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「ブラック企業」織田家とその末路:織田信長の実像と本能寺の変の背景

2025-03-18 11:39:45 | 歴史系
 
 
 
 
 
あのさあ、「忙しいからちゃんと口に出して言ってくれなきゃわかんねーっ」て言うけどさ、あんたこそ肝心なこと何も説明しようとしねーじゃんか!で、「任せたのに結果出てねーじゃねーかっ!」て後出しでネチネチ文句付けて退職に追い込むってか?おー、いーよだったらテメーのことぶっ潰してやんよ!!
 
 
 
…と明智の光秀氏が思ってたかどうかまではわからないが(笑)、後の軍記物なんかで描かれる盛った話とかを排除した上でノッブさんの言行や周囲の人間の反応を見てると、「革命児」でもなければ「魔王」でもなくて、「有能でリアリストなスタートアップ企業のワンマン社長」って感じなんだよね。
 
 
彼の政策を同時代の諸大名(例えば後北条氏など)と比べてみる先進的どころかむしろ保守的ですらあるし、将軍や天皇、神社といった旧来の権威についても、むしろ保護する方向で動いているわけで。もちろんそこには、急速に成り上がっていく集団のトップとして、利用価値があるもの(人々がそこに価値を見出すもの)は地盤を固めるために活用するという戦略的な思考もあったと思うけれども、例えば蘭奢待に関するミーハー以外の何物でもない反応とかを見ていると、単純に背景・権威なき人間の成金趣味というか、権威への単純な憧れのようなものが彼の中に大きく存在していたと考えるのが妥当であるように思われる(急に金持ちになった人間が、著名な絵画とかを買い漁って自分の趣味の良さを固辞する、みたいなのと同種の虚栄心で、それは旧来の権威の破壊者というよりも、むしろそこに価値を見出し渇望する人間像が見て取れる)。
 
 
っといきなり始めてみましたが、どうもゴルゴンです。いよいよ花粉の攻勢が強くなってまいりましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか?数日前の記事で、ラシードの『集史』などとともに呉座勇一の『日本史 敗者の条件』を購入したことを書いたが、内容的には冒頭の動画とも深く関連するので、そちらを引用しつつ織田信長の実像と、その破滅の背景を書いてみようと思った次第。
 
 
そこでは、織田信長の楽市楽座や兵農分離政策などが画期的なものではなく、同時代に他大名の政策としても見えるし、実態としてはむしろ保守的な政策を採用しているケースも多い点を指摘している(「革命家」としての評価の修正)。それと同時に、彼が本能寺の変で斃れるに到った経緯として、その家臣団の運営手法が「ブラック企業」的であり、それによる不安と不満が極限まで達した結果、明智光秀が信長・信忠親子を同時に打倒できる千載一遇のチャンスを利用してクーデターを起こしたのだ、と述べている(なお、紙幅の関係から触れられていないが、これは信長の常軌を逸した行動や暴虐な振る舞いに関する逸話の数々が、かなりの割合で江戸時代の軍記物の創作に由来しており、それらを史実としてみなすことは慎むべきである、という事情も背景にある)。
 
 
とはいえ、この「ブラック企業」という表現には少し注釈が必要だろう。というのも、
1.彼らは人の生き死にに関わることを生業としている
2.天下統一という大事業(当初は畿内の安定が目的だったが)
3.現代と労働に関する感覚がそもそも違いすぎる
などなどの突っ込みがすぐに想定されるからだ。
 
 
よってもう少し正確に表現すると、信長による織田家臣団の運営手法の問題点は、
1.目標やそれに到るマイルストーン提示の欠落。より端的に言えば、コミュニケーションの(圧倒的)不足
2.組織と業務が膨張し続けているため、常に過重労働を強いられる状況(その上に1の理由でどこまでやるべきかが不透明)
3.明示されていない期待に応えられないと、佐久間重盛のように公開で詰められ隠居に追い込まれる(キャリア突然終了)
という運営手法だったことと言える(一応言っておくと、例えばナポレオン軍団における元帥がそうであるように、組織のトップ層は細かい指示を出されず、独立的で高度な現場の判断を要求される存在であることが求められる、という特性を否定するつもりはない。あくまで程度の問題である)。
 
 
ではなぜそれが成功を収めてきたかというと、仮にも信長+家臣団たちの運営が成功し、領土拡大により十分な恩賞に預かることはできていたからだ(利益>不安・不満)。この点、秀吉の出世に見られるように、その実力主義的なシステムは、家臣たちを馬車馬のように働かせ続けることを可能にしていた。ただし、質・量含めたその際限なき業務の要求度合いと、後述するような信長の配慮不足(これを「サイコパス」と短絡的に評するのは彼の理解をかえって妨げるように思われる)により、関係性が破綻する事例もまま見られた。それが、荒木村重や松永久秀、別所長治らの叛乱であり、彼らは失敗したものの、光秀はそれを成功させたというわけだ。
 
 
とはいえ、今述べた他の武将に比べれば、光秀の場合はなぜとりわけ信長に目をかけられた存在ではあり、同列に扱えないのではないか、という向きもあるだろう。ゆえに、やはりどうしても決裂が起こるいっそう決定的な要因を求めたくなるのが人情というものである(だからこそ信長暴虐エピソードが作られ続けていく、という言わば「俗情との結託」の表象が、江戸の軍記物であったという表現もできる)。これは本能寺の変黒幕説とその否定にも絡んでくる部分なのでここでは簡潔に触れるに止めるが、彼の強み(存在意義)の一つであった四国の長曾我部氏との結びつきを否定するような政策を信長が次々と打ち出し、それを挽回しようにも四国経営の責任者は別の人間(信長の三男)に割り当てられ、対立していた同格の存在である秀吉との競争に敗れつつあった(前掲書P243の図を参照)。
 
 
 
 
 


 
 
 
 
 
光秀は当時の織田家臣団内でNo.2に近いポジションにいたが、その柱となる強みが奪われて挽回の見通しも立たない上、ライバルは逆に勢力拡大を続けるとみられる状況を鑑みると、将来性がないばかりかそのポジションの高さから信長お得意の「お前ポジション与えてやってんのに、大して何もしてねーじゃん」という激詰めで、佐久間重盛と類似の運命を辿る未来を予想したとしても、全く驚くべき事ではなかった(一応言っておくと、佐久間の折檻状の中で光秀は賞賛されているが、それも期待に応えうる強みを奪われた状況であれば、今や昔の話という感じだったかもしれない)。
 
 
もし仮に、ここで信長が(本心かはさておき)光秀に対して、四国経営の方針転換と同時に「お前にはその代わりに~という役割を期待している。だからそれに邁進しろ(今のポジションが安定的に保障されるとは言っていない)」ぐらいのことを言っておけば、もしかすると一時は誤魔化し通せたのかもしれない。しかし、そのような配慮をした形跡はなく、結果として一種の恐慌状態に陥った光秀は、取り立てて緻密な計画を立てることもなく、目の前のチャンスに飛びついてしまったのではないか、と。この点、同書で指摘されるように、信長は「自分が取り立ててやった人間が自分を恨むはずがない」と思っていた節があり、その鷹揚さと無神経さがないまぜになった対人イメージが、配慮を欠いた言行として表出した、とも表現することができるだろう(この点は結構大事なので後述する)。
 
 
ちなみにこのアナロジーとして参考になると考えるのは、室町六代将軍の足利義教を暗殺した嘉吉の変と、それを実行した赤松満祐の無定見である。彼は暗殺成功後を無為に時間を過ごした後、ようやく別の将軍を担ぎ出すにいたったが、結局遅まきに失し、自らの滅亡を招いた。これは要するに、自分がパワハラ上司にすり潰されることに恐怖し、視野狭窄に陥った結果として殺られる前に殺ってやる!と一種の暴発をしたがゆえの結末だったのではないか。ともあれ、現状想定される本能寺の変は、大よそこんなところである(もちろん、新出史料が出てくれば、また大きく話が変わる可能性はあるが)。
 
 
さて、『日本史 敗者の条件』はサラリーマン向けのビジネス書ということもあり、内向きの組織論に的を絞っていて、かなり背景描写も端折っているので、ここまでそれを補足するような形で記事を書いてみた。これについては、別の角度で織田信長の特徴と限界を述べている本として、金子拓の『織田信長 不器用すぎた天下人』を合わせて読むことをお勧めしたい。
 
 
こちらは「裏切られまくる信長とその原因」という視点で描かれているのだが、武田信玄や上杉謙信など外交相手から裏切られたり、強烈なヘイトを向けられる様子が描かれていて大変興味深い。もちろん、「関東情勢は複雑怪奇っっ!!」という記事で越相同盟などを取り上げたように、秩序が流動的で群雄割拠である以上は複雑な外交関係が構築されたし、それが状況によっては手切れになることはそう珍しい話ではない。
 
 
とはいえ、徳川家康と領土関係で鋭く対立する信玄について、その両属する土地を巡りその神経を逆なでするような行動(地雷を踏み抜くと表現してもいい)を信長がとり、かつ信玄がそれにブチ切れて同盟破棄とともに家康を追い詰め自分に敵対する行動に出るのを見て、第三者への手紙で信玄に対しブチ切れなじるような行動を取っている。正直どこまでが計算なのかわからないくらい、傍から見ると無神経の極みではあるのだが、そこに見られる「俺がこれだけ天下静謐のために一生懸命頑張ってるのに、アイツときたら!」という怒り方に、織田信長がどういう心情で動いていたかがかなり透けて見えるように思われる。
 
 
わかりやすく言えばこういうことだ。「お前たちは自分の領国のことだけ、自分の利益だけ見てりゃいいからわからんだろうけどさ、俺は将軍サマとか畿内の秩序全体に気を遣いながら、しかも色々な地域の利害関係の調整までせにゃあかんのよ!いちいちお前やアイツの細かい要求に意識向けてる暇なんかねーんだよ。そこんとこわかってくれよ!」と。
 
 
まあ尾張一国から始まった織田家臣団が、急速に拡大して畿内を収め、さらにその外側へと領土を拡大していくという規模感を考えた時、信長の言い分はまあ理解できないものではない。喩えて言うなら、ただ狭いエリアでの利益を守ればいい地元企業の経営者と、全国に影響力を持つ老舗企業を支えながら、横の利害調整もしつつ、自身のエリア拡大も目指す経営者とでは、自ずと考慮しなければならない事象の数も桁違いになるし、ゆえに一個一個の案件にそれほど時間を割くことは不可能になる訳だ。
 
 
しかし、あくまで信長を交渉相手の一人と見た場合、当然のことながら私(たち)にとって信長という存在が信頼できるパートナーたりうるかが重要なのは言うまでもない。領土や外交関係はしばしば生き死にや存亡に関わる死活問題となる以上、当事者の立場に立ったら、いかに相手が忙しいかは関係ないからだ。そんな一国一城の主である各戦国武将にとり、信長の言行はしばしば不誠実なものに見えることがあった、という話だが、信玄に関するブチ切レターを見る限り、相手の立場に立って理解をしようとするより、「俺こんな忙しいから無理だよ!」という感情、というか自己正当化が先に来ている印象を受ける。先にも触れたが、「ブラック企業」織田家の運営についても、また部下への対し方についても、信長が「サイコパス」だとか、そのパーソナリティの問題以上に、あまりに組織が急拡大し過ぎて信長自身もキャパオーバーになってた(人の信条を細かく斟酌する余裕を失っていた)、と考えるのが妥当ではないだろうか(自分に余裕がなさ過ぎて、自分はこれだけ頑張ってる・相手にしてあげてるという点にばかり気がいき、相手の真情を推しはかろうとする余裕に欠けていた)。
 
 
あまりイメージが湧かないようであれば、これは夫婦・親子間における、多忙な夫(親)の言行で考えてみるわかりやすいかもしれない。つまり、「俺仕事忙しいんだからさ~、そんなんお前が何とかしといてくれよ」と言って相談もロクに聞かないし、またそのことのフォローもしない。しかし、本人は家族のために一生懸命働いているんだから、家族が自分を疎ましく思っているはずがない、などと臆面もなく考えている訳だ。そしていざ定年を迎え家庭でのんびりできると思った頃には、もうそこには自分の居場所はなく、かつてはあった「カネを運んでくる存在としての価値」すらもう失われているから、完全な厄介者というパターンである😅
 
 
 
信長の抱えていた業務量や斟酌せねばならない事柄の数は今述べた事例よりもちろん遥かに多くはあったけれども、しかし彼の言行の根っこにあるのはこういう心情だったのであり、またそれゆえにこそ、「それでも、相手にとってはあなたの忙しさが問題なのではなく、自分(たち)のことをちゃんと見ているかが重要なんだよ」というごく当たり前の事実に思いを致す余裕がなかったんやろうなあ・・・と思う次第である。
 
 
呉座勇一は、信長評の最後を「ビジネス雑誌などでは『信長のリーダーシップに学ぶ』といった企画は多いが、企業経営者や管理職はむしろ、信長の人使いを反面教師とすべきだろう」という言葉で結んでいる。私もまたこの意見に賛成だが、しかし彼の言行を虚心に見ていると、多忙さに伴う視野狭窄、あるいはコミュニケーション不足も含めた一方的な期待・非難の危うさを、むしろ対人コミュニケーション一般の典型的な反面教師(他山の石)として学び取れるのではないだろうか…と述べつつ、この稿を終えたい。

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