昨日は河合塾で起こったストライキと、それに対する反応を法社会学的な観点で考えてみる、という記事を書いた。その時にはあえて触れなかったけれども、ストライキの権利つまり「団体行動権」というのは労働基本権として中学の社会(公民)で習う知識の範囲であり、時折YouTubeの動画などでネタとして言われる「義務教育の敗北」そのものだよね(・∀・)てなわけで、try itでも見てお勉強しましょうw
まあ一応真面目に書いておくと、習ったことがあってもそれが血肉(スキーマ)になっていないケースなど腐るほどある訳で、自分も相当な数の知識を忘却してきたし、今もし続けている。とはいえ、すぐに検索が可能なこの時代においては、(体系的運用はともかく)いつでも振り返ることは可能なはずである。
しかしそれにもかかわらず、どうして公共の場に意見を書く前に、違和感を覚えたことや疑問に感じたことについて、一度調べてみるという極めて簡単な一行程を挟まないのか(で、頭に思い浮かんだことを反射のように表現していくと)?自分に知識の欠落があるなどとは思いもしないのか、あるいはそこで生まれた感情を表現せずにはいられない病にでもかかっているのか全くもって謎だが、一つだけ言えるとすれば、恥なのは知らないことよりもむしろ、学ぼうとしないことの方である。
で、冒頭の件については、未成年ならともかく、いい大人が雁首揃えて憲法にも明記された労働基本権を否定するレベルの言説を垂れ流しているのだから笑えないって話だが、まあ「世間」なるものの集合知とは案外この程度のレベルらしいぞと差し引いて考えておくことは、それなりに有益ではあるだろう(これは「同じ現代日本語同士なのになぜ話が通じないのか」でも触れたように、スキーマの違いや共同幻想に関わる話と言える。まあ今回の反応は、どちらかと言えば、今もなおムラ共同体的メンタリティから脱却できていない人間が多数おり、よって異なる価値観の人間が集合した中でそれを調整するための規範や契約で社会を回している、という近代の社会契約的発想に乏しい、と書く方が正確かもしれないが)。
すると例えば、その「いい年した大人たち」がよく言っている自己責任論(大抵は「社会に迷惑をかけるな」という発言とセット)とかいうヤツも、生存権やら社会権などを正しく理解しているのかという問題はもちろん、そもそもなぜ弱者救済というものが採用されるようになったのかという歴史的営為を慮ることもなく、ただただ「あんなヤツは助けたくない」というミーイズム(自己中心的な視野狭窄)をそれらしい言葉で誤魔化しただけではないか、と疑ってかかることもできるというものだ(まあ自分が個人の領域ではリバタリアニズムだが、社会の領域では決してその規範が有効だと思わない理由もそこと関連するが、今回詳細は省く)。
そういう意味でも、日本の法社会学的理解のみならず、社会で「大人」たちがもっともらしく言っていることの胡散臭さを適切に把握する意味でも、やはり今回の河合塾のストライキにまつわる言説は、非常にインストラクティブだと思う次第である。
以上。
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