
こないだゴミ掃除をしていたら、偶然(レシートの裏に書いたw)昔の覚書が出てきた。
そこでは上から
2.エンターテイメント [システムまで]
4.この世にかなわぬ願いなく。されど・・・ [システムとまどか]
1.サッカーで決めよう [ジョナのエピ]
3.councious loseness [日本でOK?]
5.日本的想像力とその未来
6.無国籍性 [作品論]
といったことをメモしている。私ポキータ、スペル間違い気にしない・・・は置いといて(笑)、「サッカーで~」の完成稿となる「紛争の勝敗をサッカーで決めないか?」が2011年12月のものなので、2年以上前までは遡れますよと。しかしまあ問題はそんなことではなくて、「conscious looseness」、つまり「意識的なゆるさ」ってのはまさに最近書いている「成ル談義」のテーマそのものやんけ、て話だ。問題意識が変わらず、同じ話を違う角度から書いてるだけだ、と改めて認識した次第・・・かっこつければそんな言い方になるが、まあ要は進歩しとらんちゅうことですなw
もっとも、抽象的に書くと「徹底的に法則化しようとするからこそ、その恣意性や限界を知り、意図的に固定しない状態を維持する」なんて脳みそが変色しそうな話は2010年のフラグメント、いや最初期の「人格の定義はロールシャッハのようなもの」やら(これは「キャラ的人間関係」と関連する話)、「論理至上主義の陥穽」(これは無意識ならヒュームによる批判、意識的ならこの記事へとつながる話)にしてからが、そういう意識のもとにスタートしているのではなかったか、なーんてwまあそこからは、「『オタク』カテゴリーの不毛さ」で書いた「自分の可能性を縮減するカテゴライズをするのはアホのやることだ(可能性が無限大とか無邪気に信じるのは白痴的だけどねw)」とか、「『受験世界史』を超えて」で書いた「法則化への意思・ものを見る視点の養成が決定的に重要だ」という意見へとつながっていくわけだけど(ちなみに前者は「オタク嫌い」とか狭い範囲で考える人がいるかもしれんが、これ「成ル談義 続」で言っていることと一緒ね)。この話は他にも広げていく予定だが、いかんせん膨大な分量になりそうなんで現在調整中でありますよと。
[こっから先はお時間&気力がある方向け]
ちなみに当時の構想を説明しておくと、1の「サッカーで決めよう」でearnestnessが持つある種の閉塞・危険性とloosenessの重要性を説く。2では「ソウルイーター」を題材に、「ノイズ排除」は私たちが思っているもの(=暴力的・強制的な排除)とは大きく違うのであって、またそれゆえ危険性に気づきにくいことを書く(「~『父』と『母』、あるいは『勇気』について~」、「~all redacted~」などの続きとして掲載)。しかし、2と3が上手くまとまらず、ゆえにそれ以降もグダグダになった・・・んじゃなかったかしらん(´・ω・`)
ただ、この時どう考えていたのかはっきり覚えてないんだけど、3と4をつなぐのって相当難しい気がするわい。なぜって、「まどか☆マギガ」という作品は全体を貫くのが様々な形での「報われなさ」であって、それらはもはや牧歌的な正義など成立しえないことをこそ示しているからだ(その意味では「ダークナイト」的と言える)。しかも、「デスノート」に見られる「要は勝ちゃいいんでしょ?」的ドライさではなく、善きことを行おうとする意思、もっと大きな枠で言えば社会貢献の欲求がそこにはある(もちろんデスノートの主人公にもそういう意識はあるが、最初の題名が「退屈」なので、製作者側のドライな[あるいは達観した]視点は明白)。しかしそれゆえにこそまんまと利用され、その報われなさ=承認の欠落が絶望となって、最後は排除されるべき害悪へと転じるマッチポンプ構造に、戦慄と物悲しさを感じずにはいられない(まあキュウべえという明確な怒りの対象がいることを「ヌルい」、と見るかどうかは評価がわかれるところだろうが)。この価値多様化の時代に無邪気に自分の真理が通じると思ったらこうなりまっせ・・・という好例として持ち出そうとしたのかもしれんが、これじゃあ「絶望するのはそもそもその希望が間違ってるんじゃないか?意識を変えた方がいい。それでも無理なら害にならんうちにとっとと**した方がいいよ」て言い放つのとあんま変わらんやろ(-.-;)まあここは書くにしても違う方向性になりそうだな。
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