〈真理の×観測不可能性○合意不可能性〉
臨死体験などの神秘体験…真理に触れたのかもしれないし、そうでないのかもしれない。観測不可能。オウム真理教の薬物、認知科学の知見(アメリカの現状を見ればわかる通り、薬物が日常生活に組み込まれている状況は「アンドロイドは~」的な近未来の話ではもはやなくなっており、すでに選択肢の一つにまでなっている)→パターン化、正当性(?)の揺らぎ。真理そのものが、ではなく真理に到達したかどうかが観測できない。再帰的思考の必要性…たとえば宮台はエリート主義、東は諦めてそれでも回る枠組みを模索している→一般意志。「いい人」は何の保障にもならない(ex.「shoothing dods」で友人が虐殺に加わっており、それでもなおバツが悪そうに主人公を助ける=理解不能な「極悪人」ではにことを暗示する場面は、このことを示す意味でも白眉のシーンと言える)。善人も一皮剥けば…違う。それは二項対立的な話だけど、俺はわからんと言っているのだ。悪人が善をなすこともある。正確には、「善行」が同時に「悪行」でもありうることが多々ある。しかし、そういう両義性・多様性を認識していないのか、それとも人々がそういう認識を持つと社会秩序を維持する上で不都合だという機能主義的な計算なのか知らないが、スルーされている。「ヒトラー最期の12日間」の重要性、「夜と霧」の限界、「アホでマヌケな大統領選」。「風景の狂気」。
〈心理〉
しかし、実際には「それでも世界は回っている」ということが決定的に重要だ(吉幾三問題)。確かに理論や理屈は、俺たちに生きる指針与えてくれるかもしれない。しかし俺たちは理論のために生きているわけではない。そこを間違えると論理至上(市場?)主義へと陥る(あるいは「神の罰」的な規範にすがりつく)。世界が「論理的」「合理的」であるという根拠は存在しない。つまりそれは、願望なのだ。そのような立場を取っているからこそ、不快感も大事にする。
〈審理〉
真理に到達できない→真理があるかのようだ。虚数であれ中心が存在し、それからの距離感、ヒエラルキー、近代的、否定神学。常識あっての非常識、メインあってのサブカル、抑圧あっての反抗というネガポジの関係、二項対立は相手がないと成立しない(=共犯関係)。「笑い」の話。カント、ラカン。真理到達が観測できないとは世界の未規定性を意味する。ニーチェ、ハイデガー、シュレディンガー。だから誰でも「ユーレカ」と宣言はできる。しかし合意は不可能である。こんなのは三十年遅れの話だが、これが再帰的思考。それをした上で選択する。「思考=オナニー」はもはや呼吸と同じ程度には自明の前提。つまり恣意的でしかありんということ。
〈心裏〉
でだ。そういう恣意性を念頭に置くと、「感情移入」や「共感」といった言葉を平気で使っている人は、いったい何をわかっているんだろうかという話になる。レビューなどで、条件と帰結もなしに語っている不思議(単なる突っ込み屋=アンチテーゼを装った共犯者)。だからこそ、自分の意見に妥当性があることを具体性をもって示す必要がある。
〈真理の到達不可能性?〉
でも真理に到達しているのかもしれないんだろ?いや、それが相手に伝えられんかったら意味ないやろ。言語ゲームの問題。証明不可能・合意不可能?なものを「真理」とは呼べない。その意味において、僕らは真理に到達できないと初めて言える。感覚の共有は?理解できる。しかし、オウムの在り方が切り崩したのはまさにそこ。神秘体験さえも人為的に作り出せる。「神秘」か「神経物質」か判別不可能→正当性が大きく揺らいだ。真理到達不可能→人間の必謬性。全て合理的、あるいは因果的に説明できると反証。偶然性は存在しないという認識→根拠は?なければ単なる仮説・妄想・願望(ラプラスの悪魔)。ゲーデルの反証、科学も宗教。不明なものに説明づけをしようとする、という志向性において。
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