長城」に沿って西を目指した。途中で、ヒッチハイクする農民を乗せたり、車が立ち往生して困る人を助けたりしながら、愚直なほど道なき道を突き進んだ。
挫折を食らわされても、再度挑戦しついにチベット高原に入ることができた。過酷な旅の中で出会った人や村、歴史や現実、どれも、途切れ途切れの長城のように、砂に埋もれようとして、危機的な状態にある。
「長城」の確固たるイメージと裏腹に、中華民族の臆病な本質が見え隠れした。
その後、著者は長城の麓にある「村」に居を構えて住むことに。
若者が都市へ出稼ぎで消え、子どもがたった一人しかいない長閑(のどか)なこの村も、道路建設によって開発の波にさらされる。そんな中、残った中高年者による権力闘争が繰り広げられていた。
一方で南の、温州商人が名を恥せる浙江では、開発ラッシュが始まっていた。切り拓いた山に「工場」が建つなり、成り金経営者も出稼ぎ農民も忽ち集まってくる。15歳の少女が、年齢をごまかして工員として働くことも。
先入観が先走りする中国ルポが多い中、淡々と事実のみを語る本書の、嫌みも澱みもない口調に、疾走ぶりの凄まじさが一層際立ってくる。数字上では日本を抜いて世界第二の経済大国になった中国。環境汚染をはじめとする様々な問題が深刻化する一方だ。中国人の触れようとしないこれらの問題を、本書は取り上げた。
芥川が嵐山をこよなく愛している事は読者の方は御存じの通り。
標題の寺だけは行かないで来たのだが、先日、ネットで確認して見て驚き、これは行かねばならぬ、と。
小倉山の麓は化野という。この辺りは都の西の風靡の地(無常所)であった。都の東では鳥辺野が風葬の地であった。
都の東・鴨(川)の河原や鳥辺野の無縁仏は六波羅密寺(京都市東山区)に集め供養されたが、この辺り化野の無縁仏はこの念仏寺の草創で供養されることになる。
弘法大師は、弘仁二年(811)化野の風葬の惨めさめを知り、五智山如来寺をつくり里人に土葬という埋葬を教えた。その後、法然上人がここに念仏道場を開いたことから化野念仏寺と呼ばれることになった。
現在の建物は江戸時代の始め(正徳2年・1712)に再建されたもので、明治に入りさらに化野に散在していた無縁仏、石仏、石像約8,000体を集め今日の形に供養するようになった。毎年8月23・24の両日に千灯供養が行われる。数多い石仏に一斉にろうそくが点灯される。
http://www.kyotokanko.co.jp/shiseki/adashino.htmlから。
標題の寺だけは行かないで来たのだが、先日、ネットで確認して見て驚き、これは行かねばならぬ、と。
小倉山の麓は化野という。この辺りは都の西の風靡の地(無常所)であった。都の東では鳥辺野が風葬の地であった。
都の東・鴨(川)の河原や鳥辺野の無縁仏は六波羅密寺(京都市東山区)に集め供養されたが、この辺り化野の無縁仏はこの念仏寺の草創で供養されることになる。
弘法大師は、弘仁二年(811)化野の風葬の惨めさめを知り、五智山如来寺をつくり里人に土葬という埋葬を教えた。その後、法然上人がここに念仏道場を開いたことから化野念仏寺と呼ばれることになった。
現在の建物は江戸時代の始め(正徳2年・1712)に再建されたもので、明治に入りさらに化野に散在していた無縁仏、石仏、石像約8,000体を集め今日の形に供養するようになった。毎年8月23・24の両日に千灯供養が行われる。数多い石仏に一斉にろうそくが点灯される。
http://www.kyotokanko.co.jp/shiseki/adashino.htmlから。
週刊ポストは、今回の様な特集記事の前に、ページを開いた冒頭からエロ漫画が連載されている様な、或る面で、凄まじい週刊誌なのである。
何故、現政権は、これほどに怯えて、それを打ち消すために、お得意の場当たり発言と言うか、唐突な発表を為したりるのか。
世論を操作する者は世論に怯える。世の嘘つきや悪党どもと同じ精神構造だろう。
週刊朝日(29万部)、ニューズ・ウィーク(9万部)が、幾ら完璧な実証、検証を為した記事を書いて批判した所で、大したことはない。何故ならば、新聞に波及することを食い止めさへすれば良い。この世界は、基本的には俺たちの味方。
ところが、ポストは違うのだな。
日本全国津々裏々のコンビニに置いてある週刊誌で、上記二誌とは比較にならない発行部数を誇っているから、広告も金に糸目はつけず、有権者の大半が必ず目にすると言っても過言ではない。
おまけに、自分たちが統御できる相手ではない。…そこで記事を書く多くの者はフリーランス…その大半は、エリート新聞記者の対極に居る者が殆どだろう。
世論というセンチメントで成りたっている様な政権は、世論と言うセンチメントを恐れる。
何故、現政権は、これほどに怯えて、それを打ち消すために、お得意の場当たり発言と言うか、唐突な発表を為したりるのか。
世論を操作する者は世論に怯える。世の嘘つきや悪党どもと同じ精神構造だろう。
週刊朝日(29万部)、ニューズ・ウィーク(9万部)が、幾ら完璧な実証、検証を為した記事を書いて批判した所で、大したことはない。何故ならば、新聞に波及することを食い止めさへすれば良い。この世界は、基本的には俺たちの味方。
ところが、ポストは違うのだな。
日本全国津々裏々のコンビニに置いてある週刊誌で、上記二誌とは比較にならない発行部数を誇っているから、広告も金に糸目はつけず、有権者の大半が必ず目にすると言っても過言ではない。
おまけに、自分たちが統御できる相手ではない。…そこで記事を書く多くの者はフリーランス…その大半は、エリート新聞記者の対極に居る者が殆どだろう。
世論というセンチメントで成りたっている様な政権は、世論と言うセンチメントを恐れる。
この間から、朝日新聞日曜読書欄で、佐藤優と「カラマーゾフの兄弟」を読む、という連載が続いている。
…前略。
それは「メメント・モーリ。死を忘れるな」という態度だという。「生きているということは、死に近づくということにほかならない。いかに生きるかとはすなわち、いかに死ぬかということ。死を忘れるな。そして、善く生きろ。著者のメッセージだ」
…後略。
この佐藤優の解説は、私たちの国のトップから巷にウヨウヨしている悪党どもや小智を振りかざしているものたち全てにこそ届けられるべき言葉だろう。
この世に棲息する嘘つきや人の金を掠め取って平然としている悪党どもに。ありとあらゆる欲の塊の悪党どもに対してだ。
言っても分からぬのが悪党たるゆえんである訳だが。
源信よ、あんたは間違っている。悪党は、三途の河原で、先ず、ぞの舌を抜かれる事だけは芥川は、知っている。
その後に、閻魔大王が、どんな責め苦を与えるのかをこそ、あなたは書くべきだった。
悪党どもの、その醜い欲の度合いに応じて、閻魔大王は、責め苦を与えるのだと。
勿論、弓削の道鏡まがいの事を為して国を誤らせ続けた様な類も、しかりなのだ。
…前略。
それは「メメント・モーリ。死を忘れるな」という態度だという。「生きているということは、死に近づくということにほかならない。いかに生きるかとはすなわち、いかに死ぬかということ。死を忘れるな。そして、善く生きろ。著者のメッセージだ」
…後略。
この佐藤優の解説は、私たちの国のトップから巷にウヨウヨしている悪党どもや小智を振りかざしているものたち全てにこそ届けられるべき言葉だろう。
この世に棲息する嘘つきや人の金を掠め取って平然としている悪党どもに。ありとあらゆる欲の塊の悪党どもに対してだ。
言っても分からぬのが悪党たるゆえんである訳だが。
源信よ、あんたは間違っている。悪党は、三途の河原で、先ず、ぞの舌を抜かれる事だけは芥川は、知っている。
その後に、閻魔大王が、どんな責め苦を与えるのかをこそ、あなたは書くべきだった。
悪党どもの、その醜い欲の度合いに応じて、閻魔大王は、責め苦を与えるのだと。
勿論、弓削の道鏡まがいの事を為して国を誤らせ続けた様な類も、しかりなのだ。