成ル談義 続~whisper words of wisdom~

2013-01-05 18:45:50 | 感想など

不安に駆られて社会(≒市民)がノイズ排除とリスクヘッジに走らない社会を形成するための基本となるのが教育、という話をした前後。

 

SくんとMさんがやり取りしていて、ちょいと不穏な空気になってきた。久露葉亭の時も同じ話をしていたが、セクシャルマイノリティだとか性的オリエンテーションの話題だけで不快に思う人もいるから、言い方を非常に気をつけるかそもそも言わないようにするというポジションのMさん。対してSくんは、言われると傷つく相手の気持ちに「共感」しながらも「死ねばいいのにw」って話すよ、と言い放つ。その挑発的に聞こえる言い方もあって、Mさんがやや憮然とした反応をしたわけである。まあSくんが上記のように言う理由が「その方が『おもしろい』から」だということも表現的に誤解を招くんだけど、要はあえて議論を喚起するような言い方をしてるってことだろう。また、後でフォローに入ったデオドラントスプレーも言っていたことだけど、自分のあり方をネタ化・無害化するのは簡単だけど、それじゃあいつまで経っても本質は変わらんだろうと。表面的には問題視しないが、背後で差別的構造は残り、また時折差別感情が噴出したりする。これでは「『調和』と『地雷』」の状態と同じで、社会的に閉塞感・不全感が高まったりすると、そのはけ口として槍玉に上げられることになる。別の言い方をすれば、それではマイノリティの権利や多様性の承認といったことは、「上からの恩恵」のままだ(「上」とは政府であったり、マジョリティであったりする)。もちろんマイノリティや差別は、西欧におけるユダヤ人→ドレフュス事件・大虐殺やアメリカにおける移民排斥など普遍的に見られるものだ。問題は、「寝た子を起こすな」的姿勢でいくべきなのか否かにあると。

 

ここで俺は東郷健を思い出したりしたわけだが、ちょっと二人の議論とは違う方向のことを考えていた。なるほど性的オリエンテーションといったものは、プラスに作用すればアイデンティティになるし、マイナスに作用すればスティグマにもなる。ただ、それ(ら)を俺はあえて着脱可能な「オプション」に過ぎないと書く。てのもさ、フロイト的呪縛からはいい加減自由になった方がいいんじゃね?と思うわけよ。「倒錯」と言うのは言葉の通り「正常」なるものが存在し、その価値転倒の上に成り立つわけだけど、たとえば「ノーマル」も「アブノーマル」も両方同時にOKってことはないの?たとえば「普通に女性とセックスをする」人が大の「ボンデージフェチ」である、とかね(まあ「ノーマル」と「アブノーマル」の境界線にしてからが曖昧で多様化してる今日、そこに拘ることは逆に議論を硬直化させるけどね)。共存がありえないと言うのなら、その根拠は一体何なのかって話だ(二元論的価値観に毒されてませんか?)。俺はそんな根拠はないと思っている人間なので、「アブノーマル」は幅の広さにこそなれ、深刻で着脱不可能な「呪縛」ではない、と見なす。俺がたまに「属性」、つまり性的オリエンテーションをあえて食物の好みに喩えるのも同じ理由からだ(まあ女性、というか相手の側からすれば大層失礼な喩えだろうけどな)wつまりたとえば、「ノーマル」なセックスを嗜む人はSMには手を出さないと考えることは「パンが好きな人は米が嫌いだ」と考えるくらいナンセンスじゃないのか?ということである。

 

もっと具体的な例で言おう。ここであなたが非常に美しいと思う女性を何人か思い浮かべていただきたい。たとえば俺なら加藤ローサ、板野友美、栗山千明、長谷川京子、シャロン=ストーン、ミラ=ジョボビッチetcetc...とこの辺にしておくとして(笑)あのレベルのビジュアルであるならば、相手が男だろうと女だろうと半陰陽だろうと関係なく、余裕でセックスするね( ̄ー ̄)insertからblow jobまでa piece of cakeですわwむしろ余裕の横綱曙すぎて何を迷う必要があるのかわからんくらいにね(自分でも最近気づいたんだけど、単に面食いなだけなんですな)wちなみに最初からこうだったわけではない。AVとかで精液を見るだけでも気持ち悪くなる段階があり、「男の娘」が女にしか認識できないと葛藤する段階があり(笑)、そして今に到るとwwwちなみに、これを読んで吾輩に恐れおののく男子諸君がいるかもしれんw確かに、女性と間違えられて何度も街でナンパされた経験があるとか、自分の容貌は「美女」と言っても差し支えないレベルだという自負を持つ面々は注意した方がよかろうw俺と対峙する時はデューク東郷スタイル(=俺の後ろで勃つな!)で臨むことをお勧めしたいw

 

おっと閑話休題。てゆうか、気持ちいいもの・楽しめるものって多いに越したことはない、とは思わないかい?自分の好みを(未来にわたって不変のものとして)決めつけたり、あまつさえ「自分は~な人間だ」と規定してしまうのは、それを話のネタにする以外何の有用性があるのか俺っちにはよくわからんのよね。それって誰得なのよ?教えてプリーズ。もったいないとは思わないのかな~?別に「俺は今からでもロックフェラーにだってビル=ゲイツにだってなれる」と考えるほどに大層な話じゃないと思うんだがねwwwできないのよりできる方がエンジョイアビリティが高い(楽しめる範囲が広い)んだし無問題じゃん!!それが俺の考え方なわけ。

 

しかしそれは「何でもあり」ってのとはちょっと違うよね。例えばそれは・・・

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