成ル談義4 ~合意不可能性と断念~

2013-01-12 18:09:16 | 感想など

好きなものは多ければ多いほどいい。「自分は~な人間だ」などと言って(将来的にも)自分の嗜好の幅を狭めるなんてもったいなさすぎる・・・そんな話を書いてきましたよと。で、前回は「かわいければ男でも女でもOK」って態度の問題点として、それが単純に嗜好の幅の広さや「寛容さ」とかに繋がるとか思ったらんなわけねーだろこの馬鹿弟子がっ!という視点をご紹介したわけですな。

 

さて、そん時に「法と道徳の分離」、つまり個人的な信条・好き嫌いと社会的な法律・規範の分離の話をしたんで、今回は「思想・信教の自由」というちょいと大上段な視点で、「好きなものが増えればそれで丸く収まるじゃん」という考え方が持つ問題、というか限界を書いてみたひ。

 

表現として暴力描写をどこまで許容するのか?喫煙(者)の扱いは?etcetc...てな感じで具体例はいくらでも挙げられるが、(このレベルからはいちいち説明せんので各自調べてチョイバルサン)成熟社会となって価値観が多様化すれば不快のカテゴリー・境界線も多様化する(まあ『無痛文明論』とか色々ありますわね)。ゆえに、なるほど「好きなものは多ければ多いほどいいし、自らの嗜好を固定化するのは愚かな行為だ」という思考態度を基本にすべきかもしれないけれど、それをパブリックな考え方にもそのまま応用できると考えるのはボッカチオにも程があるだろう、て話だ(ローティーというオッサンの提示したリベラル・アイロニズムも、まあ超大ざっぱに言うと[笑]そういう方向性)。「真理」=ベストを定めようがない以上、せいぜいできるのはベターを模索してその都度その都度の調整という行為だけだっちゃわいや。てな感じで身近な話題は終了(この点については、「排除と包摂」という観点で別に書くつもりだす)。

 

じゃあもっと時代を遡って抽象的な話をしてみよう。俺たちは多かれ少なかれ西欧近代が生み出したフレームの元に生活している。ところで、西欧近代というのは宗教改革をもって始まるとされているわけだが、じゃあそれってどんな時代だったんでしょうかと。よく「主権国家体制の成立」なんて言い方がされるけど、要は「皇帝」やら「教皇」、「ラテン語」といった(現代の国境線を基準にして、だけど)超国家的枠組みの役割が後退し、今日的な国民国家の枠組みができる時期なわけだ(注)。さて宗教改革は、政治的な背景も相まってカトリックとプロテスタントの対立激化を招き、シュマルカルデン戦争、オランダ独立戦争、ユグノー戦争、三十年戦争といった諸々の宗教戦争へと帰結して、「真理」をめぐっての凄惨な殺し合いが行われた(ただし、三十年戦争はフランスが反ハプスブルクのため新教側で参戦したこともあり、戦争の性質が変容した契機として位置づけられる)。

 

その一つであるユグノー戦争はと言うと、カトリック側が当時マイノリティであったユグノー(カルヴァン派=プロテスタント)を大規模に攻撃することから始まったのだが、途中ユグノーの中心にいたナヴァル公アンリと王妃カトリーヌ(=カトリックの中心)の娘であったマルグリットの結婚により融和が成立すると思いきや・・・そこでサン=バルテルミの虐殺と呼ばれるユグノーの大虐殺が行われる。その後、ヴァロワ朝のシャルル9世が死に、後を継いだアンリ3世の命でカトリック勢力の親玉で王位も狙っていたギーズ公アンリが暗殺されたが、そのアンリ3世もユグノーとの融和を図ろうとしてカトリック陣営の反発を招き、暗殺された(詳しくは知らんが[ぉ]、元々プロテスタントに傾倒してもいたようだ)。で、ヴァロワ朝が断絶してしまったので、その結果ユグノーの首魁となっていたナヴァル公アンリにフランス王位継承のお鉢が回ってきてブルボン朝を開くわけだけど、まあ当然ながら、カトリック側は納得するわけがない。で、頑強な抵抗を突き崩すためもあってアンリはカトリックに改宗することで、マジョリティであったカトリックの支持を取り付け、さらに「ナントの王令」によってユグノーにも(個人の)信仰の自由を認めることで、ユグノー戦争を終結させることに成功したと。

 

まあ俺がこの出来事に興味を持ったきっかけは、エロ目的で「王妃マルゴ」を借りたことなんだわ、てのは置いといてだwこの流れは、二つの重要な視点・教訓を提起している。一つ目。フランク王国を建てたクローヴィスが、キリスト教正統派であったアタナシウス派(=カトリック)へ改宗したことによって支配を確立したような、政治的リアリズムを重視した行為であること(ちなみに、このユグノー戦争の背景にはスペインがカトリックを支援していた、というような他国の介入があったことも想起すべきだろう)。そして二つ目。「信教の自由」というものが、凄惨な殺し合いの結果生まれてきたということ。これはアウクスブルクの宗教和議の性質と問題点、そしてそれを要因とする大規模な三十年戦争とウェストファリア条約も同じだが(類似することとして、三十年戦争の惨禍を元にグロティウスが国際法の必要性を提唱している)、要は、「真理」を徹底的に追求すれば相手を変えるか殺し尽くすしかなくなってしまう、ということだ。そのような惨劇と合意不可能性を前提とした時に、一種の「断念」として「信教の自由」が出てきたのだ、ということ。これはいくら強調してもしすぎることはないように思える。つまり「信教の自由」とは、その淵源から、自分の信念を保持する権利であるだけでなく、自分が不快に思うものといかに共存するかという智慧であり義務であったのだと言える(ただしこれは、不快なものについて何も言うことを許されない、という話では無論ない)。

 

このように見てくると、「好きなものは多ければ多いほどいい」という態度が、当時よりもいっそう価値観の多様化した今日、公共の態度としてはあまりにもナイーブであることは明らかだろう。ではなぜそんな話をするかと言うと・・・うーむこれ以上は「紙幅」の都合上厳しいので次回に回しますわ。すわすわ。

 

(注)
まあこれは非常に大ざっぱな話ではあって、たとえば14世紀にはウィクリフがカトリック教会を批判&聖書の英訳を出版したり、15世紀にはベーメンのヤン=フスが同じようなことやって火刑に処されたりした(世界史を受験で使った人とかは、間抜けな顔して処刑される絵とか覚えてるかもねw)。そーいうのやエラスムスといった先駆者がいて、ルターの宗教改革と聖書のドイツ語訳といったものが出てきた、てのは忘れちゃいけない。また本文でも注記したんで大丈夫と思うが、ルターの支持層にザクセン選定候といった反皇帝勢力がおり、皇帝は皇帝でカトリックによる多民族国家統治政策とかローマ教皇との関係性とかがありましたよと(てゆうかそもそも、なんで言うこと聞かないルターちゃんを、拷問にかけるとかならともかく、わざわざ会議に呼び出して変節を迫るなんてしちめんどうなことやっただろう?とか疑問に思いませんでした?)。また、今回取り上げてるのは新しく出てきたプロテスタントがどちらかと言うと抑圧される話だが、イングランドではピューリタン(=カルヴァン派)のクロムウェルたんがカトリックのアイルランドに侵攻して虐殺を繰り広げている、なんてことがあったわけで、状況により立場はいくらでも交換可能なんである。ちなみに、今回のは宗教的熱狂の話やんけと限定的に捉えてる人は、フランス革命と恐怖政治を思い出してつかーさい。あと、歴史事象ってそんな図式的に単純化できるもんじゃねーよって話は「ペルセポリス」を読んで書いたこの記事を参照。

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