安部公房「他人の顔」~観念的人間の独善性と矮小さ~

2012-07-13 18:25:33 | 本関係

初めてこの本を読んだのは十年以上前のことだが、あとに残ったのは強烈な違和感。それは作品そのものではなく、大江健三郎の解説に対してであったが、私にはそれがどうにも的外れなものに感じられて仕方がなかったのだ。

 

当時その原因がつかめずもやもやしていたが、先日別の記事で取り上げたついでに読み直し、その正体を見極めることができたように思う。大江は、この小説の構成が極めて偏ったものに見え、またそれを瑕疵として評価する人がいるであろうことを指摘した上で、そのような見方を否定する。これは妥当な指摘であろう。というのも、その偏りは作者によって計算されたものであり、その意図と効果を鑑みることなしに内容だけを取り上げて批判するのは、たとえば勧善懲悪の作品において、(それによって善の側を正当化し読者を没入させることが目的なのに)ただ悪の側が非常に腹立たしい存在で不快だと非難するのにも似た行為だからだ。

 

ではどこが問題なのか?たとえば大江は、主人公の姿勢と妻のそれを「弁証法的」な関係、すなわち等価のものと(読者に捉えられるであろうと)みなし、次のように述べる。

つづいて主人公は、かれの人間的な実在のもっとも充実した瞬間を把握する。妻の手紙にうちのめされた筈のかれが、まったく卑小な人間どころではなくなる。『他人の顔』のように、およそ主人公からヒロイックな属性をうばいつくすことによって出発した作品において、この段階の主人公が、まさにヒーローの魅力を(それも個人の、というより人間そのものの)そなえることに成功するのは、驚くべきことである。

(中略)それではこの最後の段階においてわれわれを感動させ、この小説全体に真のバランスをそなえた展望をひらかせ、主人公に一種の実存的な威厳をあたえるものはなにか。それはすなわち、小説のこの段階における主人公の回心、あるいは決意が、魔法の杖の一触さながらに、この小説全体を、《顔にぽっかりと深い洞穴が口をあけた》人間の存在論的な追求の総体とかえるからである。

要は、妻との決定的な齟齬を経験した主人公のあり方に一般性や説得性があるとみなしているわけだが、私が決定的に違和感を持つのはまさにこの部分に他ならない。このように書くと、読者は「主人公の主張内容そのものに説得力を感じる・感じない」という具合に発言や行為の中身のことを想定するかもしれないが、そうではない。この作品の形式自体が、大江のような理解の仕方を否定していると考えるのだ。

 

私が強調したい形式的な特徴とは、たとえば以下のような点である。

1.ノートによる告白文という形式
なるほど確かに、第三者視点=神の視点において、主人公と妻のやり取りを描くのであるならば、大江のいうような等価性は担保されると思われる。しかし作者がそれを志向したのであれば、なぜゆえにノートによる告白文という形式を採用したのであろうか?主人公は妻との繋がりのためにそれを記したわけだが、実際にはそれはモノローグであって、一方的・恣意的・独善性といった性質を帯びざるをえず、ひっきょう主人公の主張の説得力は減退せざるをえないように思える。

2.精緻な科学的記載
新潮文庫の背表紙には「執拗なまでに精緻な科学的記載」という紹介文とある。この表現はまったくのところ妥当であると思うが、その効果や評価が適切になされているように思えない。もしこれが第三者視点つまり地の文においてなされていたら、それは読者への説明や雰囲気作り、そして作者の経歴を反映した筆致といった説明で過不足ないだろう。しかし、妻に読ませる目的で書かれた告白文という形式の中においてであれば、また違った意味合いを持つ。具体的には、行為に到る背景を説明する冗長さと合わせて、「読み手のことを考えない=自分の都合を説明したいだけ」という意味で独善的、パラノイア的、自己防衛的という性質を内包せざるをえない(→「説明不在要因~」)。

3.執拗な欄外注
注は何のためにつけるものだろうか?と聞かれれば、おそらくたいていの人は「よりよく理解してもらうための説明」と答えるのではないだろうか。なるほど本作の主人公もそういうつもりで注をつけているのではあろう。しかしそのあまりの執拗さと(注の中で自分の回りくどさを認めながら)注自体が冗長であることは、引っ掛かるような(=絡みつく自意識?)独特な文のリズムを作るとともに、先回りして反論や突っ込みの余地をなくす=自己防衛的側面を話が進むごとに強く感じさせるようになる(つまりこれも独善性に連なる)。さらに言えば、そこには後日の内省によって上書きすることでより客観性が担保されるという思い込みさえ的確に反映されているように思える(かつてゾイド2というゲームの攻略記事を書いた時、途中に[以下判読不可能]という演出を入れている。あれは別の視点・審級が導入されて文全体が違う印象を与えるという効果を狙ったものだが、それと共通するものがある)。

4.言葉の使い回し
主人公は、自らの欲望のあり方を「痴漢」と名付ける場面がある。もしこれが効果的に使われれば、実存に根ざした深刻な承認の希求が、実はそのようなものにすぎないと主人公が見抜いていると読者に印象付けることになるだろうし、それは主人公が透徹した眼差しを持つことの証左として受け取られるだろう。しかし、それが151および174ページのように、一ページで六回も使用されれば、効果は全く違ったものになる。すなわち、言葉のインフレがその価値を減退させ、むしろ滑稽さのみが残るのだ。

5.妻と直接会うことがない
作中において、主人公と妻はノートと手紙を介してやり取りをするだけだ。別言すれば、主人公も妻も言いたいことを一方的に主張しているだけであって、ゆえにこの形式は徹底したディスコミュニケーションを表象している。これだけ見れば、真理に拘泥する人間と、その未規定性や不可知性を前提にした上で関係性を重視する(≠精神主義)人間の間に横たわる深い溝を巧みに表現していると言えそうだ。しかし、1~4の要素ですでに主人公の言動に対する独善性のイメージは形成されている。それを踏まえると、このディスコミュニケーションをまだ真理や一般性の問題としてしか処理しようとしない主人公の絶望的な勘違い―妻は仮面云々ではなく関係性の持続をこそ望んでいたのに、主人公は主犯・共犯といったことに拘泥する―は、観念的な人間の悲しいまでの独善性と恣意性、傲慢さ、臆病さ、視野狭窄の表象として受け取られ、ここに主人公の主張は完全な死刑宣告を受ける。

 

以上のように、形式だけに注目しても様々な要素が主人公(の主張・態度)の独善性や恣意性、臆病さ、滑稽さ、パラノイア性といった特徴を指し示しており、それは読者の印象にも大きな影響を与えているであろうと予測される。ゆえに、主人公と妻の主張・態度が等価である(と受け取られるであろう)とみなしたり、映画を引用しての主張にある程度の重みを認めたり、主人公の今後に期待をかけるのは、主人公のノートの内容面にのみ照射した、片手落ちで不適切な見解に思える。そしてそれゆえに、なるほど主人公の主張や態度は誰にでも生じうるものであるだろうが、しかしそれらはあくまで反面教師的に描かれるものであって、それ自体そのまま一般的な重み・妥当性を持つものではないと言えるのである(なお、本作における形式とその印象・表象の問題としては、筒井康隆の「」と狂気の表現、あるいはデリダの「手紙」形式による「哲学的」解釈の恣意性・多様性の表現などを想起するのが有効だろう。また、柄谷行人が「日本近代文学の起源」で取り上げた「透明な言葉」とそれへの信仰は、本作の表現形式の対立項として参考になるだろう。ちなみに、作者が意図的でないという違いはあるが、「沙耶の唄」という作品は本作と真逆の表現形式と効果を持っている点で興味深い→「二項対立と交換可能性」・「エンディングの『失敗』」)。

 

最後に。
大江の解説が形式の部分を考慮に入れない偏ったものであり、またそれゆえに妥当性の低いものであると書いた。しかしこれは、作品自体の批判でないことは言うまでもない。むしろ、形式も含め様々な形で顔を失くした人間の不安や承認要求、そして観念的な人間の独善性といったものを巧みに表現し、また「朝鮮人」への主人公の意識も合わせて、弱者を善人化・権威化するような陥穽からも自由である、極めて優れた作品であると言えるだろう。さらに言えば、ここで描かれていることは、全体性や一般性を希求する人間の滑稽さであり、また真理の不可知性・多様性の認識から再帰的に関係性を重視する態度への無理解まで拡大して論じることができるように思うが、それはまた別の機会としたい。


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