例えば「ハンセン氏病は業病であり、前世の行いや遺伝により発病するのだ」という発言を聞けば、(今や発症原因や治療法も確立されているのに)驚くべき無知に基づいた有害な言説であり、かつそれを流布する忌むべき人間だと思うのではないだろうか。
では、戦争についてはどうだろうか?なるほど戦争の悲惨さ(病気で言えば症状の酷さ)を訴えることは構わない。しかし、それに終始してその原因や構造の分析、あるいはそれについての正しい対策の吟味が後回しにされるならば、ただの悪魔化であり、有効な方策とは全く言えないだろう。
その観点で言えば、日本が先の戦争に雪崩れ込んでいった要因として、それがあたかも一部の人間による権力集中=ファシズム構造だという誤認がいまだに広がっているのは、その根本には意図的に作り出されたキメラ的権力分散構造に基づいた無責任体制にあったと全く周知されていない点で、まさに戦後教育の敗北を意味するように思われる(無責任体制であるがゆえに、一部の声の大きな人間の独断専行や、一度作り出された「流れ」に引きずられることが度々起こるし、そこでは売上のために好戦的な言説を垂れ流すマスメディアとそれによる世論形成も大きな影響力を持った)。
なるほど確かに、~級戦犯や公職追放といった形で一部の人間が暴走したものと定義し、「そのカテゴリーの人間たちを裁いた=大きな問題が解決された=国際復帰が可能」という一種の「手打ち」を元にストーリーが設定されたという側面はある。しかしそれを対外的な顕教として機能させるのは(外交上の戦略として)よいとしても、国内の取り組み(密教)としては、単純化しえない複雑な構造を精緻に分析することに血道をあげ、その対策を教訓として構築・伝承するのでなければ、「鬼畜米英」が一夜にして「アメリカさんありがとう」に変わったように、いわば洗脳の内容が裏返っただけで、それで容易にコントロールされる個人・社会のマインドは何ら改善されなかったと言えるのではないだろうか(あえて厳しい言葉を使えば、「右のバカ」が「左のバカ」になったところで大して変わりはしないという話。なお、今述べた状況を踏まえるならば、コロナ禍という状況において、あたかも戦中がリバイバルしたかのような様相が見られたのは、至極当然のこととさえ言えるだろう)。
そしてその意味で言えば、吉田裕が『日本軍兵士-アジア・太平洋戦争の真実』、『続・日本軍兵士ー帝国陸海軍の真実』でも述べているように、資料に基づいた戦争や戦争参加者の実態が様々な角度から検証・分析されることが改めて必要な状況と言える。というのも、戦争の実態を知る上で、戦史研究を忌むべきものとして蓋をするなど、冒頭に述べた「ハンセン氏病=業病」とする見解と同程度には愚昧で多くの誤りを生み出す姿勢だからだ(例えば前述の二つの著作を見れば、資料に基づきながら定量・定性の両面から、日本軍のグダグダ感はもちろん、日本兵に対する暴力性をも明示するだろう。この要素は、戦争の交戦国に関して「どちらが善か悪か」という話では回収できない領域の話だ。そしてこういった実態の曝露が、戦闘機や戦車、あるいは英雄譚などに酔いしれるようなコミットの仕方への歯止めともなりうるのである。これはアインザッツグルッペンの蛮行の数々や、ドイツ国防軍の実態について知ることが、ドイツ第三帝国軍に関する幻想・耽溺の歯止めとなるのと同じと言える)。
なお、戦争というものを語る際に、「戦闘の悲惨さ」にばかり偏るのはまた別の問題を生じさせる。これはインテリジェンスと呼ばれる領域への無知・無関心もそうで、「サイバー攻撃」のようなものが好例となるが、戦争の形態とはもっと多様であり、例えば「戦力を持ちさえしなければ、戦闘を行いさえしなければ、戦争になどなりえない」などという立場は極めてナイーブだと言わざるをえないのである(戦争というものが外交の一選択肢、かつ最終手段であることを踏まえていれば、当然の話ではあるが)。
・・・というわけで、以上述べたような理解を踏まえてこの動画を見ると、改めて様々な気付きがあるものと思われる。ここでは関税の件やパブリックディプロマシーの話が出てくるが、関税については「持てる国」によるブロック経済が「持たざる国」による植民地拡大の行動を生み出したことを想起させるし(だから戦後体制ではGATTが設置される)、あるいはより歴史を遡るなら、関税でこそないが、イギリス航海法に端を発する3度の英蘭戦争を思い起こすことも可能だろう。
また、パブリックディプロマシーの話は、今まさにハーバード大学で話題の留学生やその交換、あるいはそこで生まれる人的結びつきの件とも関係するが、動画ではなぜか踏み込まれないディズニーやハリウッドなどによる「文化帝国主義」ともリンクする(と少なくとも中国やロシアの為政者たちは考えている)ものと思われる(ネグリとハートの『帝国-グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』が2003年であったことを踏まえれば、むしろこのような理解は凡庸なものとさえ言える)。
この話は極端な反応と思われるかもしれないが、日本でも米英との交戦時には野球の「アウト」や「セーフ」が「だめ」・「よし」といった日本語に置き換えられたこと、あるいはイスラーム圏でネクタイの着用が忌避されたことも想起すると、日常的に当該国の文物に触れていることがその国への印象を和らげ、結果として好感に繋がりやすい点は留意しておく必要があるだろう(もちろん、キルギス旅行の覚書でも書いたように、その文物が粗悪品であったりすると、逆に悪い印象が流布したりするわけだが)。
ということで、本動画は戦争にまつわる理解度を高める上で大いに参考となるので、掲載してみた次第だ。
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