説明不在要因説明其矛盾的態度?

2012-06-04 18:02:34 | 生活

未規定性の愉悦」の中で、ゆめにっきの醍醐味を話すとともに「旅」に出る動機づけの説明をした(なお、この話は「果てしなく青い、この空の下で」に関して書いた話と繋がるがゆえにここに配置されている)。ところで俺は、会話の中ではそういった「旅」の動機づけを説明することは全くない。それはなぜか。

 

これは相手の立場に立ってみるといい。人は基本的に会話で意味不明なことを聞きたいとは思っていない。仮にそういうものへの志向があったとしても、その意味不明さをズレとして笑うくらいのものだろう(あるいは対象がオカシな人間であることを納得するため=狂気の風景化とかねw)。別の言い方をすると、人は「真実」などを欲してはいない。ただ納得のいく説明がほしいだけなのである(「さるかに」、「とあるプレイヤーの証言2」)。

 

この見立てがある程度一般に通用するなら(というか経験的には確実にそうなのだが)、俺の「旅」の話はその無計画性や動機の不透明性ゆえ聞き手の疑問(or不安w)を惹起せざるをえない。それゆえ説明を要求されることになるのだが、それに応える「合理的な理由」は存在しない。というか、それが存在しないからこそ、おもしろいわけで。ゆえにわかりやすいオチを相手が期待している時点で、噛み合わないことは必須なんですな。しかも、会話はブログと違い応答責任(responsabilty)と応答能力(response-ability)の要求度合いが高いため、とっかかりのない話題は相手にかかる負担も大きい(文章は暇な時に見れるし、読みにくければスルーすればいいわけで)。別の言い方をすれば、静的なブログと動的な会話で相手の反応も違うのであり、ゆえにそれを認識していれば両者のトピックが同じにならないのはむしろ当然なのである。

 

この手の話は「ザンジバーランドの怪人」でも書いたのだが、どうも日常の会話が「タテマエ」で、ブログが「ホンネ」という短絡的な二項対立的思考をする人が多いようだ。まあもっとも、かつて言われていたように日本のブログが日記の延長でしかなく、つまり「王様の耳は・・・」と叫べる公共の穴(これ自体矛盾しているように思えるが)と主に認識されており、ゆえに日常のよしなし事や愚痴をただ延々と綴る場にされているのであれば、(日本)人がそういう枠で考えることは自然だと言えはするのだけど(まあツイッターも「バカ発見器」と言われてるしねw)。

 

ちなみにブログと会話の性質による使い分けに関しては、「ヘタレ、埋没、凡庸」で触れた結婚式の祝辞が典型的だ。そこでは祝辞の完成度を賞賛し、「相手を自分の一部と思うことで相手を大事にするようになる」という趣旨に妥当性を認めつつも、しかし同時に、妥当と受け取られる状況への疑義を提起している(これは「『調和』と『地雷』」などと繋がる)。このような話を俺は一切会話ではしていない。なぜか?それは「賛辞を隠れ蓑とした巧妙なあてこすり」のように受け取られる危険性が極めて高いからだ。最悪の場合、「すばらしい祝辞を読んだことに嫉妬しているが、それ自体を悪く言うことはできないので、回りくどい仕方で中傷している」などと受け取られることさえあるだろう。発言や主張が複雑である場合、聞き手はわかりやすい方向へ流れる傾向があるからで、これ自体は変えがたい性質であろう。ゆえに、瞬時の解釈と対応が要求され、後で発言や振舞を咀嚼して「真の意図」なるより確からしい単一の何かが措定されることの少なくない会話においては、複雑な問題・話題の提示を避けるのであり、それこそがブログと会話の内容が異質なものになる必然性であると言えるだろう(ついでに言っておくと、ブログの場合は発言者の人格を捨象した書き方ができるので、個人への批判だという誤解が生じにくい、といった面もある)。

 

閑話休題。そういうわけで、この「旅」の話題は避けることになると。仮に話すとしてもGUSHIケンバンド的な感じにしかならないので(笑)、単なる「気まぐれ」の産物だぬヽ(。∀゜)ノとか言っておくのが最も無難な対応となるわけである。

 

ちなみにこんな話を書いていると、「本当は説明したいのに誰もわかってくれないからイヂけてるだけなんじゃないかw」と考える向きも多いであろう。まあそういう反応も予想できるわけよ。だから「旅」の動機づけも、それを会話で話さない理由も、基本説明しないわけ。説明の目的が達成されないという帰結が読めるのでね(言葉を尽くせば尽くすほど理解されやすくなるわけじゃございません→「ソウルイーターとエヴァンゲリオン」、「明日、君がいない」)。ちなみにブログに「旅」の記事を書く狙いは、思考的な記事を中和する役割を果たすとともに、未規定性に関する他の記事と繋げることができる、という別の合目的的な理由があるからだ(「旅」の動機づけそのものはともかく、それがいかなる印象を与えるか、またそれゆえにどのように使いうるか認識はしているということ)。要するに、会話と違って他との関係性を意識付けしやすく、それゆえ広がりを持たせやすいということですわ。

 

あ、言うまでもないと思うけど、こういう理由付けの話こそ、会話ですると最悪でありをりはべりいまそかりヽ(。∀゜)ノ

 

では今日はこのへんで。

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