『AI原論』を読んで:意図はよいが構成を誤った著作

2019-10-27 13:19:48 | AI

毒書会に向けて『AI原論』を読み終えたので、簡単な感想を書いておきたい。

 

まず、端的に言って話の構成が下手である。AIの言説を紹介したらすぐ背景となる一新教の話にいくべきで、途中の認識論が極めて迂遠であり、この本は一体誰に読んでほしいのか?と問いたくなる。

 

結論を見るに、目的はAI楽観論への警鐘であり、対象は政治家やテクノクラート、あるいはある程度意識の高い(?)一般人だろう。しかし、それにしては中盤の認識論が無駄に長い。ゆえに、今述べた対象とする読者層は、途中で読むのをやめるか、飛ばすだけが関の山だ。つまり、AIという「新しい神話」に挑むには、あまりに読者説得のためのプレゼン手法が稚拙と言わざるをえない(特に、途中の認識論と対照的に最後のまとめ部分は凡庸なクリシェや粗い言葉のチョイスが目立つため、取ってつけた感が拭えない)。

 

以下は代案。

まずAIの楽観論(一般論)を紹介する。次にその問題点を指摘する(具体ではなく抽象でよい)。その次に現代哲学の認識論ではなく、楽観論の背景を提示し、「神話」をメタ視点で解体する(マニフェストディスティニーなどの歴史的問題点も組み込んで、ここを厚めに紹介)。そこで、AI楽観論の本質的な問題点として、相関主義や思弁的実在論のような認識論を展開(これは図や表にした方がよい)。さらに、それを無視するとどのような問題が起こりうるかをケーススタディで具体的に紹介。最後にAI楽観論は危険という主張を繰り返す。

 

そもそも、なぜAIという神話はこれほど持て囃されているのだろうか?その一つは、グローバリゼーションの進展と多様性の拡大などを背景に近代社会のトリアーデが壊れ、不透明性と複雑性が拡大し、人が不安になっているからだろう。つまり、近代という「大きな物語」の解体が思想レベルではなく誰の目にも明らかになっている昨今だからこそ、AIという新たな神話(信仰の対象)は私たちを強く惹き付けるのである(だから、必ずしも宗教的背景がなくともそこにコミットする人は少なくない。こういった心性は「神の罰の合理性」などでも書いた通りだ)。かかる状況を理解しつつ、AIにまつわる虚像の成り立ちを暴き出しておかなければ、将来私たちは手痛いしっぺ返しを食うだろうし、しかもその流れに棹さすことすらできない、という論理展開である。

 

この著作は、料理そのものは必ずしも不味くないが、その出し方に十分な工夫がなされたとは到底思えない(たとえば、オードブルの後にメインデイッシュを二つ並べ、その次にスープを出すようなものだ)。その意味で、意図や意欲は評価するものの(その理由は別の機会に書くつもりだ)、それはなかなか届きにくいであろうと大変残念な印象を受けた次第である。

 

ちなみにこの著作で認識論や因果率に興味が湧いた方は、『科学を語るとはどういうことか』を読むことをおすすめしたい。また、これに絡めて科学者の世界認識=素朴実在論という論じ方も量子論などか当然のように語られる今日において粗雑に過ぎはしないかという印象も受けたが、それもまた別稿に委ねることとしたい。


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