
(東京都目黒区駒場・旧前田侯爵邸和館)
前回このブログで、「日本の歴史の中で、激動の戦国時代末期が大変面白く、それゆえこの時代をテーマとした
大河ドラマはストーリー展開もドラマチックで面白い」と書きました。
戦国の覇者である信長・秀吉・家康は言うに及ばず、その外周で、ドラマチックに生きた伊達政宗、前田利家、
山内一豊などが主人公の大河ドラマもかなり見ごたえがありました。
しかし、私としては、「未だ大河ドラマには未登場だが、この人物にスポットライトをあてて、これから先の
大河ドラマを企画すれば、それはそれは面白い内容になるに違いない」と思う人が何人かいます。
その第一は、東京の「八重洲」という地名の起源ともなり、関が原の戦いの年(1600年)に遠くヨーロッパから
船に乗って戦国時代の日本に漂着したオランダ人乗組員ヤン・ヨーステンです。
ヤン・ヨーステンが乗ったオランダ船「リーフデ号」は他の4隻と共に船団を組んで
1598年6月にロッテルダム港を出航しましたが、航海中に船団はばらばらとなり、
約2年後の1600年4月に豊後の国・臼杵に乗組員が24人までに減った「リーフデ号」だけが漂着します。
この時、日本では豊臣秀吉は既に数年前に死去し、その秀吉の遺言により徳川家康が五大老の
首座となっていました。
家康は「リーフデ号」の積荷(大砲・火縄銃・弾薬を含むヨーロッパの品々)を没収するとともに、
ヤン・ヨーステンらリーフデ号生き残りの乗組員を引見します。
秀吉亡き後の天下統一を狙う家康にとって、この絶妙のタイミングで、思いもかけずに目にし耳にすることの
できたヨーロッパの文化の一端はどんなにか家康の好奇心を刺激したことでしょうか。
ヤン・ヨーステンと、彼と一緒に家康に引見した英国人のウィリアム・アダムスは、家康が日本の覇権を手中に
し、「征夷大将軍」として君臨するのと並行し、家康からの深い信頼を得るようになります。
ヤン・ヨーステンは徳川政権の外交・貿易顧問として重用され、幕府から朱印状を得て対東南アジア貿易に
努めます。その後、家康・秀忠の死後、徳川幕府は250年もの長きにわたって鎖国政策をとりますが、
諸外国との門戸を閉ざした鎖国の間も、長崎・出島を通じて、オランダと中国だけに門戸を開き続けます。
つまり、ヤン・ヨーステンが「リーフデ号」で日本にもたらしたオランダ(さらにヨーロッパ文明)との
結びつきは、細々ながら絶えることなく明治維新・開国まで、数百年も続くこととなります。
ヤン・ヨーステンは江戸に居宅を与えられ、日本婦人と結婚し子供も授かります。
彼の住んだ場所は彼の名前にちなみ、「八重洲(やえす)」として今に残る、というわけです。
(東京駅前八重洲地下街に「ヤン・ヨーステン像」があります)。
ところで、1980年上映のアメリカ映画・「将軍 SHOGUN」は、ヤン・ヨーステンと共に家康の信頼を
得て幕臣となった英国人・ウィリアム・アダムスをテーマに作られたものです。
映画では、アダムスはブラックソーンとなりハリウッド俳優のリチャード・チェンバレンが演じ、家康は
虎長という戦国大名役で三船敏郎が演じました。
もしヤン・ヨーステンの数奇な一生を日本の大河ドラマで企画すれば、日本はもちろんオランダでも大人気と
なることでしょう。
肝心の主役ヤン・ヨーステン役は誰にするのが良いでしょうか?
私はオランダで(オランダ人を)一般から公募するのがベストだと思います。何よりも、このドラマは
オランダと日本との運命的な深い結びつきが根底にあるものであり、オランダには日本学(ジャパノロジー)
を研究する学部を持つ大学もあると聞き及んでおり、日本語能力は言うに及ばず日本の歴史文化への造詣
の深い人物を発掘し起用することからある意味でこの大河ドラマは始まる、とも言えるでしょう。
オランダ人ヤン・ヨーステンの日本漂着の250年後、アメリカのペリーの黒船来航により鎖国から開国
へと大きく舵をきった日本は、勝海舟ら日米修好親善使節を乗せた「咸臨丸」をアメリカに向けて出航させ、
勝海舟のこの異文化原体験が、後に坂本竜馬の世界観の形成にと続くことになります。
この咸臨丸こそ、ライン河口のオランダの小港で造られ、遠く日本へ回航された船だった事実は、
何という歴史の不思議さでしょうか。
考え方にはいろいろある。自分たちの考え方が理に合わないものであることを証明するのは難しいことである。だが、それが証明できなければ、おかしな考え方を改めることも難しい。
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