ソウルイーター~「父」と「母」、あるいは「勇気」について~

2011-11-10 18:41:04 | レビュー系

前回の「『ガス抜き』の巧みさ」という記事において、ソウルイーターがいかに不快な要素を排除しているかということ、そしてその一方で、排除していることが容易に見て取れる作りになっていることを指摘した。また最後にマカ(主人公)に「萌えない」理由について書くとも言ったので、今回はその前提となる表題の問題について言及しておきたい(なお、私はオーディオコメンタリー版は一度も見たことがない点を断わっておく)。

 

この「父と母、あるいは勇気」という視点は漫画(原作)とアニメの大きく違うところの一つだ。正直なところ、今から述べることが原作にも通じるのかどうか私は確信が持てない。そもそも「勇気」は原作に登場しないこともあるが、原作の公式解説本?を一度立ち読みした限り「父と母」のことについても明確な言及はなかったと記憶している。しかしアニメ版においては、①アラクネとアシュラの関係性およびその破綻、②一度も登場しないマカの母が手紙で「勇気」という言葉(だけ)を贈り、それが対アシュラの鍵になっている、という二つのオリジナル要素から、極めて意識的に取り扱われていることはほとんど疑いがない。

 

もう少し具体的に「父と母」の問題を検討してみよう。作中では死武専と魔女(メデューサやアラクノフォビア)の戦いを主に描かれているが、それは「父」VS「母」という図式に置き換えられる(ように見える)。たとえば死武専は

  • マカ        → デスサイズ(母は登場せず)
  • キッド       → 死神(母は存命かどうかさえ不明)
  • ブラック☆スター   → ホワイト☆スター(一族で登場するのは彼だけ)
  • 椿         →マサムネ(一族で登場するのは彼だけ)

マサムネは厳密には父ではなく「コンプレックスを持った兄」である点には注意を要するが、それにしてもこれほどまでに母親(女系の家族)が登場しないのは明らかに偏っていると言えるだろう。一方の魔女側は

  • アラクネ → 一族を統括する存在であり、かつまた荒ぶるアシュラを鎮める存在
  • メデューサ→ クロナの母(父親は言及されず)

という具合だ。

 

ここからすると、「父」VS「母」という(二項)対立が存在し、しかも(1)デスサイズがメデューサのクロナへの態度を批判したり(2)アシュラがアラクネ=「母」を殺していることなどから「母」を否定的に扱っているようにも見える(※)。しかしながら、二つの要素がこの見解を覆す。一つは、デスサイズスの一人=死神側であるマリーが「癒しの波長」なる特殊能力を使えること、もう一つはマカの(父ではなく)母が彼女に「勇気」という言葉(精神性)を伝えていることだ(その意味で、マカの母は不在なのではなくむしろ内面化された規範=「父」的なものとして存在していると言える)。この二つがともにアニメ版オリジナルの設定・演出であることはいくら強調してもしすぎることはないが、ともあれこうして死武専VS魔女は「父VS母」という単純な二項対立でないことが理解されるのである(このように、批判的視点を持った時、実はその答えがすでに用意されていることに気づくのがアニメ版の特徴で、それを私は「詰め将棋」的だと評したわけだ)。

 

とはいえ、「メタ・エンターテイメント」でも述べたように狂気を併せ呑もうとするソウルと外界に怯えるアシュラの姿を対照的なものとして描いているのは明らかである。そしてこの構図は、「勇気」の言葉とともに困難に立ち向かおうとするマカ(※2)の姿と怯えるアシュラを包み込んで安心させ(利用し)ようとするアラクネにも対応させることが可能であろう。つまり、何らか対比の意識がそこに働いていることは明白なのである。

 

では、それは何なのか?作中では賢明にも「父性―男性性」や「母性―女性性」という言葉を使っていないが、旧エヴァンゲリオン劇場版の図式で言えば、「アスカ=他者の肯定」か「LCL=羊水」かということになる。そしてソウルイーターにおいてはLCL≒母性のエゴイズムがメデューサやアラクネの振舞い方という形で描かれているのであって、特にアラクネのそれは遡れば「うる星やつら2~ビューティフルドリーマー~」の世界で描かれているような異物の排除された永遠の日常=「母性のディストピア」と繋がるものであると言えるだろう。

 

かなり分量も多くなってきたので今回はその指摘にとどめるが、そういった文脈を踏まえつつ、次回はマカに「萌えない」理由を書いていきたいと思う。そしてその話は、「子供は天使じゃない」、「萌えにリスペクトは含まれない」といった記事とリンクしていくことになるだろう。

 


余談だが、(1)は「母」として相応しくないことの批判である一方、(2)は「母」であることへの批判であり、中身は全く違う点は注意が必要である。また(1)の主な目的はメデューサへの受け手の反発が作品への反発にならないようにするための予防線だと予想される。

※2
アシュラ戦において、意識を飛ばして恐怖を滅却したマカの意識を無理やり覚醒させる描写があることに注意を喚起したい。これは、「勇気」が向う見ずさや蛮勇とは一線を画すことを暗示する意図があると推測される。


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