Thus spoke a descendent of Onan

2012-07-15 18:20:10 | 本関係

さて前回は安部公房の「他人の顔」について書いたわけだが、あまりに膨大になったために削った部分も含めて覚書を掲載しておきたいと思う。ちなみに、「他人の顔」の記事は「東日本大震災の流言・デマ オンデマンド」でも触れたように、「空気、合理性、ポピュリズム」に紐付ける予定だった記事Dの代わりに掲載したものだ。記事Dは環境への合理的適応の話をするつもりだったが、どこまで話を広げるべきか、またどのような角度で書いていくべきかが決めきれず、結局は形式への注目という点で「東日本大震災の流言・デマ」と共通する前回の記事と相成ったわけだ。

 

[覚書]

関係性について、一般的な傾向を思考しながら、その実自意識に閉じこもっているだけのオナニー野郎。最初から最後まで貫かれるモノローグは、閉鎖性と独善性をパフォーマティブに表現する。単に認証の問題だけではなく、自意識ゲーム。徹底した言い訳がましさ。モノローグが全体を覆う。パフォーマティブに表現。「精緻な科学的記載」がパラノイア性の暗示にもなっている(筒井の敵とその文体)。単に作者が医学部出身だから、などと考えるのは浅薄な理解。なるほど確かに、あれが神の視点から描かれたものであったならば、著者の傾向という解釈も納得できるし、また読者への説明という機能でほぼ説明がついてしまうだろう(あるのはせいぜい雰囲気作りという効果くらいだ)。しかし、ここで極めて重要なのは、これが妻に宛てた告白文であり、その目的は不貞の告発であったはずだ。そこでなぜ、相手が理解できるかもわからぬ科学的記載を入れているのか?
そのように考えると、まさに主人公のパラノイア性と読み手のことを考えぬ独善性が見事に表象されてはいまいか。欄外注という形を通じて客観性をもって眺めえているという手紙の書き手の錯覚、いな傲慢さをも適切に表現する。ゾイドの攻略記事。注を入れた瞬間、途端に別の視点(大袈裟に言えば審級)が導入されたように感じられる。

このような形式を通じて巧みに表現されたその独善性の理解をもってすれば、妻がそれを見て呆れ、主人公を未限るのは当然であるように思える。。真理にコウデイする愚者と未規定性を理解し関係性に敏感たろうとする人の差異。前者を少年漫画的、後者を少女漫画的とするのはいささか言い過ぎかもしれないが(どんどん強い敵が出てきてそれを倒していく前者、関係性を重視する後者)。ニーチェ、意味づけを求めずにはいられない精神性とルサンチマン。「自由からの逃走」の構造的必然(この主人公のあり方は教訓になる)。この見方の場合、顔を失うことは独善的な思考に陥る必然性(自明なる土台の崩壊)の準備と見なすことができる。観念的人間の独善性の理解→「嘲笑の淵源」、「感謝すれども尊敬せず」、二元論の否定。

主人公の独善は誰でも陥りうるという意味で嘲笑の対象でない。しかしそれは、非の打ち所のない正しさでも無論ない。だから妻の手紙は気付きのチャンスだった。それを徹底的に勘違いした→もはや

ここまで徹底的にすれ違い、何より相手の尊厳をここまで傷つけて、妻との関係性を回復できると思うのが馬鹿げている。せいぜいストーカーになるくらいしかないと思うよ。これは愛情の裏返しであって・・・という解釈。ふーん、「だから理解してほしい」と?そういう精神性や態度が独善的と言うのだし、それに呆れたと妻から言われてるわけでしょ?まさに「甘え」そのもに見える。「本当の自分」を見て、てかwwwそんなオナニー野郎には、まさに「拳銃」遊びがお似合いと言えるだろう。

「属性」の話をする理由のひとつ。たとえば「深刻・深淵なる実存的欲求」というのも、距離を取って見ればしょせんその程度のものなんじゃねーかい→ローティ?人間という名のエミュレータ。あれこれ偉そうに言ってるけど、主人公の志向って鬼畜ゲーム的要素とNTRをブレンドした屈折でしょwとディスペルしてみる。タブー、カフカの「城」常識へのアンチテーゼ。規範をそれだと気付かないから、アプリオリな真理と勘違いして遠大な回り道の挙げ句に道化を演じることになる。

そこまで妻に指摘されながらなお、抽象的で観念的な口上と思い出語りを続ける男。そのあまりに絶望的な無理解。

大江の解説。妻の手紙も仮面の男自身が書いたものではないか?という疑い・視点→さよならを教えてに近づく。しかし主人公の主張というか独白に一般性を感じるのが当然とでもいうような書き方が違和感。

 

形式への意識が少なければ、大江の方が正しい。「虚人たち」への無理解。「混濁したリアリティ」を写し取った「抱擁家族」へのベタな反発。男女の思考様式の違い→やめるべき。整理が乱暴すぎるし、二項対立と思考停止を招くだけ。

妻も手紙で応答する。二人が直接交わることはない、つまりディスコミュをパフォーマティブに表現。文体はツールにすぎない。筒井康隆の影響。関係が深いのは敵、虚人たち。だからたとえば、徹底的に情景描写をすれば登場人物の心情とその動きが理解できるとするのは、透明な言葉への信仰に基づいたナイーブな思い込みにすぎない。日本近代文学の起源。対比。真理へのコウデイと希求⇔関係性の志向(不透明性はむしろ前提)。より一般化。ノートと手紙。デリダの「手紙」、差延。ハーバーマス(真理)とルーマン(システム)の差異。

十年以上前。違和感。作品にではなく、大江の解説。正体がつかめずもやもや。紹介したついでに読み直し。わかった。大江は主人公の姿勢と妻のそれを弁証法、すなわち等価なものみなしており、またそれゆえに妻との齟齬を経た主人公の態度や映画の話に一般性や説得性がある(と読者が感じるであろう)とみなしている。それが全くのところ検討外れな理解と感じた。これは主人公の主張内容そのものに説得力を感じない、という内容的な話ではない。この作品の形式自体がそのような理解を否定するからだ。なぜ、ノートを介した告白文という形式なのか。たとえば痴漢なる語が151、174
では各六回ずつも用いられている。このようなインフレーションは、言葉の価値を減退させ、単に滑稽さしか残らなくなる。妻への告白文ゆえに、精緻な科学的記述の意味するものも大きく変わる。神の視点なら読者への説明と医学部出身の著者らしい筆致という説明で過不足なし。しかし妻への告白文という具体的な対象・目的が決まっているのだから、それはむしろ冗長さパラノイア性と読み手のことを考えない独善性を表象してはいまいか。もちろん、内容面の問題もないではない。主人公はわかっててやってた、という話を映画の件を持ち出しどちらが主犯とか共犯とかいうことを言っているが、これは悲しいまでの根本的な勘違い。真理にコウデイして膨大な準備の記述と煩雑な注をもって確からしさと客観性を追い求め(あるいはそのような方法でそれが手に入れられると誤解す)る人間と、それより関係性を重視する人間の態度の深い溝なのだ。妻から指摘されたのは、あなたは自分の真理(心理)を塗り固めることにきゅうきゅうとしていて、小難しい理屈をこねて結局他者のことがまるで見えていない愚か者ですね。そんなあなたとはもうやっていけません、ということでしょ?なのに、相変わらず主人公は真理と一般性の話を苛立たしげに反復するだけだ。これを見て残念な人とは思いこそすれ、重みを感じるなどとんでもないと私は思う。

さらに内容面では、知恵遅れの娘が気づいていたということ(朝鮮人への態度も合わせて、主人公を弱者→聖人という図式に入れない)。つまり自分が下と見なしていた存在に見透かされていたという滑稽さ。それすらも被害妄想による一人相撲か?そのような伏線あっての妻の手紙。作者がどういう計算で入れたかは明白。

 

そもそもなぜ、ノートを介した告白文という形式が採られているのか?この点について、解説は沈黙している。なるほど確かに、この小説が第三者視点=「神の視点」によって描かれており、主人公の言動・行動や妻のそれが別の審級によって等価に並ぶよう配置されているのならば、大江の主張は全くのところ妥当だろう(「沙耶の唄」という作品について書いた「二項対立と交換可能性」は、これと真逆の表現形式および効果について指摘したものだ)。しかしながら、一方的に綴られる。

もっとも、これだけでは説得力を感じない人も多いだろう。

二つの点。

背表紙にある「執拗なまでに精緻な科学的記載」。もしこれが前述のような第三者視点と組み合わされていたら、それは読者への説明・雰囲気作りという目的、および医学部出身の著者らしい筆致という評価で事足りるだろう。しかしそれが、ノートを介した妻への告白文であるという極めて具体的・個人的なものである時、一つ重要な特徴が加わる。

たとえば痴漢なる語が151、174では各六回ずつも用いられている。このようなインフレーションは、言葉の価値を減退させ、単に滑稽さしか残らなくなる。妻への告白文ゆえに、精緻な科学的記述の意味するものも大きく変わる。神の視点なら読者への説明と医学部出身の著者らしい筆致という説明で過不足なし。しかし妻への告白文という具体的な対象・目的が決まっているのだから、それはむしろ冗長さパラノイア性と読み手のことを考えない独善性を表象してはいまいか。

このような理解を前提にすると、この作品の映画版が小説とは全く別物になるのは当然だ。なぜなら、映画は第三者視点であるし、またそうならざるをえないから。ゆえに客観性のあるものとして受け取られてしまいがちである。

 主人公と妻の主張は決して交わらないし、ゆえに統合されることもないだろう。それは二人の言い分が、直接的に取り交わされるのではなく、手紙という形で。決定的なディスコミュニケーション。

独善性やパラノイア性、滑稽さといった印象はこのブログにも適用しうる。なので、「同性愛への嫌悪への嫌悪?」で記事の執拗さに気持ち悪いと書かれても、「え、今さらそれが何か?そんなことすら意識しないで書いてると思ってんの?むしろ自分の予想だにしない気持ち悪さや過剰性さが書く原動力にさえなっているんですがね」と思い「monomanische Fragmente」をものしたりするわけだが(「記事の分量と凶行の関係」)。それが書き連ねることの難しさでもある。相手に対する配慮という点で会話とブログの内容が変わらざるをえない理由(説明不在要因~)。言葉を増殖させればさせるほどよりいっそう正確性が増して・・・なんてのは牧歌的な思い込み。ノイズ排除を言い続けることがやり方を間違えると強迫的でノイズ排除に見えるとか。

以上のような形式とその意味を念頭に置くと、内容面の問題が初めて前面化する。
主人公はわかっててやってた、という話を映画の件を持ち出しどちらが主犯とか共犯とかいうことを言っているが、これは悲しいまでの根本的な勘違い。真理にコウデイして膨大な準備の記述と煩雑な注をもって確からしさと客観性を追い求め(あるいはそのような方法でそれが手に入れられると誤解す)る人間と、それより関係性を重視する人間の態度の深い溝なのだ。妻から指摘されたのは、あなたは自分の真理(心理)を塗り固めることにきゅうきゅうとしていて、小難しい理屈をこねて結局他者のことがまるで見えていない愚か者ですね。そんなあなたとはもうやっていけません、ということでしょ?なのに、相変わらず主人公は真理と一般性の話を苛立たしげに反復するだけだ。これを見て残念な人とは思いこそすれ、重みを感じるなどとんでもないと私は思う。 


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