河合塾の労働組合が会社側との賃上げ交渉で合意に至らず、授業内で15分のストを行うに到った、というネットニュースを何度か目にしていた。
ただ、自分がむしろ興味を引いたのは、この問題に関する語り方を通じて憲法などへの解像度とその差異を浮き彫りにしたことで、単に賛成・反対とかではなく、これを考えるきっかけにすることが重要なのだと思う。
例えば、「金銭を払い、人生をかけて授業を受けている生徒がいるのに、その生徒に対して授業をボイコットするとは何事だ」的な物言いは、心情的に理解できる部分もあるが、意見表明としては「下の下」だろう。
というのは、組合の結成や労働争議と並んで、ストライキもまた憲法で認められた立派な権利だからである(一応言っておくと、憲法の名宛人は個人ではなく政府で、つまりは国民はかかる権利を持った存在たることを承認して国家を運営せよ、と命じられていると言える)。つまり、ストを行うこと自体は、公的に認められた権利であり、その否定から入るのは是非ではなくそもそも物を知らない上に誤っているからである(ちなみにストは「顧客や使用者の利益に影響を与えることによって自らの主張を通しやすくする」という側面があるので、こういう議論のハレーションを生み出すこともまた「効果の一つ」ではあるのだが)。
とはいえ、「法でOKとされていればその範囲内なら何をしてもよい」というのは極端な話に思えるだろうし(例えばフランスについて「まーたストやってるわ」的な取り上げ方がなされることを想起したい。その割に失業率は普通に日本より高いしね)、また心情的な部分で先のような反感が出るのは理解できるところではある(例えば自分も年末の帰省時にジェットスターのストで帰れなくなったことがあるが、スト自体に反発はしないものの、おいおいマジかよ…とは思ったしね)。
よって例えば、仮に先のような心痛を表明するのだとしたら、「ストが労働者に補償された重要な権利であることは重々理解できているが、それでも生徒の貴重な授業が部分的とはいえ失われるのは痛ましいことだ。何とかこうなる前に妥結する道はなかったのだろうか」といったものであろう。逆に言うと、こういう規則・実情・心情といった要素のすり合わせの難しさを考慮することなく、ただ心情に流されて賛成だの反対だのとお互い石を投げ合ってもはっきり言って時間の無駄であって、「もっと自分たちが生きている社会の仕組みをよく知ろうよ」で話は終わりである(まあこのあたりは、本来労働者の権利を守るために結成された組合が、バブル崩壊後の状況において雇用者側と妥協する方向を選び、もってその存在感や社会的認知をどんどん低下させていき、昨今では全てを自己責任に帰するような風潮にまで到っているように思われるが、ここでは紙幅の関係で割愛したい)。
とはいえ、前述したように今回の件からの学びは様々あり、例えばここでの対立構造や意見表明の様相は、日本という国の法社会学を考えるよいきっかけになると思う(これは「偽史」の分析と同じで、正しいか間違っているだけでなく、「なぜそのような発想が広く共有されているのか?」という視点での分析が、社会通念などの理解に有用という話である。今となっては問題点の指摘も多いが、古典的なもので言えば川島武宜『日本人の法意識』などが想起される)。というのも、特に昨今フジテレビの一件などが象徴的なように、コンプライアンスの重視が度々言われているし、パワハラ・セクハラ・カスハラなど、労働環境についての問題意識というのは非常に高まっているように思える。
しかし今回の件で「ストライキ=顧客に迷惑をかける=悪」という思考で凝り固まっているような意見を見るに、結局のところ権利というものを自己表明や自己防衛の手段として「しか」認識できていない人も相当数いるのだなと感じる(ちなみに「嫌なら辞めればいいじゃん」的物言いもブラック企業関連でよく出てくる物言いの典型ということをどれだけ理解してるのかね?)。まあだからこそ「権利意識=エゴイズム」みたいな発想になりがちで、忍耐が尊ばれる空気になりやすいのだろうけど、なるほど「社畜」精神とはこういう風に蔓延しているのだなと思わされた次第だ(自分たちの日常生活の利益が脅かされるという点でストに対してダイレクトに反感を抱きやすいという点については、公共交通機関の遅延に対する反応なども日本人の行動原理として見ていくと興味深いが、ここで詳細に扱う余裕はないので軽く触れるにとどめておく)。
よく「他人様に迷惑をかけるな」という物言いがされるが、その点ストというのは顧客や使用者、もっと広く言えば「社会に迷惑をかける」ことによって自分(たち)の要求を通すことであるので、そういった素朴な社会通念に抵触し、ゆえに反感を生みやすいが、その時にどういう反応をするかで、その人(たち)の憲法や法律に対する解像度や法意識というものが暴露される、とも言えるだろう(この点、ミル的な自由主義の原則として「他人に迷惑をかけなければ何をやってもよい」という規範意識が取り沙汰されるが、その境界が問題になる事例とも言えそうだ。まあミルが言っているのは「ゲバルト」つまり直接的な暴力行為のことであり、その意味で詳しい人からは「ストと一緒くたにするな!」とお叱りを受けそうなところではあるが)。
そして最後に、法社会学と絡めて冒頭の「喧嘩両成敗」に関して言及した部分も触れておきたい。これは先日の「『是々非々』と『どっちもどっち』は似て非なるもの」という記事でも触れたが、「どっちもどっち」は不偏不党のように見えて、その実「中立という名の思考停止」に陥らせるものである。実際には是々非々のように、「ある部分はAに正当性が認められ、ある部分はBに正当性が認められるが、総じて言えば7:3でAの主張に妥当性あり」というような個別具体的な判定が必要となる。
しかし「どっちもどっち」という喧嘩両成敗的な立場であれば、一種の「量刑判断」の煩わしさから解放され、しかも自分を中立的立場という「高み」に身を置くこともできる。情報が大量に流通し、様々な立場の発信が錯綜する中、これほど便利なポジションもない訳だが、それだけにそういう発想に人を誘導しようとする主張者側の意図はもちろん、そこへ漂流しがちな思考パターンというものに自覚的であることが必要だろう。
まあこの「喧嘩両成敗」については、以前も紹介したように自力救済の中世から、「お上」が裁定する近世的世界への移行期に出てくるものであり(戦国の『世鏡抄』から江戸の『葉隠』に見られる変化はその典型)、例えばそれは氏家幹人『江戸藩邸物語』が描き出すように、近世武家社会の事なかれ主義とも結びついていくわけだが、
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