間違いだらけの日本無宗教論:interlude

2019-10-30 12:48:11 | 宗教分析

ある時、あるテーマを書こうと考えて準備し、それを連続的に掲載する、ということはもちろんある。先日の『AI原論』に関する書評はその典型と言えよう。

 

しかしながら、そのような単線的・直線的経過を辿らず、これまで各所に置いておいた道標が、路地裏や全く違う道に入り込んでいる際、突然生き生きとした意味を持って目の前に立ち現れてくることも少なくない・・・

 

とまあ偉そうに能書きを垂れましたが、『AI原論』の毒書会をやった日の夜に突如表題のヤツが仕上がったので、これから上げていこうと思う次第(まあ冒頭の話に引き付けて言うと、毒書会で出てきたシンギュラリティ論者の一神教的背景や、認識論やその限界とかでウパニシャッド哲学やら南直哉の『仏教入門』とかも連想したので、『AI原論』と無宗教の件はあながち無関連なテーマというわけでもないが)。

 

詳細はこれから(おそらく二つの記事に分けて)書くとして、改めて思ったのは日本人の「無宗教」について語られる際に、(宗教関連の本でも)驚くほど政策の話が出てこないか、出てきてもその扱いが極めて小さいことへの違和感である(それはヨーロッパの宗教を考える際に、ミラノ勅令やキリスト教国教化、ウェストファリア条約、フランス革命などを考慮しないようなものだ。なお、具体的には江戸時代の「御条目宗門檀那請合之掟」に関連して言及する予定だが、取りあえずは「間違いだらけの日本無宗教論 序」で書いた「強制的に~させられるシステム」と宗教的帰属意識の件を吟味しておいてもらえるとよいだろう)。

 

しかし、歴史をつぶさに見れば、非常に長い間をかけて宗教の統制は行われてきたのであり、その特性戦後まもなく日本で行われたアンケート調査(特に自分個人の信仰と家の宗教の乖離は興味深い)を見れば、そこに触れないのは無知であるか、丸山真男的な「作為の契機の不在」が血肉化されているか、はたまた(これは皮肉だが)何かしらの組織への忖度でも行われているかのいずれかであろう、と感じる次第である(ただ、忖度などしないでもよいと思われる一般人[?]たちの発言・記事を見ても、先に述べたように政策という観点が欠落・等閑視されているのであり、そこからは前二者の要素が極めて強いのだろうと予測せざるをえない)。

 

「日本人は元々~であった」という言説も、西欧だけ見て日本と比較するような言説(タイ韓国などの様々なアジア諸国はなぜ考慮しないの?)も、いかに日本人の発想が明治期から先に進んでいない(内面化されたオリエンタリズムに毒されている)かをうかがわせるが、日本人の無宗教について考えることは、単にファクトとしてどうだったかを考える契機になるだけでなく、それらのバイアスを相対化する点でも有用だと思う次第である。


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