宋代の宦官はなぜ大人しかったのか?:拡大・暴走する契機が不在だった背景

2023-12-19 11:38:54 | 歴史系

 

 

去勢された官吏すなわち宦官は様々な地域に存在したが、中華地域における宦官は、司馬遷も受けた宮刑という刑罰の結果生まれた存在であるが、後にそれが一定の階層・権力を構成するようになると、自ら去勢して宦官になる者も生まれた。

 

で、一般的に宦官というとその専横で知られており、著名なのは後漢・唐・明だろう。例えば後漢なら宦官が官僚たりを弾圧した党錮の禁、唐ならば玄宗以降の派閥争いや黄巣の乱の原因(宦官らによる無茶な塩の税率設定で密売人が跳梁跋扈したことが背景にある)、明ならば永楽帝以降の勢力増大(魏忠賢による東林派弾圧などが特に有名)という具合に。

 

しかし一方で、「宦官が大人しかった時代とその理由」という問題意識は割合珍しいのではないか?そもそも大きな問題を起こしていないならクローズアップされづらいというのもあるが、その背景にまで踏み込んで考察されている点で、冒頭の動画(元はメンバーシップ限定動画で今は一般公開中)はなかなかに興味深い。

 

そこでは、宋代を宦官の専横が抑えられていた時代とし、その理由を「家族の形成と社会への組み込み」に見る。すなわち、かつて一部の宦官にしか認められていなかった結婚や養子の制度が大々的に是認されたことで宦官一族が形成され、彼らは宮廷や政治を壟断することなく、また代々の皇帝に使え続ける者もいたという。それまでは、一代限りであるがゆえに己の欲望の赴くまま賄賂などで財産の形成に執心したり、また政争に明け暮れていた行動原理が、言わば「社会に組み込まれ」、「守るものがある」ことによって抑制されたという話である。

 

もちろん、腐敗の著しい明の宦官の中でも鄭和のような優れた人物がいたように、宋代における宦官も多少のグラデーションはあっただろう。それに宋と言えば中唐から始まる藩鎮の台頭と五代十国の武断政治を防ぐため文治主義をとったように、皇帝の独裁権を制度的に強め安定させようとした王朝であった。ゆえにコントロールがある程度効いており、宦官もまたそのような形で上手く丸め込まれたという見方も可能だろう。

 

またそもそも、宦官の専横が著しかった後漢や明に関して言うと、前者では郷挙里選や赤眉の乱鎮圧で活躍・台頭した豪族と対抗させるための勢力として宦官を重用し、また明では靖難の変=クーデターによって即位した永楽帝が儒教的価値観で動く科挙官僚に対抗するために(初代洪武帝がその力を抑えた)宦官を重く用いるようになった・・・といったことを考えると、宋代においてはかかる強力な対抗勢力が概ね存在しなかった(まあ王朝の外は遼とか西夏などがいてヤバかったわけですが)、つまり彼らを重用するメリットがあまり無かった点が大きいのかもしれない。

 

つまり、拡大する契機がなく、しかも社会(宮廷)に包摂される形で専横・暴走のモチベーションが薄められていたからこそ、宋代の宦官は大きな政治的事件を起こすことなく、静かにその役割を果たしていたのだ、と言えようか。

 

このような社会への埋め込みとそれを意識した制度設計は、孤独担当相が作られ「無敵の人」などが取り沙汰される今日においてもなかなかに示唆的だが、ともあれこのような問題意識で、ひとまずイスラーム世界など各地域の宦官の諸相を見てみたいと思った次第である。


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