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沙耶の唄~視点の違いとその整理~

2013-02-22 18:49:05 | 沙耶の唄

[はじめに]

昨日の「沙耶の唄~『純愛』なる印象の必然性~」においては、郁紀と沙耶が別離する前後の場面を主に取り上げつつ、それがもたらす交換不可能性の印象を指摘し、作品の内容を「純愛」ととらえる人たちの解釈に必然性があることを示した。続いてはそれと真逆の交換可能性の話を「属性」に絡めてしつつ交換不可能性を理解する補助線にしたいと考えたが、まずは受け手と作者、そして私の「沙耶の唄」で描かれるものの捉え方の違いを掲載しておこうと思う。

 

[視点の差異]

前述のように、私はまさに昨日本作で描かれているものを「純愛」と捉える必然性について書いた。しかし一方で、「人間という名のエミュレーター」や「フラグメント141:超越、ニヒリズム、交換可能性」といった記事を見れば、私が「純愛」観自体について距離を置いていることに読者諸賢は気づくだろう(というのも、そこで生起される「純愛」観念を交換可能であると書いているからだ)。とはいえ、先の「人間という名のエミュレーター」や「エミュレーターとディスコミュニケーション」からは、私が作者の立ち位置にも明確に批判的であることが読み取れるはずだ(念のため言っておくが、後の傑作「魔法少女まどか☆マギガ」のテーマや演出を見る限り、今の虚淵玄は当時と全く違う観念で世界を捉えていると見てよい)。

 

では、それら三つはどのように異なるのか?問題を承知の上で単純化・図式化すると次のようになる。

(a)「恋愛モノ」・「純愛」と受け取ったプレイヤー ・・・ 沙耶=間に「人間性」を見出す 

→古代・中世的視点 (cf)「異物に対する同一化傾向」、アニミズム動物裁判など

(b)作者 ・・・ 人間と間に厳然たる違いがあると考える(「沙耶=エミュレーター」発言が典型的)=「人間VS間・自然」 

→近代的視点  (cf)デカルトハイデガーフロイトなど

(c)私・・・ 人間に間と同じ「動物性」を見出す 

→ポストモダン的視点 (cf)フーコーの「生ー権力」、認知科学esTHE WAVEイーガンオウム事件など

 

まず注意を喚起しておきたいが、これは「どれがより優れているか」という話ではなく、立ち位置の違いである。ただし、この立ち位置に自覚的・再帰的でないと、様々な問題が生じることになる。「理性もまた狂気」と言い宗教戦争などにも言及しながら、「誤読の自由」についてさえよく理解できてらしい作者を私が批判する理由はそこにある(cf.「成ル談義4~合意不可能性と断念~」)。また(a)と(c)は時として全く同じもののように移るが、それは「人間-間の境界線の曖昧さ」という点で性格をいつにするからに他ならない。そしてこのような図式を念頭に置くと、「日本的想像力の未来」が期待される理由と限界も見えてくるだろうし、また一見不真面目にさえ感じられる「紛争の勝敗をサッカーで決めないか?」や「conscious looseness」の意図も理解されることになるだろう(ちなみに「限界」とは、今述べた戦略的意味を解さずただの現状肯定・自己肯定と勘違いする輩が多数出てくる事態を指す)。

 

[おわりに]

ところで先ほど私は「問題を承知の上で」と書いた。その理由は、他の人についてはよくわからないが、少なくとも私自身は(c)で図式的に割り切っているわけではなく、むしろ(a)(b)(c)に基づく3つの見解・感情に引き裂かれたからだ。「紙幅」の都合上詳しく述べることはしないが、たとえば以下のような具合だ。耕司が生き残るエンディングがバッドエンドにしか見えなかった=それだけ深く沙耶の側にコミットした(cf.「二項対立と交換可能性」、「エンディングの『失敗』」)。しかし一方で郁紀の側を全面的に肯定できようはずもない(麻薬中毒と凶悪犯罪)。しかしそれなら、人類が存続する必然性はあるのかと言えば、これもただの偶然の産物にすぎない(cf.「人類の存続に必然性などない」、「神の可能性」)。ただ、人類として様々な恩恵を享受しながらそれを一方的に批判するのはクーラーの効いた部屋で近代批判の本を読み、それを不思議に思わぬ間抜けな行為態度であろう(時期はかなり後になるが、「キム・ギドク」は似た話題を扱っている)。このようにして、「沙耶の唄」を通じて一週間ほどあれやこれや考え込み、様々な視点・立ち位置の恣意性に気づくとともに(それを超えたところにある)この作品の評価が急速に高まっていった。だから私はこの作品に深い感動さえ覚えたのだ。

そのことを述べて、本稿を終えることとしたい。

 

[付録]

前述の(a)を考える上で、『ウルトラマン誕生』という書籍の中に極めて興味深い記述が見られる。これらを通じて、「虚淵玄の期待とプレイヤーの反応の齟齬」で書いた受け手の特徴に関する作者の(おそらく自分の理解の仕方をいたずらに一般化したがゆえの)錯覚がよりよく理解できるであろう。少々長くなるが、重要な部分なので漏れなく引用しておきたい。 

p85 デザイナーの成田亨の言葉

円谷英二さんは、怪獣を愛してましたからね。僕のデザインの基本には、異形なるがゆえに、人間社会から拒否されてしまうモンスターの哀しみとおかしさが漂っていてほしい、・・・そうねがっていたんですよ。」

p86 同上

「(前略)怪獣というのは不格好で、不器用で、大きな図体を持て余して、結局最後には人間の社会から葬り去られてしまう。時代遅れで、いつも突然に、異次元の過去が現在に登場するイメエジなんです。」

p271 円谷英二と金城哲夫の会話(作曲家冬木透の回想)

「(前略)そのときしきりとつぶちゃん[=円谷英二]は“怪獣だって泣くんだよ、・・・怪獣だって泣くんだよ”とくり返していたんだ。きっと、金ちゃんが脚本を書く新しい怪獣キャラクターのことが頭にあったんだろう。“俺は怪獣を泣かせたいんだよ、金ちゃん・・・”とうったえるようにいっていたのが印象的だったなあ。」

p271 円谷英二の冬木透に対する注文(同上)

「開口一番“怪獣は人間と同じって考えてよ。喜怒哀楽も全部あるんだ。怪獣って人間の鏡なんだからね。”って、いったんだよ。“怪獣はいかめしてくて、グロテスクなだけの存在じゃないんだから、音楽もかたちだけにとらわれないでくれよ”って注文だった。つぶちゃんは怪獣にすごく思い入れのある人だったから、グロテスクな面を強調する音楽なんか、まったく望んでいなかったんだね。ただ、大きいが故に、怪獣と生まれついてしまった故に、社会から間尺に合わず排斥される悲しさを、人間の鏡として音楽にたくしたかったんじゃないかな。」


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