synthesis

2015-12-30 18:25:10 | 中部・東海旅行

 

ふわっ!自然に見とれているうちに二回も誤爆をかましちまったぜ(;´∀`)まあこれが今の俺のクソ忙しい状況を反映してもいるのだがな…とウザいアピールは置いといて、山を反対側から下りてみることにした。 

 

     

 

んんー、ここはいい・・・そういや日本というか東洋は自然に親和的で西洋はその逆だと言われることがある。しかしよくよく考えてみれば、日本は災害大国なんだよなあ。島のできた経緯から火山が多いため噴火はもちろんのこと地震も多いし、海が近いから津波の被害もある。さらに峻厳な地形ゆえ流れの速い川が多く、洪水も置きやすい。その上しか台風まで通るというオマケつきだ。このような状況下で「自然に親和的」とは一体何を意味するのだろうか?自然や災害を自らの力の及ばぬ摂理として受け入れること?だったらずっと昔から災害の対策は行われてきたわけで、これは当てはまらない。では自分の生きる社会(日常)と陸続きのものと考えること?それにしては、「山中異界」という言葉に象徴されるように、自分たちのルールが通用しない世界として自然をみなしていた証左がある。動物などに関しても、犬や猫といったペットの扱いが東洋と西洋で現在そこまで違うという事例は知らないし、また日本に限定しても人間と非常に近い存在として有名な犬も、昔はもっと距離感があったようである。

 

では逆に、西洋は自然を異物とみなす(親和的ではない)のが一般的だったのか?なるほど確かに、グリム童話の「赤ずきん」やシューベルトの「魔王」(ゲーテの作品が元になっている)などからは、異界としての森への恐れが見て取れる。forestがラテン語のforis=「外」に由来する、まさにそのような世界として森や自然は認識されていた。しかしながら、たとえば森本あんり『反知性主義ーアメリカが生んだ「熱病」の正体ー』に描かれる、自然界を神の御業の表れとして理解し、それと調和して生きることを是とするようなアメリカの世界認識はどのように理解すればよいのか?このような考え方は、メインストリームではないとはいえ、スピノザの汎神論のごとくヨーロッパにも存在する。

 

このように考えてくると、東西の文明論も何やらかなり偏ったもののように感じられてくる。それに、「親和的」だとか「調和」とはそもそも何だろうか?ここをよく考えないと、反捕鯨運動をしている人たちの方が鯨やイルカを捕る者たちより単純に自然と「親和的」ということになろうし、また熊をただの愛玩動物か何かだと勘違いしているようなおめでたい発想もまた「親和的」と言いうるだろう(それはforestをfor-restとするような発想と類似している)。

 

そんなことを思いながら下山を続けた。


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