「モネの池」を見て思ったこと:「自然」と人工物、新印象主義、AI生成画像

2024-07-11 16:25:16 | 中部・東海旅行

 

 

さて、「モネの池」とはいかなるものぞと思いつつ、根道神社に足を踏み入れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

この景色もいいなあ。いかにもゲゲゲの鬼太郎とかに出てきそうな懐かしい感じ。こういう場所って、昼間に見ると牧歌的で落ち着くんだけど、日が沈んだ瞬間にガラッと雰囲気を変えるんよね。闇が自分を飲み込んでしまいそうになる、というか。その時、自分が魅力的だと感じていた「自然」や「郷愁」というものが、同時に「深淵」でもあったことに気付かされる。そういった二面性・多面性を踏まえない自然賛美などというものは、率直に言って無知による妄想に過ぎない。

 

言うまでもないことではあるが、自然は人間のために存在しているわけではない。そのことを忘れた時、愚昧な自然(のように思えるもの)への賞賛と、人工物への病的な忌避にその精神が支配されることだろう。実際のところは、日々荒々しい自然の中で人間やその生活の身を守るための施設、すなわち耐震建造物、舗装道路、ガードレールであったり、あるいは化学肥料で量産された食物のような諸々の技術の精華を享受することによって、安穏とした生活ができているに過ぎないのである。

 

その意味において、前にも少し触れたが、「私は貝になりたい」という物言いが個人的に好きではない。なぜならそれは、常に自然の荒波の中で生活している生物たちの営為を、あたかも平穏の中で閉じこもって暮らしてでもいるような認識からしか、生まれない言葉だからである。

 

そしてこういう点に留意するなら、例えば老荘思想の「無為自然」や禅の思想などについても、その受け取り方については取り扱い注意と言えるだろう(もちろん、仏教の「縁起」の教えなどはまさに自分が様々な人間や事物との関係性の中で生きていることを理解するという話であり、本来の仏教理解は、先ほど述べたような独善的自然崇拝のようなものとはむしろ真逆に位置するものなのだが)。

 

・・・とか何とか言っているうちに、モネの池に到着。

 

 

 

 

すごく…池です(・∀・)

 

 

 

 

見る角度を変えてみたけれども、どこにでもある蓮の池でありマス。

 

 

 

 

まあ強いて言うと、これなんか少し「それっぽい」わな。

 

少し考えてみると、昨日の豪雨云々以前に、そもそも今は正午少し前+カンカン照りであって、モネの池っぽく見えるとされる午前中の環境とはかけ離れているのだと思われる(何で到着がこんな遅い時間になったのかはあまり覚えてないのだが、前の日夜ふかしでもしたのか?w)。

 

まあホーエンツォレルン城の時みたく、登城時はガッツリ霧がかかっていて、下山する時に霧が晴れるという事態に比べれば、普通に見れただけ儲けもの、てことにしておこう(ドイツと違ってこっちなら再訪する機会もあろうしね)。

 

自然はワイの都合に合わせて運行してる訳じゃない以上、かくてもあられけるよて話である(ということでさっきの話に戻るとw)。

 

 

 

 

というわけで最後の記念に一枚。

 

なお、「自然」と「人工物」ということで思い出したのだけど、「私に見えるこの世界」を自然主義とも写真とも異なる形でいかにそのまま表象するかを追求した印象派が、後の新印象主義では技術論(本来の意味での「art」とも言える)の極致へと突き進んだのは大変興味深い。

 

具体的には

 

 

 

 

スーラによる点描主義が有名だが、このような描写法を生み出すにあたり、彼が参照したのは美術理論書のみならず、当時最新の科学理論だった。実際ヘルムホルツなどの研究に基づいた色彩論などを元に、その筆致を精錬していったのである(なお、光と科学と言えば、高校物理で学習するヤングの干渉実験やフェルマーの原理などを想起する人もいることだろう)。

 

こうして考えて見ると、目の前にある世界をある種直感のままに描く印象派が、最終的に理論の極みに到ったことは大変興味深いが(なお、印象派からはポスト印象派などが派生するのであり新印象主義だけに収斂したわけではない)、ともあれ「芸術」と呼ばれるものが、何か人間の深淵に触れる類のもので、霊性や直感の極北にある領域として、例えばAIの画像生成などとは相容れないもののように言われるのを聞いたりする訳だが、この新印象主義の話を踏まえるなら、それはいささか「芸術」やら「人間性」というものを理想視もしくは過大評価し過ぎていると言わざるをえないだろう。

 

実際のところ、画像生成プログラムの精緻化によって、それなりの質の作品は瞬時にいくらでも量産できるようにもはやなっている訳だが(これは何度か記事にもしている)、それでもなお(固有性によるプレミア化以外で)その領域に収まらない何かしらを提示できるのか、はたまた量産物の中に埋もれていくのか、というのもまた、芸術という領域を見ていく上で極めて興味深い問題設定の一つと言えるのではないだろうか。


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