キム・ギドク

2012-01-01 17:59:26 | レビュー系

本来ここでは「鞠也に首ったけ」に繋がる話として「男の娘、女装、マンヘイティング」という記事を掲載する予定だった。しかし諸般の事情により変更することにした。まあこの記事も別の点で「鞠也~」の内容と連動しているし、「鬱アニメ」とも通じるのでこれはこれでありかなと思う次第。

 

結婚式の帰りに電車の中でケンシロウと映画の話をしていた時、「鬼が来た!」や「殺人の追憶」、「オールドボーイ」などを勧めたが、そのうちの一つがキム・ギドク監督の「春夏秋冬…そして春」であった。この他「コーストガード」や「絶対の愛」、「サマリア」など印象的な作品を数多く手がける彼だが、ある時彼は「引退宣言」をしたことがあり、その内容は次のようなものであった。

「全員が隠したがる恥部をわざわざ誇張して表現した自分の映画を情けなく思う。美味しかった料理を、その後排泄物として出す際に、それを避けようとする人々の心情をまったく理解しないで映画を作ってきた。自分が本当に恥ずかしい」

 

まあこれは韜晦だと思うが、とりあえず言葉通りに受け取るならば、この意見には条件付きで賛成だ。というのは、単に天の邪鬼的な意図で相手の喜怒哀楽に水を差す行為はいささか悪趣味だと思うからだ。しかし、本当にそれだけなのだろうか?彼の喩えを用いるなら、なるほど「料理」の排泄物を見せつけるのは悪趣味かもしれない。しかし、その「料理」がいかなる由来で成立しているのかを提示する行為は十分に意味があり、また必要なことだと思うのだが。

 

料理の由来(社会的文脈)を知らなければどういうことが起こるか。
例えばあるイギリスの少年が、東南アジアにおける熱帯雨林伐採の事実を知って憤り、森林伐採の影響を書き記した上で「環境破壊をやめてほしい」と某国の大統領にでも書き送ったとしよう。それに対する応答は次のようなものだろう。すなわち、「私の国で伐採された木が、あなたの国でもたくさん使われています。よく調べてみてください」と。少年は全くの善意と誠実さで事を行なったかもしれない。しかしそこには、グローバリゼーション、あるいはコロニアリズム的な構造への無知がある(cf.「なぜ世界の半分が飢えるのか」)。

 

あるいは、こんな例で考えてみてもいい。ある青年がおり、彼は「平和主義者」を自称している。彼の父親はならず者を使って街に圧政を敷き、それで息子は優雅な暮らしをしている。しかし彼はその実態を知らないし、ましてや父親の行為を止めようとしているわけでもない。さて、あなたは彼を「平和主義者」だと思うだろうか?様々意見はあるとしても、まあ「悪人」と評価する人は少ないのではないか。いやむしろ「いい人」であるかもしれない。少なくとも明確な悪意はない、という意味において。では「いい人」とは??

 

「『料理』がいかなる由来で成立しているのかを提示する行為は十分に意味があり、また必要なことだ」と私が考えるのは、以上のような状況を念頭に置いているからだ(まあ今の例はキム・ギドクが描く作品群よりパク・チャヌクの「復讐者に憐れみを」で描かれているものに近いが)。もちろん、大きすぎる問題が山積しており、ただそれを提示するだけでは絶望しか生まれない、という意見もあるだろう。それに頷く一方で、私は無知や閉塞した想像力によるナイーブさは、いずれ相応の報いを受けることになるだろうと強く思うし、それゆえにキム・ギドクのような作品の描き方は必要不可欠なものだと考えるのである。

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