なぜ社会性なき自己責任論が横行するのか:共同体崩壊と正常性バイアス

2023-12-16 19:34:42 | 生活
前回の記事では、ナイフを持った相手(犯罪者)に対処する動画を紹介しながら、「社会の問題や弱者の包摂を自己責任で処理する言説の大半は、それらがリスク要因として将来の社会的・個人的コストとしてのしかかって来ることをほとんど考慮していない」と述べた。なお、日本はこのような「弱者は自己責任であり社会的に包摂すべきではない」というマインドを持つ人間の割合が圧倒的に高く、あのアメリカでさえも遠く及ばないほどである。一体この背景は何なのだろうか?もちろん様々な背景が想定されうるが、ここでは2つに絞って書いてみたい。
 
 
一つ目は、「身内以外はみな風景」というムラ社会的メンタリティである。もしくは柳田邦男の「日本には社会がない」といった発言を想起するのもよいが、要するに「ウチ」と「ソト」で考える習慣が強くパブリックの概念が希薄であるため、「たとえ知らない人間でも同じ社会の成員であるし、つまりは自分と同様の権利を保持していて当然である」というマインドも薄い。
 
 
結果として、グローバル化と共同体崩壊が進んで共通前提と同朋意識が希薄となり、一方同調圧力だけは残っているために、困っている人間がいた場合に、同朋として助けねばならない存在として包摂しようとするよりも、それが一定水準に劣り社会に迷惑をかけている存在となっていないかにばかり焦点がいき、それらに少しでも抵触すれば自分には無関係な助けるべきでない存在としてまず切断処理が行われてしまうのではないだろうか(今の日本でいわゆる「スパイト行動」が目立つのも、同朋意識が欠落して同調圧力だけが残ったことによるのではないかと思う。なお、余談だが、こういった傾向は成熟社会化の進む先進国では大なり小なり起こっている事態であり、トランプ現象やFNに見られる排外主義であったり、あるいはアメリカのウォール街で行われた占拠運動のようなものは、その結果生じた現象である)。
 
 
これもいささか古い著作であるが、夏目漱石は『私の個人主義』において、彼が訪れた欧州と日本の個人主義を比較しつつ、日本において「自分が主張するからには、相手にもその権利を当然認めるマインドが希薄なのではないか?」と問いかけている。これはもっと古い言葉を引用すれば、ヴォルテールの著作に見える「私はあなたの意見に反対だ。しかしあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という態度なども類似するものと言える(相手が好きだから、もしくは相手に賛成するからその権利を認めるのではない)。
 
 
然るに、日本における「個人主義」とか「自己主張」というものは、しばしば「利己主義」が耳障りよく言い換えられたものぐらいにしか思われてこなかったのではないか?それはひとえに、同じ社会を営む成員という意識、もしくはある一定の共生の作法の元で生きる陸続きの存在という認識と、それゆえ共通の権利を有する存在という意識が全く欠落していることによるのだろう(これは「リベラルナショナリズム」とも言い換えられる。その意味で言えば、「社会のお荷物をパージせよ」とばかりの発言は社会の利益のために思考しているようで、その実まったくのところ共同体が解体した後のミーイズム的思考から生まれ出ているのではないかと思われる)。だから、相手に対して放った火が自らの家屋も延焼させてしまうという感覚を欠いたまま(すなわち社会的思考を欠落させたまま)、自己責任論を居酒屋の放言がごときレベルで発言してしまうのではないだろうか。
 
 
さて、もう1つは正常性バイアスである。次の動画をご覧いただきたい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
このような現象の根底にあるのは、もちろん平和ボケというのもあるだろうが、より本質的には、原発事故などの原因としても指摘される「ゼロリスク信仰」ではないだろうか(「自己責任論が生んだ『ゼロリスク世代の未来像』」などでも触れた通り、この傾向は若年層でも変わっていない)。かかる発想は、かの戦争の最中でも勝算の見通しの無さや作戦のリスクが具体的に指摘された際、むしろ「空気」を乱す行為として厭われ、時には排除・弾圧までされたことにも通じるように思われる(なお、念のために言っておくが、こういう状況は程度問題であり、他の国・社会で全く起こらないという話ではない。しかし日本においては、かかる現象が頻度・程度とも甚だしいことは目立つ、という話である)。言い換えれば、平和的状況が続き、かつ国内の凶悪犯罪の件数も減り続けている今日、ゆえにこそ凶悪犯罪は非現実的なものとして空想の中のもののように考えられてしまっているのではないだろうか。
 
 
そのような状況下では、リスクの可能性とその対処は意識的・無意識的に忘却される。危険は「あってはならない」からであり、そしてあってはならないがゆえに、「存在しえない」のである(言うまでもないがここに飛躍がある。「べき」と「である」は全く別のことだからだ)。だから、それに対応しようとしたなら、それが訓練であっても、「そんな危険があることをお前たちは認めるのか!」とばかりにクレームを入れる輩が出るし(まあ事が起きたら起きたで何やってるんだ!と騒ぎ立てるんだろうが)、よって現場では「何もしない」のが最適解になる。
 
 
そのような環境では、危険性を正しく認識・指摘する者は、共同幻想を壊す異分子として排除される。結果として、「モノ言えば唇寒し秋の風」状態となり、バカのフリをする者たちと、リアルなバカを量産する結果が生じるのである(この状況は、「覚書:日本社会における共同幻想の構造的特徴」でも触れたことがある。なお、こういう閉鎖空間への過剰適応を放置すればどういう事態が生じるかは、ジャニーズ問題大手マスメディアの隠蔽構造、ビッグモーターや宝塚の不祥事など、2023年の間にイヤというほど見てきたはずだ)。
 
 
今述べたことが概ね正しいとすれば、一つ目の環境を変えるのはほとんど無理であり、少なくとも半世紀ほどの時間を要するだろう(逆に言えば、そこに過剰な望みを抱いて失望しても時間の無駄である)。しかし後者であれば、自身の属する組織の中でただ正論を言うのではなく、結果的にその行動原理が変わればOKという機能主義の見地で環境を変える動き(例えば「その時の責任は誰が取るんですか?」と半ば言質を取る形で脅しをかけてもよい)で局地的に個人でやることをやっていくのが、まあ最適な振る舞いということになるのではないか、と述べつつこの稿を終えたい。

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