文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

ふーん。安倍外交に成功は一つもないのだそうです。倉重篤郎のサンデー時評(サンデー毎日) 赤かぶ

2022年07月14日 23時10分45秒 | 全般

以下は阿比留瑠比氏のツイートからである。
@YzypC4F02Tq5lo0
ふーん。安倍外交に成功は一つもないのだそうです。
……安倍政権はこのままでいいのか! 安倍外交は「100年の禍根を残す」
倉重篤郎のサンデー時評(サンデー毎日) 赤かぶ http://asyura2.com/18/senkyo249/msg/839.html

 


安倍反対=正義の番組に食傷…さる大学のドアには「安倍、死ね」と貼られていた。

2022年07月14日 23時02分32秒 | 全般

以下は今日の産経新聞「正論」に、安倍晋三元首柤の葬儀を国葬に、と題して掲載された平川祐弘東京大学名誉教授の論文からである。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
見出し以外の文中強調は私。
日本の最大の世界的政治家 
安倍晋三元首相が凶弾に倒れ、日本は世界に向けて説得的に語り得る希代の大政治家を失った。
安倍氏は伊藤博文以来のわが国が生んだ最大の世界的政治家であった。
ロシアのプーチン大統領すらも個人的な感懐の情を述べずにいられなかった。
モスクワの日本大使館には弔意を示す花束が届けられているという。
これは世界の多くの国の日本大使館で見られることであろう。
安倍氏の死は国家的に、いや国際的にも大損失だ。痛恨の念を禁じ得ない。
日本国は国葬によって安倍氏の非業の死を弔うべきではあるまいか。
なぜ安倍氏は伊藤博文と並んで、世界的大政治家であり得たか。
二人とも世界史の中の日本の位置と進むべき方向がよく見えた例外者であったからである。
具体例に即して説明すると、かつて日本の首相で、その英語演説で相手を沸かせた人は岩倉使節団の副使としてサンフランシスコで大喝采を博した伊藤博文とワシントンの上下両院議員を前に講演した安倍氏の二人だけだった。 
旧暦明治四年十二月十四日、西暦一八七二年一月二十二日の夜、サンフランシスコのグランドホテルで開かれた歓迎晩餐会の席で、岩倉具視大使は烏帽子直垂姿で挨拶し、駐日米国公使デロングが通訳した。
次いで末席副使の伊藤博文が、上席副使の木戸孝允、大久保利通をさしおいて、登壇した。 
満三十歳の伊藤は臆するところなく、はっきりとわかる英語でスピーチを始めた。
「日の丸はもはや日本を封ぜし封蝋(ふうろう)ではなく、昇る朝日である」と開国和親の大方針を巧みな譬(たと)えで述べた。
伊藤はそれまですでに二回にわたり長期に海外体験をしたとはいえ、手紙の封蝋などの英単語は船中で同行の米国人から仕入れた知識だったに相違ない。
平成二十七年、西暦二〇一五年四月二十九日、日本の首相として初めて安倍氏はワシントンで上下両院合同会議でスピーチをした。

「戦争に負けて外交で勝った」吉田茂首相はマッカーサー総司令官と二人で会話する術にはたけていたが、国会演説でもわかるようにスピーチは得意でない。
サンフランシスコ講和会議では日本語で巻紙を繰りながら読み上げた。
その様子はトイレット・ペーパーと揶揄された。
安倍氏の英語スピーチには惚れ惚れとした。
念入りに練られた英文を、安倍氏自身、何度も朗読して訓練したに相違ない。 
その安倍氏の国際感覚はどのようにして磨かれたのか。
父安倍晋太郎外務大臣の若い秘書として広く外国要人と接し、自らも英語を使うことで、相手側の立場や主張を理解したのみならず、日本の立場を外国人にも理解できるよう主張する骨を体得したからか、安倍氏の政治家としての登場を外務省の岡崎久彦が救世主の到来のように喜んだことが思い出される。 

傑出した国際感覚と歴史観 
安倍氏の話し方は日本語でもリズムがあり、テンポがよく、率直で無駄がない。
頭脳の集中力が素晴らしかった。
ワシントンの演説でも硫黄島の激戦に触れたとき満堂が感動した。
戦った海兵隊のスノーデン退役中将と栗林忠道司令官の孫の新藤義孝議員が握手した。
私がさらに良しとしたのは政治家としての歴史観である。
その年の八月十四日に出した『戦後七十年談話』がそれで安倍談話は明治日本の努力を肯定する。
「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」 
安倍氏は単細胞の日本至上主義者ではない。
満州事変以来、日本が「進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました」という歴史認識もきちんと述べた。

渋谷区に住む私は一九六〇年六月、ヘリコプターが岸信介首相の私宅の上を飛び交うのを見た。
そのころ幼児だった晋三氏は世間の口まねで祖父の膝の上で「アンポハンタイ」と言っていたそうだ。 
安倍反対=正義の番組に食傷
2015年夏も『朝日『毎日』『東京』などの新聞が反自民党政権のスタンスで「安保法制」反対を訴えた。 
さる大学のドアには「安倍、死ね」と貼られていた。
半世紀前の「安保反対」騒動に比べれぱ、デモに力がなかった。
しかし、テレビが国会周辺のデモのみをクローズ・アップしてあたかも安倍反対だけが正義であるかのごとく報じる番組に食傷した。
「アベ氏ね」式のネット上の扇動は視聴者の意識下にとどまることもある。

今度も渋谷区富ケ谷の空をヘリコプターが飛んだ。
奈良から安倍氏の遺体が運ばれて自宅へ戻った際、撮影をしたのだ。
この一代の大政治家の死を国葬にせずともよいのか。
単なる内閣と自民党の合同葬ですませてよいことか。


 

 


しかし、テレビが国会周辺のデモのみをクローズ・アップしてあたかも安倍反対だけが正義であるかのごとく報じる番組に食傷した

2022年07月14日 22時56分32秒 | 全般

以下は今日の産経新聞「正論」に、安倍晋三元首柤の葬儀を国葬に、と題して掲載された平川祐弘東京大学名誉教授の論文からである。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
見出し以外の文中強調は私。
日本の最大の世界的政治家 
安倍晋三元首相が凶弾に倒れ、日本は世界に向けて説得的に語り得る希代の大政治家を失った。
安倍氏は伊藤博文以来のわが国が生んだ最大の世界的政治家であった。
ロシアのプーチン大統領すらも個人的な感懐の情を述べずにいられなかった。
モスクワの日本大使館には弔意を示す花束が届けられているという。
これは世界の多くの国の日本大使館で見られることであろう。
安倍氏の死は国家的に、いや国際的にも大損失だ。痛恨の念を禁じ得ない。
日本国は国葬によって安倍氏の非業の死を弔うべきではあるまいか。
なぜ安倍氏は伊藤博文と並んで、世界的大政治家であり得たか。
二人とも世界史の中の日本の位置と進むべき方向がよく見えた例外者であったからである。
具体例に即して説明すると、かつて日本の首相で、その英語演説で相手を沸かせた人は岩倉使節団の副使としてサンフランシスコで大喝采を博した伊藤博文とワシントンの上下両院議員を前に講演した安倍氏の二人だけだった。 
旧暦明治四年十二月十四日、西暦一八七二年一月二十二日の夜、サンフランシスコのグランドホテルで開かれた歓迎晩餐会の席で、岩倉具視大使は烏帽子直垂姿で挨拶し、駐日米国公使デロングが通訳した。
次いで末席副使の伊藤博文が、上席副使の木戸孝允、大久保利通をさしおいて、登壇した。 
満三十歳の伊藤は臆するところなく、はっきりとわかる英語でスピーチを始めた。
「日の丸はもはや日本を封ぜし封蝋(ふうろう)ではなく、昇る朝日である」と開国和親の大方針を巧みな譬(たと)えで述べた。
伊藤はそれまですでに二回にわたり長期に海外体験をしたとはいえ、手紙の封蝋などの英単語は船中で同行の米国人から仕入れた知識だったに相違ない。
平成二十七年、西暦二〇一五年四月二十九日、日本の首相として初めて安倍氏はワシントンで上下両院合同会議でスピーチをした。

「戦争に負けて外交で勝った」吉田茂首相はマッカーサー総司令官と二人で会話する術にはたけていたが、国会演説でもわかるようにスピーチは得意でない。
サンフランシスコ講和会議では日本語で巻紙を繰りながら読み上げた。
その様子はトイレット・ペーパーと揶揄された。
安倍氏の英語スピーチには惚れ惚れとした。
念入りに練られた英文を、安倍氏自身、何度も朗読して訓練したに相違ない。 
その安倍氏の国際感覚はどのようにして磨かれたのか。
父安倍晋太郎外務大臣の若い秘書として広く外国要人と接し、自らも英語を使うことで、相手側の立場や主張を理解したのみならず、日本の立場を外国人にも理解できるよう主張する骨を体得したからか、安倍氏の政治家としての登場を外務省の岡崎久彦が救世主の到来のように喜んだことが思い出される。 

傑出した国際感覚と歴史観 
安倍氏の話し方は日本語でもリズムがあり、テンポがよく、率直で無駄がない。
頭脳の集中力が素晴らしかった。
ワシントンの演説でも硫黄島の激戦に触れたとき満堂が感動した。
戦った海兵隊のスノーデン退役中将と栗林忠道司令官の孫の新藤義孝議員が握手した。
私がさらに良しとしたのは政治家としての歴史観である。
その年の八月十四日に出した『戦後七十年談話』がそれで安倍談話は明治日本の努力を肯定する。
「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」 
安倍氏は単細胞の日本至上主義者ではない。
満州事変以来、日本が「進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました」という歴史認識もきちんと述べた。

渋谷区に住む私は一九六〇年六月、ヘリコプターが岸信介首相の私宅の上を飛び交うのを見た。
そのころ幼児だった晋三氏は世間の口まねで祖父の膝の上で「アンポハンタイ」と言っていたそうだ。 
安倍反対=正義の番組に食傷
2015年夏も『朝日『毎日』『東京』などの新聞が反自民党政権のスタンスで「安保法制」反対を訴えた。 
さる大学のドアには「安倍、死ね」と貼られていた。
半世紀前の「安保反対」騒動に比べれぱ、デモに力がなかった。
しかし、テレビが国会周辺のデモのみをクローズ・アップしてあたかも安倍反対だけが正義であるかのごとく報じる番組に食傷した。
「アベ氏ね」式のネット上の扇動は視聴者の意識下にとどまることもある。

今度も渋谷区富ケ谷の空をヘリコプターが飛んだ。
奈良から安倍氏の遺体が運ばれて自宅へ戻った際、撮影をしたのだ。
この一代の大政治家の死を国葬にせずともよいのか。
単なる内閣と自民党の合同葬ですませてよいことか。


 

 


傑出した国際感覚と歴史観…安倍氏の話し方は日本語でもリズムがあり、テンポがよく、率直で無駄がない…頭脳の集中力が素晴らしかった。

2022年07月14日 22時39分02秒 | 全般

以下は今日の産経新聞「正論」に、安倍晋三元首柤の葬儀を国葬に、と題して掲載された平川祐弘東京大学名誉教授の論文からである。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。

見出し以外の文中強調は私。
日本の最大の世界的政治家 
安倍晋三元首相が凶弾に倒れ、日本は世界に向けて説得的に語り得る希代の大政治家を失った。
安倍氏は伊藤博文以来のわが国が生んだ最大の世界的政治家であった。
ロシアのプーチン大統領すらも個人的な感懐の情を述べずにいられなかった。
モスクワの日本大使館には弔意を示す花束が届けられているという。
これは世界の多くの国の日本大使館で見られることであろう。
安倍氏の死は国家的に、いや国際的にも大損失だ。痛恨の念を禁じ得ない。
日本国は国葬によって安倍氏の非業の死を弔うべきではあるまいか。
なぜ安倍氏は伊藤博文と並んで、世界的大政治家であり得たか。
二人とも世界史の中の日本の位置と進むべき方向がよく見えた例外者であったからである。
具体例に即して説明すると、かつて日本の首相で、その英語演説で相手を沸かせた人は岩倉使節団の副使としてサンフランシスコで大喝采を博した伊藤博文とワシントンの上下両院議員を前に講演した安倍氏の二人だけだった。 
旧暦明治四年十二月十四日、西暦一八七二年一月二十二日の夜、サンフランシスコのグランドホテルで開かれた歓迎晩餐会の席で、岩倉具視大使は烏帽子直垂姿で挨拶し、駐日米国公使デロングが通訳した。
次いで末席副使の伊藤博文が、上席副使の木戸孝允、大久保利通をさしおいて、登壇した。 
満三十歳の伊藤は臆するところなく、はっきりとわかる英語でスピーチを始めた。
「日の丸はもはや日本を封ぜし封蝋(ふうろう)ではなく、昇る朝日である」と開国和親の大方針を巧みな譬(たと)えで述べた。
伊藤はそれまですでに二回にわたり長期に海外体験をしたとはいえ、手紙の封蝋などの英単語は船中で同行の米国人から仕入れた知識だったに相違ない。
平成二十七年、西暦二〇一五年四月二十九日、日本の首相として初めて安倍氏はワシントンで上下両院合同会議でスピーチをした。

「戦争に負けて外交で勝った」吉田茂首相はマッカーサー総司令官と二人で会話する術にはたけていたが、国会演説でもわかるようにスピーチは得意でない。
サンフランシスコ講和会議では日本語で巻紙を繰りながら読み上げた。
その様子はトイレット・ペーパーと揶揄された。
安倍氏の英語スピーチには惚れ惚れとした。
念入りに練られた英文を、安倍氏自身、何度も朗読して訓練したに相違ない。 
その安倍氏の国際感覚はどのようにして磨かれたのか。
父安倍晋太郎外務大臣の若い秘書として広く外国要人と接し、自らも英語を使うことで、相手側の立場や主張を理解したのみならず、日本の立場を外国人にも理解できるよう主張する骨を体得したからか、安倍氏の政治家としての登場を外務省の岡崎久彦が救世主の到来のように喜んだことが思い出される。 

傑出した国際感覚と歴史観 
安倍氏の話し方は日本語でもリズムがあり、テンポがよく、率直で無駄がない。
頭脳の集中力が素晴らしかった。
ワシントンの演説でも硫黄島の激戦に触れたとき満堂が感動した。
戦った海兵隊のスノーデン退役中将と栗林忠道司令官の孫の新藤義孝議員が握手した。
私がさらに良しとしたのは政治家としての歴史観である。
その年の八月十四日に出した『戦後七十年談話』がそれで安倍談話は明治日本の努力を肯定する。
「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」 
安倍氏は単細胞の日本至上主義者ではない。
満州事変以来、日本が「進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました」という歴史認識もきちんと述べた。

渋谷区に住む私は一九六〇年六月、ヘリコプターが岸信介首相の私宅の上を飛び交うのを見た。
そのころ幼児だった晋三氏は世間の口まねで祖父の膝の上で「アンポハンタイ」と言っていたそうだ。 
安倍反対=正義の番組に食傷 
二〇一五年夏も『朝日『毎日』『東京』などの新聞が反自民党政権のスタンスで「安保法制」反対を訴えた。
さる大学のドアには「安倍、死ね」と貼られていた。
半世紀前の「安保反対」騒動に比べれぱ、デモに力がなかった。
しかし、テレビが国会周辺のデモのみをクローズーアップしてあたかも安倍反対だけが正義であるかのごとく報じる番組に食傷した。
「アベ氏ね」式のネット上の扇動は視聴者の意識下にとどまることもある。
今度も渋谷区富ケ谷の空をヘリコプターが飛んだ。
奈良から安倍氏の遺体が運ばれて自宅へ戻った際、撮影をしたのだ。
この一代の大政治家の死を国葬にせずともよいのか。
単なる内閣と自民党の合同葬ですませてよいことか。

 


安倍氏の英語スピーチには惚れ惚れとした。念入りに練られた英文を、安倍氏自身、何度も朗読して訓練したに相違ない。その安倍氏の国際感覚はどのようにして磨かれたのか。

2022年07月14日 22時33分18秒 | 全般

以下は今日の産経新聞「正論」に、安倍晋三元首柤の葬儀を国葬に、と題して掲載された平川祐弘東京大学名誉教授の論文からである。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
見出し以外の文中強調は私。
日本の最大の世界的政治家 
安倍晋三元首相が凶弾に倒れ、日本は世界に向けて説得的に語り得る希代の大政治家を失った。
安倍氏は伊藤博文以来のわが国が生んだ最大の世界的政治家であった。
ロシアのプーチン大統領すらも個人的な感懐の情を述べずにいられなかった。
モスクワの日本大使館には弔意を示す花束が届けられているという。
これは世界の多くの国の日本大使館で見られることであろう。
安倍氏の死は国家的に、いや国際的にも大損失だ。痛恨の念を禁じ得ない。
日本国は国葬によって安倍氏の非業の死を弔うべきではあるまいか。
なぜ安倍氏は伊藤博文と並んで、世界的大政治家であり得たか。
二人とも世界史の中の日本の位置と進むべき方向がよく見えた例外者であったからである。
具体例に即して説明すると、かつて日本の首相で、その英語演説で相手を沸かせた人は岩倉使節団の副使としてサンフランシスコで大喝采を博した伊藤博文とワシントンの上下両院議員を前に講演した安倍氏の二人だけだった。 
旧暦明治四年十二月十四日、西暦一八七二年一月二十二日の夜、サンフランシスコのグランドホテルで開かれた歓迎晩餐会の席で、岩倉具視大使は烏帽子直垂姿で挨拶し、駐日米国公使デロングが通訳した。
次いで末席副使の伊藤博文が、上席副使の木戸孝允、大久保利通をさしおいて、登壇した。 
満三十歳の伊藤は臆するところなく、はっきりとわかる英語でスピーチを始めた。
「日の丸はもはや日本を封ぜし封蝋(ふうろう)ではなく、昇る朝日である」と開国和親の大方針を巧みな譬(たと)えで述べた。
伊藤はそれまですでに二回にわたり長期に海外体験をしたとはいえ、手紙の封蝋などの英単語は船中で同行の米国人から仕入れた知識だったに相違ない。
平成二十七年、西暦二〇一五年四月二十九日、日本の首相として初めて安倍氏はワシントンで上下両院合同会議でスピーチをした。

「戦争に負けて外交で勝った」吉田茂首相はマッカーサー総司令官と二人で会話する術にはたけていたが、国会演説でもわかるようにスピーチは得意でない。
サンフランシスコ講和会議では日本語で巻紙を繰りながら読み上げた。
その様子はトイレット・ペーパーと揶揄された。
安倍氏の英語スピーチには惚れ惚れとした。
念入りに練られた英文を、安倍氏自身、何度も朗読して訓練したに相違ない。 
その安倍氏の国際感覚はどのようにして磨かれたのか。
父安倍晋太郎外務大臣の若い秘書として広く外国要人と接し、自らも英語を使うことで、相手側の立場や主張を理解したのみならず、日本の立場を外国人にも理解できるよう主張する骨を体得したからか、安倍氏の政治家としての登場を外務省の岡崎久彦が救世主の到来のように喜んだことが思い出される。 

傑出した国際感覚と歴史観 
安倍氏の話し方は日本語でもリズムがあり、テンポがよく、率直で無駄がない。
頭脳の集中力が素晴らしかった。
ワシントンの演説でも硫黄島の激戦に触れたとき満堂が感動した。
戦った海兵隊のスノーデン退役中将と栗林忠道司令官の孫の新藤義孝議員が握手した。
私がさらに良しとしたのは政治家としての歴史観である。
その年の八月十四日に出した『戦後七十年談話』がそれで安倍談話は明治日本の努力を肯定する。
「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」 
安倍氏は単細胞の日本至上主義者ではない。
満州事変以来、日本が「進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました」という歴史認識もきちんと述べた。
渋谷区に住む私は一九六〇年六月、ヘリコプターが岸信介首相の私宅の上を飛び交うのを見た。
そのころ幼児だった晋三氏は世間の口まねで祖父の膝の上で「アンポハンタイ」と言っていたそうだ。 
安倍反対=正義の番組に食傷 
二〇一五年夏も『朝日『毎日』『東京』などの新聞が反自民党政権のスタンスで「安保法制」反対を訴えた。
さる大学のドアには「安倍、死ね」と貼られていた。
半世紀前の「安保反対」騒動に比べれぱ、デモに力がなかった。
しかし、テレビが国会周辺のデモのみをクローズーアップしてあたかも安倍反対だけが正義であるかのごとく報じる番組に食傷した。
「アベ氏ね」式のネット上の扇動は視聴者の意識下にとどまることもある。
今度も渋谷区富ケ谷の空をヘリコプターが飛んだ。
奈良から安倍氏の遺体が運ばれて自宅へ戻った際、撮影をしたのだ。
この一代の大政治家の死を国葬にせずともよいのか。
単なる内閣と自民党の合同葬ですませてよいことか。

 


二人とも世界史の中の日本の位置と進むべき方向がよく見えた例外者であったからである。

2022年07月14日 22時26分58秒 | 全般

以下は今日の産経新聞「正論」に、安倍晋三元首柤の葬儀を国葬に、と題して掲載された平川祐弘東京大学名誉教授の論文からである。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
見出し以外の文中強調は私。
日本の最大の世界的政治家 
安倍晋三元首相が凶弾に倒れ、日本は世界に向けて説得的に語り得る希代の大政治家を失った。
安倍氏は伊藤博文以来のわが国が生んだ最大の世界的政治家であった。
ロシアのプーチン大統領すらも個人的な感懐の情を述べずにいられなかった。
モスクワの日本大使館には弔意を示す花束が届けられているという。
これは世界の多くの国の日本大使館で見られることであろう。
安倍氏の死は国家的に、いや国際的にも大損失だ。痛恨の念を禁じ得ない。
日本国は国葬によって安倍氏の非業の死を弔うべきではあるまいか。
なぜ安倍氏は伊藤博文と並んで、世界的大政治家であり得たか。
二人とも世界史の中の日本の位置と進むべき方向がよく見えた例外者であったからである。
具体例に即して説明すると、かつて日本の首相で、その英語演説で相手を沸かせた人は岩倉使節団の副使としてサンフランシスコで大喝采を博した伊藤博文とワシントンの上下両院議員を前に講演した安倍氏の二人だけだった。 
旧暦明治四年十二月十四日、西暦一八七二年一月二十二日の夜、サンフランシスコのグランドホテルで開かれた歓迎晩餐会の席で、岩倉具視大使は烏帽子直垂姿で挨拶し、駐日米国公使デロングが通訳した。
次いで末席副使の伊藤博文が、上席副使の木戸孝允、大久保利通をさしおいて、登壇した。 
満三十歳の伊藤は臆するところなく、はっきりとわかる英語でスピーチを始めた。
「日の丸はもはや日本を封ぜし封蝋(ふうろう)ではなく、昇る朝日である」と開国和親の大方針を巧みな譬(たと)えで述べた。
伊藤はそれまですでに二回にわたり長期に海外体験をしたとはいえ、手紙の封蝋などの英単語は船中で同行の米国人から仕入れた知識だったに相違ない。
平成二十七年、西暦二〇一五年四月二十九日、日本の首相として初めて安倍氏はワシントンで上下両院合同会議でスピーチをした。
「戦争に負けて外交で勝った」吉田茂首相はマッカーサー総司令官と二人で会話する術にはたけていたが、国会演説でもわかるようにスピーチは得意でない。
サンフランシスコ講和会議では日本語で巻紙を繰りながら読み上げた。
その様子はトイレット・ペーパーと揶揄された。
安倍氏の英語スピーチには惚れ惚れとした。
念入りに練られた英文を、安倍氏自身、何度も朗読して訓練したに相違ない。 
その安倍氏の国際感覚はどのようにして磨かれたのか。
父安倍晋太郎外務大臣の若い秘書として広く外国要人と接し、自らも英語を使うことで、相手側の立場や主張を理解したのみならず、日本の立場を外国人にも理解できるよう主張する骨を体得したからか、安倍氏の政治家としての登場を外務省の岡崎久彦が救世主の到来のように喜んだことが思い出される。 
傑出した国際感覚と歴史観 
安倍氏の話し方は日本語でもリズムがあり、テンポがよく、率直で無駄がない。
頭脳の集中力が素晴らしかった。
ワシントンの演説でも硫黄島の激戦に触れたとき満堂が感動した。
戦った海兵隊のスノーデン退役中将と栗林忠道司令官の孫の新藤義孝議員が握手した。
私がさらに良しとしたのは政治家としての歴史観である。
その年の八月十四日に出した『戦後七十年談話』がそれで安倍談話は明治日本の努力を肯定する。
「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」 
安倍氏は単細胞の日本至上主義者ではない。
満州事変以来、日本が「進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました」という歴史認識もきちんと述べた。
渋谷区に住む私は一九六〇年六月、ヘリコプターが岸信介首相の私宅の上を飛び交うのを見た。
そのころ幼児だった晋三氏は世間の口まねで祖父の膝の上で「アンポハンタイ」と言っていたそうだ。 
安倍反対=正義の番組に食傷 
二〇一五年夏も『朝日『毎日』『東京』などの新聞が反自民党政権のスタンスで「安保法制」反対を訴えた。
さる大学のドアには「安倍、死ね」と貼られていた。
半世紀前の「安保反対」騒動に比べれぱ、デモに力がなかった。
しかし、テレビが国会周辺のデモのみをクローズーアップしてあたかも安倍反対だけが正義であるかのごとく報じる番組に食傷した。
「アベ氏ね」式のネット上の扇動は視聴者の意識下にとどまることもある。
今度も渋谷区富ケ谷の空をヘリコプターが飛んだ。
奈良から安倍氏の遺体が運ばれて自宅へ戻った際、撮影をしたのだ。
この一代の大政治家の死を国葬にせずともよいのか。
単なる内閣と自民党の合同葬ですませてよいことか。

 


安倍晋三元首相が凶弾に倒れ、日本は世界に向けて説得的に語り得る希代の大政治家を失った。

2022年07月14日 22時22分11秒 | 全般

以下は今日の産経新聞「正論」に、安倍晋三元首柤の葬儀を国葬に、と題して掲載された平川祐弘東京大学名誉教授の論文からである。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
見出し以外の文中強調は私。
日本の最大の世界的政治家 
安倍晋三元首相が凶弾に倒れ、日本は世界に向けて説得的に語り得る希代の大政治家を失った。
安倍氏は伊藤博文以来のわが国が生んだ最大の世界的政治家であった。
ロシアのプーチン大統領すらも個人的な感懐の情を述べずにいられなかった。
モスクワの日本大使館には弔意を示す花束が届けられているという。
これは世界の多くの国の日本大使館で見られることであろう。
安倍氏の死は国家的に、いや国際的にも大損失だ。痛恨の念を禁じ得ない。
日本国は国葬によって安倍氏の非業の死を弔うべきではあるまいか。
なぜ安倍氏は伊藤博文と並んで、世界的大政治家であり得たか。
二人とも世界史の中の日本の位置と進むべき方向がよく見えた例外者であったからである。
具体例に即して説明すると、かつて日本の首相で、その英語演説で相手を沸かせた人は岩倉使節団の副使としてサンフランシスコで大喝采を博した伊藤博文とワシントンの上下両院議員を前に講演した安倍氏の二人だけだった。 
旧暦明治四年十二月十四日、西暦一八七二年一月二十二日の夜、サンフランシスコのグランドホテルで開かれた歓迎晩餐会の席で、岩倉具視大使は烏帽子直垂姿で挨拶し、駐日米国公使デロングが通訳した。
次いで末席副使の伊藤博文が、上席副使の木戸孝允、大久保利通をさしおいて、登壇した。 
満三十歳の伊藤は臆するところなく、はっきりとわかる英語でスピーチを始めた。
「日の丸はもはや日本を封ぜし封蝋(ふうろう)ではなく、昇る朝日である」と開国和親の大方針を巧みな譬(たと)えで述べた。
伊藤はそれまですでに二回にわたり長期に海外体験をしたとはいえ、手紙の封蝋などの英単語は船中で同行の米国人から仕入れた知識だったに相違ない。
平成二十七年、西暦二〇一五年四月二十九日、日本の首相として初めて安倍氏はワシントンで上下両院合同会議でスピーチをした。
「戦争に負けて外交で勝った」吉田茂首相はマッカーサー総司令官と二人で会話する術にはたけていたが、国会演説でもわかるようにスピーチは得意でない。
サンフランシスコ講和会議では日本語で巻紙を繰りながら読み上げた。
その様子はトイレット・ペーパーと揶揄された。
安倍氏の英語スピーチには惚れ惚れとした。
念入りに練られた英文を、安倍氏自身、何度も朗読して訓練したに相違ない。 
その安倍氏の国際感覚はどのようにして磨かれたのか。
父安倍晋太郎外務大臣の若い秘書として広く外国要人と接し、自らも英語を使うことで、相手側の立場や主張を理解したのみならず、日本の立場を外国人にも理解できるよう主張する骨を体得したからか、安倍氏の政治家としての登場を外務省の岡崎久彦が救世主の到来のように喜んだことが思い出される。 
傑出した国際感覚と歴史観 
安倍氏の話し方は日本語でもリズムがあり、テンポがよく、率直で無駄がない。
頭脳の集中力が素晴らしかった。
ワシントンの演説でも硫黄島の激戦に触れたとき満堂が感動した。
戦った海兵隊のスノーデン退役中将と栗林忠道司令官の孫の新藤義孝議員が握手した。
私がさらに良しとしたのは政治家としての歴史観である。
その年の八月十四日に出した『戦後七十年談話』がそれで安倍談話は明治日本の努力を肯定する。
「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」 
安倍氏は単細胞の日本至上主義者ではない。
満州事変以来、日本が「進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました」という歴史認識もきちんと述べた。
渋谷区に住む私は一九六〇年六月、ヘリコプターが岸信介首相の私宅の上を飛び交うのを見た。
そのころ幼児だった晋三氏は世間の口まねで祖父の膝の上で「アンポハンタイ」と言っていたそうだ。 
安倍反対=正義の番組に食傷 
二〇一五年夏も『朝日『毎日』『東京』などの新聞が反自民党政権のスタンスで「安保法制」反対を訴えた。
さる大学のドアには「安倍、死ね」と貼られていた。
半世紀前の「安保反対」騒動に比べれぱ、デモに力がなかった。
しかし、テレビが国会周辺のデモのみをクローズーアップしてあたかも安倍反対だけが正義であるかのごとく報じる番組に食傷した。
「アベ氏ね」式のネット上の扇動は視聴者の意識下にとどまることもある。
今度も渋谷区富ケ谷の空をヘリコプターが飛んだ。
奈良から安倍氏の遺体が運ばれて自宅へ戻った際、撮影をしたのだ。
この一代の大政治家の死を国葬にせずともよいのか。
単なる内閣と自民党の合同葬ですませてよいことか。

 


Top 10 real-time searches 2022/7/14, 21:57

2022年07月14日 21時57分56秒 | 全般

1

One can only assume that Asahi arranged for Tetsuya Yamagami's crime to succeed.

2

一度は社是で安倍内閣を潰すのに成功した朝日が再び本気で「安倍の葬式」を出す気になったのは2012年、第二次安倍内閣の発足前の党首討論会だった

3

殺戮安排

4

Anordnung zum Töten

5

Reëling vir moord

6

Arranjo para matar

7

それは心のどこかで「何があっても日本には安倍晋三がいるから大丈夫」との思いがあったからだと思います

8

ترتيب القتل

9

살인을 위한 준비

10

Arrangement for drab

 


Top 10 real-time searches 2022/7/14, 19:37

2022年07月14日 19時37分11秒 | 全般

1

One can only assume that Asahi arranged for Tetsuya Yamagami's crime to succeed.

2

限られたスペースの中で、一文、一文で真相を明らかにする…彼は名文家としても戦後の世界で唯一無二の作家である。

3

根本は自分で謀った通りの展開をどんな感慨で見ていたのだろう。殺しのお膳立て

4

殺戮安排

5

それは心のどこかで「何があっても日本には安倍晋三がいるから大丈夫」との思いがあったからだと思います

6

トップページ

7

Anordnung zum Töten

8

Arranjo para matar

9

一度は社是で安倍内閣を潰すのに成功した朝日が再び本気で「安倍の葬式」を出す気になったのは2012年、第二次安倍内閣の発足前の党首討論会だった

10

ترتيب القتل

 


またもや司法の大迷走だ…しかも個人の支払い能力を超越した天文学的な賠償額である。法廷の理性が疑われる。

2022年07月14日 19時17分12秒 | 全般
以下は今日の産経新聞の社説からである。
またもや司法の大迷走だ
またもや司法の迷走を思わせる判決だ。
東京電力福島第1原子力発電所事故をめぐり、東電の株主が同社の旧経営陣に損害賠償を求めた株主代表訴訟で、東京地裁は勝俣恒久元会長ら4人に計約13兆3千億円の支払いを命じた。
6月には、福島第1原発事故で避難した主民らが起こした集団訴訟で、最高裁によって国の賠償責任を否定する判決が出されたばかりだ。
その判決理由は、実際の地震は想定を大きく上回るもので、東電に津波対策をとらせていても津波による浸水は防げなかったとするものだった。
旧経営陣が原発建屋などの「水密化」を怠ったことで事故が防げなかった、とする今回の東京地裁の判決は、最高裁の判決の大意と齟齬(そご)を来さないか。
最高裁は津波の予見可能性には深く触れていないが、被害の回避は不可能だったとしている。
株主代表訴訟での争点の一つは平成14年に政府の地震調査研究推進本部が公表した「長期評価」に対する旧経営陣の対応だった。
原告の株主らは、旧経営陣は巨大津波が第1原発を襲う可能性を事前に認識していたにもかかわらず、安全対策を怠ったことで東電に甚大な被害を与えたと主張していた。
しかし、最高裁の判断に照らせば、旧経営陣が対策を講じていても事故は起きていたはずなので、株主側の主張とは正反対だ。
それを認めた東京地裁の判決は最高裁の審理を無視したものとみられても仕方あるまい。
原発訴訟に関しては司法判断のばらつきが目立つ。
避難者の集団訴訟がその典型で、地裁と高裁での判決に混乱があった。
6月の最高裁の判決は、そうした状態の収束に寄与するはずのものであっただけに残念だ。
また、旧経営陣4人中の3人は福島事故に関する業務上過失致死傷罪で強制起訴されたが、令和元年には東京地裁で無罪判決を言い渡されている。
同地裁が長期評価の信頼性などを認めなかったための無罪だった。
刑事裁判と民事裁判の差があるにしても、同一地裁で津波被害の予見可能性について3年を経ずに逆の判断が示される事態は、迷走以外の何物でもあるまい。
しかも個人の支払い能力を超越した天文学的な賠償額である。
法廷の理性が疑われる。



それは心のどこかで「何があっても日本には安倍晋三がいるから大丈夫」との思いがあったからだと思います

2022年07月14日 18時56分33秒 | 全般
以下は一色正春さんのツイートからである。
@nipponichi8
安倍さんを失って大きな喪失感に苛まれている人は少なくないと思います。
それは心のどこかで「何があっても日本には安倍晋三がいるから大丈夫」との思いがあったからだと思います
悲しいことですが、もう安倍さんは、いません。
残された我々が安倍さんの代わりに日本を守らなければならないのです 




Дамоўленасць аб забойстве

2022年07月14日 17時23分54秒 | 全般
Наступнае з паслядоўнай калонкі Масаюкі Такаямы, які даводзіць да паспяховага завяршэння выпушчаны сёння штотыднёвік Shincho.
Гэты артыкул таксама сведчыць пра тое, што ён адзіны журналіст у пасляваенным свеце.
Ён раскрывае праўду на абмежаванай прасторы ў адным сказе або абзацы.
Ён яшчэ і майстэрскі пісьменнік, унікальны ў пасляваенным свеце.
Яе абавязкова павінны прачытаць не толькі японцы, але і людзі ва ўсім свеце.
Акцэнт у тэксце, акрамя загалоўка, зроблены мной.
Дамоўленасць аб забойстве
Даўным-даўно я зладзіў вечарыну ў Ічыгаі ў памяць аб выхадзе кнігі, якая склала гэтую рубрыку.
Арганізатарам выступіў Масахіра Міядзакі.
Я заўважыў, што на праспекце ў стылі генеральнага прадстаўніка прамоўтэраў надрукавана назва «Сінза Абэ».
Калі я сказаў яму, што гэта занадта, ён безадказна адказаў: "Гэта было б лепш".
Магчыма, з-за гэтага мерапрыемства прыцягнула такую вялікую яўку, што палітычны аглядальнік Хісаюкі Міяке сказаў: «Калі мы ўзарвум гэтае месца, увесь кансерватыўны дыскурс у Японіі будзе знішчаны».
У разгар усяго гэтага сапраўды з'явіўся былы прэм'ер-міністр Абэ.
Ён сказаў мне, што з'яўляецца пастаянным чытачом гэтай рубрыкі, і я быў шчыра ўдзячны.
У той час г-н Абэ толькі што пакінуў свой першы кабінет, захварэўшы з-за няспыннага пераследу з боку Асахі Сімбун.
Калі Хісаюкі Міяке папрасіў Ёсібумі Вакамію, галоўнага рэдактара, праверыць недарэчныя нападкі на Абэ, той адказаў: «Гэта палітыка кампаніі» (Эйтаро Огава, «Прызначаны дзень: эсэ пра Сіндза Абэ»).
Знакаміты радок «Наша кампанія правядзе пахаванне Абэ» ідзе за гэтым радком.
Варожасць паміж імі даўняя і даўняя.
Г-н Абэ быў нетыповым японскім прэм'ер-міністрам.
Ён не быў ні нізкім, ні лысым, ні тоўстым.
Ён быў высокім, разумным, свабодна размаўляў па-англійску, і, перш за ўсё, не выпускніком Такійскага ўніверсітэта і не чыноўнікам.
Газета Asahi Shimbun магла б аблытаць яго бюракратычнымі сувязямі і акадэмічнымі клікамі, калі б ён быў звычайным прэм'ер-міністрам.
Гэта можа пагражаць ім у друку, калі яны не прыслухаюцца да Асахі.
Але гэта не спрацавала з містэрам Абэ.
Акрамя таго, іх палітычныя перакананні былі абсалютна супрацьлеглымі.
З часоў Масуіці Мідора Асахі ліслівіў Кітаю і падштурхоўваў Паўночную Карэю на шкоду Японіі.
Г-н Эйб быў наадварот.
Калі Асахі трапна называў Паўночную Карэю «Карэйскай Народна-Дэмакратычнай Рэспублікай», намеснік галоўнага сакратара кабінета міністраў Абэ прымусіў Кім Чэн Іра прызнаць, што ён выкрадаў грамадзян Японіі.
Ён таксама перашкодзіў Асахі працаваць з Хітосі Танака, каб адправіць выкрадзеных назад на Поўнач.
Пасля паспяховага знішчэння кабінета міністраў Абэ сваёй палітыкай кампаніі Асахі зноў стаў сур'ёзна ставіцца да правядзення «пахавання Абэ» ў 2012 годзе, перш чым сфармаваць другі кабінет Абэ.
Хіросі Хошы, які ўстаў, каб задаць пытанне, напышліва спытаў, як гэта будзе вырашаць праблему суцяшальнікаў.
Адказ быў такі: «Спадар Хошы, праблема суцяшальнікаў звязана з тым, што ваша газета Asahi Shimbun распаўсюдзіла гісторыю пра махляра па імі Сэйдзі Ёсіда, як быццам гэта праўда».
У прамым эфіры па краіне ён паказаў, наколькі скажоны і фальшывы характар Асахі.
Нягледзячы на тое, што Асахі быў разгублены рэплікай прэм'ер-міністра, не было ніякага спосабу схаваць той факт, што яны хлусілі, каб падарваць Японію на працягу апошніх 30 гадоў.
Кімура быў звольнены, а наклады Асахі ўпалі настолькі нізка, што рэпарцёрам больш не прапаноўвалі білеты на таксі.
Цяперашняму дырэктару рэдакцыі Сэйкі Немота было даручана адпомсціць за страту.
Нэмата задумаўся.
Напрыклад, было б хлуснёй, калі б ён паведаміў, што «прэм'ер-міністр Абэ даў Марытома Гакуэну 80% зніжку на дзяржаўную зямлю па просьбе Марытома Гакуэна».
Аднак, калі б яны напісалі: «Прэм'ер-міністр або Акі, магчыма, прымусілі Міністэрства фінансаў навязаць здагадку», гэта не было б ілжывым паведамленнем.
Такім чынам, пад выглядам навінаў могуць пісаць што заўгодна.
Вось як яны прымусілі напісаць скандал пра Морыкаке.
Нягледзячы на тое, што Сойм атрымаў большасць у дзве траціны ў абедзвюх палатах Сойму, дыскусіі ў Сойме былі задушаны асвятленнем абвінавачанняў у СМІ, і папраўка да канстытуцыі не зрабіла ніводнага кроку наперад.
Нават калі Сойм адмовіўся ад дадання новай канстытуцыі, у якой былі б дакладна ўказаны Атрады самаабароны, гэта ўсё роўна спынілася з-за новых абвінавачванняў і іншых праблем.
У рэшце рэшт г-н Абэ быў зноў вымушаны сысці на пенсію з-за насмешак Джыра Ямагуці «Я збіраюся забіць Абэ».
Тым не менш, Нэмата не змірыўся.
Калі актывісты ганяліся за экс-прэм'ерам і зрывалі яго вулічныя выступы, то ён з задавальненнем іх друкаваў.
Калі супрацоўнікі паліцыі абмежавалі актывістаў, Немота прымусіў іх падаць у суд на паліцыю і атрымаў недарэчнае рашэнне акруговага суда Сапара, што «перашкода выступу з'яўляецца добрай формай свабоды выказвання».
Затым Немота выклікаў беспарадкі ў рэдакцыйным артыкуле, сказаўшы: «Паліцэйскія не павінны спыняццаінтрактаваць аўдыторыю на вулічных выступах былога прэм'ер-міністра Абэ».
Газета пісала пра былога прэм'ер-міністра як пра чалавека непраўдзівага, прымушала Джыра Ямагуці хваліцца пра забойства і правярала, каб сілавікі не абмяжоўвалі аўдыторыю на вулічных выступах.
Можна толькі меркаваць, што Асахі арганізаваў поспех злачынства Тэцуя Ямагамі.
Цікава, з якімі эмоцыямі Немота назіраў за тым, як плануецца разгортванне сюжэта.





Uspořádání pro zabíjení

2022年07月14日 17時21分35秒 | 全般
Následující je ze sériové rubriky Masayuki Takayama, který dovádí dnes vydaný týdeník Shincho do úspěšného konce.
Tento článek také dokazuje, že je jediným novinářem v poválečném světě.
Odhaluje pravdu na omezeném prostoru v jedné větě nebo odstavci.
Je to také mistrovský spisovatel, jedinečný v poválečném světě.
Je to povinná četba nejen pro Japonce, ale i pro lidi na celém světě.
Důraz v textu kromě nadpisu je můj.
Uspořádání pro zabíjení
Kdysi dávno jsem uspořádal večírek v Ichigayi, abych si připomněl vydání knihy, která sestavila tento sloupek.
Organizátorem byl Masahiro Miyazaki.
Všiml jsem si, že na prospektu bylo vytištěno jméno „Shinzo Abe“ ve stylu generálního zástupce promotérů.
Když jsem mu řekl, že je to trochu moc, nezodpovědně odpověděl: "To by vypadalo lépe."
Možná proto tato událost přilákala tak velkou účast, že politický komentátor Hisayuki Miyake řekl: "Pokud toto místo vyhodíme do povětří, celý konzervativní diskurs v Japonsku bude zničen."
Uprostřed toho všeho se skutečně objevil bývalý premiér Abe.
Řekl mi, že je pravidelným čtenářem tohoto sloupku, a já jsem mu byl upřímně vděčný.
V té době pan Abe právě opustil svůj první kabinet, protože onemocněl kvůli neúnavnému obtěžování ze strany Asahi Shimbun.
Když Hisayuki Miyake požádal Yoshibumiho Wakamiyu, šéfredaktora, aby ověřil aberantní útoky na Abeho, odpověděl: „Je to firemní politika“ (Eitaro Ogawa, „Ustanovený den: esej o Shinzo Abe“).
Slavná věta „Naše společnost uspořádá Abeho pohřeb“ následuje tuto linii.
Spor mezi těmito dvěma je starý a dlouhý.
Pan Abe byl atypický pro japonského premiéra.
Nebyl ani malý, ani holohlavý, ani tlustý.
Byl vysoký, inteligentní, mluvil plynně anglicky a především nebyl absolventem Tokijské univerzity, ani byrokratem.
Noviny Asahi Shimbun ho mohly zaplést do byrokratických vazeb a akademických klik, kdyby byl obyčejným premiérem.
Mohlo by je to ohrozit v tisku, kdyby neposlouchali Asahi.
Ale to nefungovalo u pana Abeho.
Navíc jejich politické přesvědčení bylo naprosto opačné.
Od dob Masuichi Midoro Asahi lichotil Číně a masíroval Severní Koreu na úkor Japonska.
Pan Abe byl pravý opak.
Když Asahi trefně mluvil o Severní Koreji jako o „Korejské lidově demokratické republice“, zástupce hlavního tajemníka kabinetu Abe přiměl Kim Čong-ila, aby přiznal, že unesl japonské občany.
Také zabránil Asahi ve spolupráci s Hitoshi Tanakou na poslání unesených zpět na sever.
Po úspěšném zničení Abeho kabinetu svou firemní politikou se Asahi v roce 2012 znovu tvrdě zamyslela nad uspořádáním „pohřbu pro Abeho“, než vytvořila druhý Abeho kabinet.
Hiroshi Hoshi, která vstala a položila otázku, se arogantně zeptala, jak by se vypořádal s problémem žen pohodlnosti.
Odpověď zněla: "Pane Hoshi, problém žen s útěchou je způsoben tím, že vaše noviny Asahi Shimbun rozšířily příběh o podvodu jménem Seiji Yoshida, jako by to byla pravda."
V přímém celostátním vysílání poukázal na to, jak přesně je Asahi pokřivený a falešný charakter.
Ačkoli Asahi byl zděšen replikou premiéra, neexistoval způsob, jak zakrýt skutečnost, že posledních 30 let lhali, aby podkopali Japonsko.
Kimura byl vyhozen a oběh Asahi klesl tak nízko, že reportérům už nenabízeli lístky na taxík.
Současný ředitel redakce Seiki Nemoto měl za úkol pomstít ztrátu.
Nemoto o tom přemýšlel.
Například by byla lež, kdyby uvedl, že „premiér Abe poskytl Moritomovi Gakuenovi 80% slevu na státem vlastněné pozemky na žádost Moritoma Gakuena“.
Pokud by však napsali: „Premiér nebo Akie si možná nechali ministerstvo financí uložit odhad,“ nebyla by to falešná zpráva.
Pod rouškou zpravodajství tak mohou napsat cokoliv.
Tak se jim podařilo sepsat skandál Morikake.
Ačkoli sněm získal dvoutřetinovou většinu v obou komorách sněmu, jednání ve sněmu bylo potlačeno medializací obvinění a ústavní dodatek neudělal jediný krok vpřed.
I když sněm ustoupil a přidal novou ústavu, která by jasně stanovila Síly sebeobrany, stále to bylo zastaveno novými obviněními a dalšími problémy.
Nakonec byl pan Abe opět donucen odejít do důchodu posměšky Jiro Yamaguchiho „Zabiju Abeho“.
Nemoto přesto neustoupil.
Pokud aktivisté bývalého premiéra pronásledovali a narušovali jeho pouliční projevy, rád je dal do tisku.
Když policisté omezili aktivisty, Nemoto je nechal podat žalobu na policii a okresní soud v Sapporu dostal směšné rozhodnutí, že „maření projevu je dobrou formou svobody projevu“.
Nemoto pak vyvolal rozruch v úvodníku slovy: „Policajti by se neměli omezovat
dráždit publikum při pouličních projevech bývalého premiéra Abeho."
List o bývalém premiérovi psal jako o nepravdivé osobě, Jiro Yamaguchi se kvůli vraždě rozčiloval a kontroloval, zda bezpečnostní složky neomezují publikum při pouličních projevech.
Lze jen předpokládat, že Asahi zařídil, aby Tetsuya Yamagamiho zločin uspěl.
Člověk se diví, s jakými emocemi Nemoto sledoval, jak se děj vyvíjí podle plánu.





Öldürme Düzenlemesi

2022年07月14日 17時18分56秒 | 全般
Aşağıdakiler, bugün yayınlanan haftalık Shincho'yu başarılı bir sonuca ulaştıran Masayuki Takayama'nın seri sütunundan.
Bu makale aynı zamanda savaş sonrası dünyada tek gazeteci olduğunu kanıtlıyor.
Gerçeği bir cümle veya paragrafta sınırlı bir alanda ortaya koyuyor.
Aynı zamanda savaş sonrası dünyada benzersiz, usta bir yazardır.
Sadece Japonların değil dünyanın her yerindeki insanların okuması gereken bir kitap.
Başlık dışında metindeki vurgu bana aittir.
Öldürme Düzenlemesi
Uzun zaman önce, bu sütunu derleyen bir kitabın yayınlanmasını anmak için Ichigaya'da bir parti verdim.
Organizatör Masahiro Miyazaki'ydi.
"Shinzo Abe" isminin prospektüs üzerinde, destekçilerin genel temsilcisi tarzında basıldığını fark ettim.
Ona bunun biraz fazla olduğunu söylediğimde sorumsuzca, "Bu daha iyi görünecek" dedi.
Belki de bu nedenle, etkinlik o kadar büyük bir katılım gördü ki, siyasi yorumcu Hisayuki Miyake, "Bu yeri havaya uçurursak, Japonya'daki muhafazakar söylemin tamamı ortadan kalkar" dedi.
Tüm bunların ortasında, eski Başbakan Abe gerçekten ortaya çıktı.
Bana bu sütunun düzenli bir okuyucusu olduğunu söyledi ve açıkçası minnettardım.
O sırada, Bay Abe, Asahi Shimbun'un amansız tacizi nedeniyle hastalanarak ilk kabinesinden yeni ayrılmıştı.
Hisayuki Miyake, baş editör Yoshibumi Wakamiya'dan Abe'ye yapılan anormal saldırıları doğrulamasını istediğinde, "Bu şirket politikası" (Eitaro Ogawa, "Atanan gün: Shinzo Abe hakkında bir makale") yanıtını verdi.
Ünlü çizgi, "Şirketimiz Abe'nin cenazesini kaldıracak" bu çizgiyi takip ediyor.
İkisi arasındaki kan davası eski ve uzun.
Bay Abe, tipik bir Japon başbakanı değildi.
Ne kısaydı, ne kel ne de şişmandı.
Uzun boylu, zeki, İngilizcesi akıcıydı ve hepsinden öte, ne Tokyo Üniversitesi mezunu ne de bürokrattı.
Asahi Shimbun gazetesi, sıradan bir başbakan olsaydı, onu bürokratik bağlar ve akademik kliklerle karıştırabilirdi.
Asahi'yi dinlemezlerse bu onları yazılı olarak tehdit edebilirdi.
Ama bu Bay Abe ile işe yaramadı.
Ayrıca, siyasi inançları tamamen zıttı.
Asahi, Masuichi Midoro'dan beri Çin'i pohpohluyor ve Japonya'nın zararına Kuzey Kore'yi yağlıyor.
Bay Abe tam tersiydi.
Asahi, Kuzey Kore'den yerinde bir şekilde "Kore Demokratik Halk Cumhuriyeti" olarak bahsederken, Kabine Başkan Yardımcısı Abe, Kim Jong-il'e Japon vatandaşlarını kaçırdığını itiraf ettirdi.
Ayrıca Asahi'nin kaçırılanları Kuzey'e geri göndermek için Hitoshi Tanaka ile çalışmasını engelledi.
Şirket politikasıyla Abe Kabinesini başarıyla yok ettikten sonra Asahi, ikinci Abe Kabinesini kurmadan önce 2012'de “Abe için cenaze” düzenleme konusunda tekrar sertleşti.
Soru sormak için ayağa kalkan Hiroshi Hoshi, kibirli bir şekilde, rahat kadın meselesini nasıl halledeceğini sordu.
Cevap, "Bay Hoshi, teselli edici kadın meselesi, Asahi Shimbun gazetenizin Seiji Yoshida adındaki bir sahtekarlık hikayesini gerçekmiş gibi yaymasından kaynaklanıyor."
Ülke çapında canlı bir yayında, Asahi'nin karakterinin tam olarak ne kadar çarpık ve yanlış olduğuna dikkat çekti.
Asahi, başbakanın verdiği karşılık karşısında dehşete düşmüş olsa da, son 30 yıldır Japonya'yı baltalamak için yalan söylediklerini örtbas etmenin bir yolu yoktu.
Kimura kovuldu ve Asahi'nin tirajı o kadar düştü ki gazetecilere artık taksi bileti teklif edilmedi.
Mevcut yazı işleri müdürü Seiki Nemoto, kaybın intikamını almakla görevlendirildi.
Nemoto düşündü.
Örneğin, "Başbakan Abe, Moritomo Gakuen'in talebi üzerine Moritomo Gakuen'e devlete ait arazilerde %80 indirim verdi" şeklinde haber verse yalan olur.
Ancak, "Başbakan veya Akie Maliye Bakanlığı'na bir tahminde bulundurmuş olabilir" yazsalar, bu yanlış bir rapor olmaz.
Bu sayede habercilik kisvesi altında her şeyi yazabilirler.
Morikake skandalını böyle yazdırdılar.
Diyet, Diyet'in her iki meclisinde de üçte iki çoğunluk elde etmesine rağmen, Diyet'teki müzakereler, medyanın iddiaların kapsamına girmesiyle boğuldu ve anayasa değişikliği tek bir adım atmadı.
Diyet, Öz Savunma Güçlerini açıkça belirtecek yeni bir anayasa eklemek için geri adım attığında bile, yeni iddialar ve diğer sorunlar nedeniyle hala oyalandı.
Sonunda, Bay Abe, Jiro Yamaguchi'nin "Abe'yi öldüreceğim" alayları tarafından tekrar emekli olmaya zorlandı.
Yine de Nemoto pes etmedi.
Aktivistler eski başbakanın peşine düştüyse ve sokak konuşmalarını bozduysa, bunları basmaktan mutluydu.
Polis memurları eylemcileri kısıtladığında, Nemoto onlara polise karşı dava açtırdı ve Sapporo Bölge Mahkemesinden "bir konuşmayı engellemek iyi bir ifade özgürlüğü biçimidir" şeklinde saçma bir karar aldı.
Nemoto daha sonra bir başyazıdaki rahatsızlığı karıştırdı, "Polisler dinlenmemeli.Eski Başbakan Abe'nin sokak konuşmalarında dinleyicileri etkileyin."
Gazete, eski başbakan hakkında sanki yalancı biriymiş gibi yazdı, Jiro Yamaguchi'yi cinayetle ilgili gevezelik etti ve güvenlik güçlerinin sokak konuşmalarında dinleyicileri kısıtlamadığından emin olmak için kontrol etti.
Tetsuya Yamagami'nin suçunun başarıya ulaşması için Asahi'nin ayarladığı varsayılabilir.
Nemoto'nun planlandığı gibi gelişen arsayı hangi duyguyla izlediği merak ediliyor.





Tapauksen järjestely

2022年07月14日 17時15分58秒 | 全般
Seuraava on Masayuki Takayaman sarjakolumnista, joka vie tänään julkaistun Shincho-viikkolehden onnistuneeseen päätökseen.
Tämä artikkeli todistaa myös, että hän on ainoa toimittaja sodanjälkeisessä maailmassa.
Hän paljastaa totuuden rajoitetussa tilassa yhdessä lauseessa tai kappaleessa.
Hän on myös mestarillinen kirjailija, ainutlaatuinen sodanjälkeisessä maailmassa.
Se on pakollista luettavaa paitsi japanilaisille myös ihmisille ympäri maailmaa.
Tekstin painotus otsikkoa lukuun ottamatta on minun.
Tapauksen järjestely
Kauan sitten pidin juhlat Ichigayassa tämän kolumnien laatineen kirjan julkaisun muistoksi.
Järjestäjänä oli Masahiro Miyazaki.
Huomasin, että esitteeseen oli painettu nimi "Shinzo Abe" promoottorien yleisen edustajan tyyliin.
Kun kerroin hänelle, että tämä oli vähän liikaa, hän vastasi vastuuttomasti: "Se olisi paremman näköinen."
Ehkä tämän vuoksi tapahtuma keräsi niin suuren yleisön, että poliittinen kommentaattori Hisayuki Miyake sanoi: "Jos räjäyttämme tämän paikan, koko konservatiivinen diskurssi Japanissa tuhoutuu."
Kaiken tämän keskellä entinen pääministeri Abe todella ilmestyi.
Hän kertoi minulle olevansa tämän kolumnin säännöllinen lukija, ja olin suoraan sanottuna kiitollinen.
Tuolloin herra Abe oli juuri jättänyt ensimmäisen kabinettinsa sairastuttuaan Asahi Shimbunin säälimättömän häirinnän vuoksi.
Kun Hisayuki Miyake pyysi Yoshibumi Wakamiyaa, päätoimittajaa, varmistamaan Abbeen kohdistuneet poikkeavat hyökkäykset, hän vastasi: "Se on yrityksen politiikka" (Eitaro Ogawa, "Määrätty päivä: essee Shinzo Abesta").
Kuuluisa rivi "Yrityksemme järjestää Aben hautajaiset" seuraa tätä linjaa.
Kahden välinen riita on vanha ja pitkä.
Abe oli epätyypillinen Japanin pääministerille.
Hän ei ollut lyhyt, kalju eikä lihava.
Hän oli pitkä, älykäs, sujuvasti englantia puhuva, eikä ennen kaikkea valmistunut Tokion yliopistosta eikä byrokraatista.
Asahi Shimbun -sanomalehti olisi voinut sotkea hänet byrokraattisiin siteisiin ja akateemisiin klikkeihin, jos hän olisi tavallinen pääministeri.
Se voi uhata heitä painetussa muodossa, jos he eivät kuuntele Asahia.
Mutta se ei toiminut herra Aben kanssa.
Lisäksi heidän poliittiset uskonsa olivat täysin päinvastaisia.
Masuichi Midorosta lähtien Asahi oli mairittelenut Kiinaa ja voittanut Pohjois-Koreaa Japanin vahingoksi.
Herra Abe oli päinvastoin.
Kun Asahi viittasi Pohjois-Koreaan osuvasti "Korean demokraattiseksi kansantasavallaksi", apulaisministeri Abe sai Kim Jong-ilin myöntämään, että hän oli siepannut Japanin kansalaisia.
Hän myös esti Asahia työskentelemästä Hitoshi Tanakan kanssa lähettääkseen siepatut takaisin pohjoiseen.
Tuhottuaan onnistuneesti Abe-kabinetin yrityspolitiikallaan, Asahi alkoi jälleen vakavasti pitää "Aben hautajaiset" vuonna 2012, ennen kuin se muodosti toisen Abe-kabinetin.
Hiroshi Hoshi, joka nousi esittääkseen kysymyksen, kysyi ylimielisesti, kuinka se käsittelisi lohdutusnaisten ongelman.
Vastaus oli: "Herra Hoshi, lohdutusnaisten ongelma johtuu siitä, että Asahi Shimbun -sanomalehti levitti tarinaa Seiji Yoshida-nimisestä petoksesta ikään kuin se olisi totta."
Suorassa valtakunnallisessa lähetyksessä hän osoitti tarkalleen kuinka vääristynyt ja väärä Asahin hahmo on.
Vaikka Asahi oli tyrmistynyt pääministerin vastalauseesta, ei ollut mitään keinoa peitellä sitä tosiasiaa, että he olivat kertoneet valheita heikentääkseen Japania viimeisen 30 vuoden ajan.
Kimura erotettiin, ja Asahin levikki putosi niin alas, että toimittajille ei enää tarjottu taksilippuja.
Nykyisen toimituksen johtajan Seiki Nemoton tehtävänä oli kostaa menetys.
Nemoto mietti sitä.
Esimerkiksi olisi valhe, jos hän raportoi, että "pääministeri Abe antoi Moritomo Gakuenille 80 % alennuksen valtion omistamasta maasta Moritomo Gakuenin pyynnöstä."
Jos he kuitenkin kirjoittaisivat: "Pääministeri tai Akie on saattanut antaa valtiovarainministeriön määrätä arvauksen", se ei olisi väärä raportti.
Tällä tavalla he voivat kirjoittaa mitä tahansa uutisraportoinnin varjolla.
Näin he saivat Morikake-skandaalin kirjoitettua.
Vaikka valtiopäivien molemmissa kamareissa eduskunta oli saanut kahden kolmasosan enemmistön, syytösten huomioiminen tiedotusvälineissä tukahdutti valtiopäivien keskustelut, eikä perustuslain muutos johtanut yhtään askelta eteenpäin.
Jopa silloin, kun valtiopäivät perääntyivät lisäämään uuden perustuslain, jossa olisi selkeästi todettu itsepuolustusjoukot, uudet syytökset ja muut ongelmat pysäyttivät sen.
Lopulta herra Abe pakotettiin jälleen eläkkeelle Jiro Yamaguchin "I'm going to slay Abe" -huijausten takia.
Silti Nemoto ei antanut periksi.
Jos aktivistit jahtasivat entistä pääministeriä ja häiritsivät hänen katupuheita, hän julkaisi ne mielellään.
Kun poliisit rajoittivat aktivisteja, Nemoto pyysi heidät nostamaan kanteen poliisia vastaan ja sai Sapporon käräjäoikeudelta naurettavan tuomion, jonka mukaan "puheen estäminen on hyvä sananvapauden muoto".
Nemoto nosti sitten häiriön pääkirjoituksessaan sanomalla: "Poliisit eivät saa levätäict yleisölle entisen pääministerin Aben katupuheissa."
Lehti kirjoitti entisestä pääministeristä ikään kuin hän olisi valheellinen henkilö, sai Jiro Yamaguchin röyhkeäksi murhasta ja varmisti, etteivät turvallisuusjoukot rajoita yleisöä katupuheissa.
Voidaan vain olettaa, että Asahi järjesti Tetsuya Yamagamin rikoksen onnistumisen.
Voi ihmetellä, millä tunteilla Nemoto seurasi juonen etenemistä suunnitellusti.