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厳島の戦い、軍記物、歴史という「物語」:「事実は小説よりも奇なり」という性質は極めて必然的であること

2025-06-03 13:54:00 | 歴史系

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「事実は小説よりも奇なり」という言葉を最初に聞いたのがいつのことだったか、もはや明確には覚えていないが、その時の印象としては「確かに創作の方が突拍子もない話を作ることはできるが、時には現実世界で創作よりも不可思議に思えることが生じる場合もある」くらいの理解だった(まあ一般的にそう解釈されていると思うが)。言い換えれば、そこには奇想天外さにおいて「小説>事実」という了解があったと言えるだろう。

 

しかし、長じるにつれて歴史や宗教イデオロギーなど様々なものを学ぶにつれて、むしろ逆なのではないかと思うようになった。すなわち、創作物というものは、えてして複雑怪奇な現実を人間が納得しやすいよう咀嚼・加工したものに過ぎず、ゆえにその内容は決して現実のカオスを超えることができないのではないか、と。要するに、そもそも「事実>小説」という認識こそが正しいのではないか、ということである(一応カミュの『異邦人』小林信夫の『抱擁家族』、あるいはポン・ジュノの「殺人の追憶」のように、現実世界の捉え難いカオス自体を写し取ろうとした作品群も存在はしている)。

 

もちろん小説(創作)と言っても幅が広いのでこの表現はいささか乱暴ではあるのだが、例えば歴史というもので考えた場合、情報が氾濫するこの時代において、むしろ世の中を極限にまで単純化したような陰謀論の方が猖獗を極める理由は、まさに人間の情報処理能力の限界と、ゆえにこそわかりやすいストーリーに飛びつく、という抜きがたい習性の発露だとは言えまいか。

 

今回冒頭に挙げた毛利元就で言えば、厳島の戦いはその謀略が存分に発揮された場面として認知されているが、後世の創作(そこには毛利家の自己顕彰も関わっている)によってかなり誇張されており、実際には陶側の無理な軌道によるいわば自滅的な側面の強い戦闘だった。では、元就の謀略に長けた武将像は虚構に満ちているのか?と言えば、対尼子・対幕府・対大友の外交・調略に見られるように極めて巧緻に長けた人物であるのは疑いようがなく、まさに生き馬の目を抜くような世界で勢力を伸ばしてきた「謀聖」の面目躍如と言えよう。つまり、「厳島の戦いの虚妄から知略に長けた元就の人物像全体を否定する」というのはわかりやすい二項思考なのだが、実際にはそう単純な話ではなく、なるほど様々な謀略を張り巡らせてきた元就側ではあるが、こと厳島の戦いに関しては(繰り返しになるが)陶の自滅的側面が強いと言えるのである。

 

ではなぜ、厳島の戦いはそのように誤った形でクローズアップされたのか?それはやはり、毛利が仕えていた大内を大寧寺の変で滅ぼした陶を毛利が破り(実際には毛利はその変で陶の側に与同しているのだが)、そこから毛利の急速な拡大が始まるという流れの中で、厳島の戦いは劇的で「なければならなかった」からだと言えるのではないだろうか。ゆえに、謀聖毛利元就がその知略を存分に発揮した場面としてあることないこと後世に付け足されていった結果、虚妄だらけの大逆転劇が生み出されることになったのだと言えよう(このあたりは、演劇の構成もそうだが、福田恆存の『人間・この劇的なるもの』などを元に人間の精神性を想起することも有益だろう)。

 

これは歴史が「事実の羅列」ではなく、「物語」だとするような表現にも関わってくるであろう。すなわち、取り上げられる情報・取り上げられない情報の取捨選択はもちろん、人間の目でそこに何らかの因果律を認めるという過程自体に恣意性を一切挟まないことは難しく、ゆえに歴史が全き「客観的事実」となることはありえない(「物語」であるということを、「情報の確度を斟酌する必要は無い」という一種の開き直りや正当化に用いることは厳に慎まなければならないが、とはいえ一種の戒めとしてそのような認識は必要だろう。なお、このように書いているといかにも人文科学だけの話に思われるかもしれないが、「99.9%は仮説」とも言われるように、自然科学の領域でも状況が全く異なるわけはない。ただ、そのような限界を元に、信憑性の薄いエビデンスに基づく疑似科学をも厳密な検証・証明に耐えてきた諸々の法則と同列に扱うのは愚昧の極みと言える)。

 

また、人間は決して完全情報にアクセスすることはできない。例えば目の前で話している人間の思考を読めないし、その来歴を詳しくしならないこともしばしばなので、自分の経験則に沿ってその言行や意図を判断した結果、様々な誤りが生じることになるわけだが、そのようなディスコミュニケーションの羅列が事象を形成していくので、当然のことながら、そこには様々な計算違いや偶発性が出てくることにもなる(また自然は別に人間の都合に合わせて運行している訳でもないため、これもまた「ノイズ」が生じる原因となる)。

 

以上述べてきたように、複雑怪奇な世界の事象そのものを、人間の限られた想像力で構築したのが「歴史」のような世界像であり(言うまでもなくそこには宗教やイデオロギーも含まれる)、さらにそれを受け手が咀嚼しやすいよう噛み砕き、あたかも偶発的な出来事に必然の理があったかのような筆致で表現するのが小説(創作)である以上、「事実は小説よりも奇なり」というのは、驚くべきことどころか、むしろ極めて必然的な話だと言えるのではないだろうか。


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