目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

古代の青龍、野川下りコース源流編 約4.6km

2018-05-07 08:13:42 | ウォーキング
下見をしてから実施は二年後などということもある中、下見から実施まで約一週間というのは珍しいパターンです。先日のブログと同じような内容になってしまうことはお許しください。


写真:えきから時刻表
えきから時刻表はYahoo!の乗換案内と並び、ウォーキングの企画には欠かせないツールです。以前は時刻表を購入しなければわからなかった情報が、ネットで簡単に検索できるので便利です。時刻表で思い出すのは生前の父の話で20年くらい前のことです。近所の書店で売っている時刻表の必要なページを開き、コピーを依頼しことわられたそうです。「わかってねぇんだよなぁ」という父に、「わかってねぇのはあんただよ」と心の中で突っ込んだ思い出です。顔なじみの店主だったらコピーしてくれるのですが、その時はパートの女性だったため断られたという背景もあるのですが、売り物ですから普通はコピーしてくれません。
余談でしたが、この画面を載せたのは赤字の「土曜日に停車する列車はありません。」にびっくりしたので。中央線快速下り列車で土曜日に新宿に停車する列車がないなんてことは考えられません。どうした、えきから時刻表!


写真:新宿駅10:31発中央線快速武蔵小金井行き
土曜日と休日はたいして変わらんだろうということで調べると、35分発の特別快速に乗るか、37分発の快速に乗るか。25分の快速の後、31分の武蔵小金井止まりがあり、35分の特別快速という並びなので、特別快速は混んで座れない可能性がありそうです。37分の快速ならば空いていて座れる可能性が高いと考えたのですが、国分寺まで特別快速で20分のところ、快速では28分かかります。
そこで浮上したのが31分の快速武蔵小金井行き。武蔵小金井は国分寺より手前なのでどこかで乗り換える必要がありますが、空いていて座れる可能性が高い。えきから時刻表でこの列車の詳細を見ると、これまた不可解で理解不能です。三鷹駅に10:49に到着し、10:49に出発すると書いてあります。新宿駅35分発の特別快速は三鷹駅10:48発となっており、複々線ではない中央線快速では走行中に追い抜くことはできずあり得ません。会員に三鷹駅で特別快速に乗ることができれば三鷹で乗り換え、特別快速に乗ることが出来なければ武蔵小金井で乗り換える指示をして新宿10:31発の快速に乗車しました。
結果的に快速電車は三鷹駅で特別快速電車と待ち合わせをしたので、三鷹10:47着が正しい時刻だったようです。とても便利に利用させてもらっている「えきから時刻表」で誤った情報提供は初めてです。だれがどのようにデータを入力しているのかわかりませんが、がんばれ、えきから時刻表!
もう一つ結果的には、新宿10:35発の特別快速は座れそうになかったのですが、それほど混んでいませんでした。次回同じ時間帯に乗るときは乗り換え不要のこちらの特別快速を利用することになります。


写真:中央線快速電車
ウォーキングの企画で国分寺に行くことを考えると集合場所を井の頭線渋谷駅改札にするか、中目黒GTにするか迷うところですが、今回は中目黒GTにしました。東横・副都心線で新宿三丁目。新宿駅まで歩き中央線快速に乗る流れです。


写真:西武多摩湖線ホーム

写真:恋ヶ窪東遺跡

写真:日立中央研究所
国分寺駅でトイレを済ませ、遺跡がある公園へ移動しストレッチ。この公園も日立中央研究所に隣接しています。


写真:中央快速線

写真:日立中央研究所
日立中央研究所と中央線線路の間の道は自転車置き場となっており、車は通りません。フェンスのわずかな隙間から野川の流れを確認することができ、歩道側には野川の説明プレートがあります。



写真:万葉植物園
万葉植物園は国分寺の境内にあり国分寺市の重要天然記念物に指定されています。三月に国分寺を訪れた時に、植物園を見ている会員もいるかもしれません。植物園のページから引用します。
国分寺万棄植物園の概要 万葉植物園は、国分寺が建立された頃、編まれた歌集で、中には万葉の歌人たちが植物に託してその心を歌ったものが多くおさめられている。そこで、跡を訪れる方々に、植物を通じ、またそれらを詠んだ歌を通じて当時の人々の考え方や生活などを知って、その昔をしのぶ一助にしてもらいたいとの意図のもとに造られたのがこの万葉植物園である。これらの植物は、当時住職星野亮勝が、昭和25年から38年までの13年間を費やし独力で採集したもので、現在では、当地にて栽植の及ぶ限り、約160種(他に各植物約700種)が8,019平方メートルの園内に植えられています。



写真:線路沿いの道

写真:野川が削った崖の階段

写真:押切橋
線路沿いの道には大きな境界石があるので、線路沿いはJRの土地なのかもしれません。通路として市民が利用しています。現在水量わずかな野川ですが、源流付近にこれだけの崖を形成しているということは、国分寺崖線から染み出す水はかなりの量だったことが想像されます。日立中央研究所から出た野川の初めての橋が押切橋です。研究所内にも橋らしきものがあるかもしれませんが、押切橋が野川の最初の橋と言っていいでしょう。


写真:シャクヤクかな?

写真:野川が作った崖

写真:あやめ橋

写真:野川

写真:真姿の池湧水群から来る支流
この時期は花がきれいでそれを眺めながらのウォーキングが最高です。野川はハケと呼ばれる国分寺崖線の湧水を集めて、水量を増してゆきます。


写真:野川の不動明王と庚申塚

写真:野川にかかるこいのぼり
「不動明王」と書いてあるだけですが、大切にされてきたようです。押切橋から1kmくらい下ったかなと思いますが、水量が増えて川らしくなってきました。


写真:遊歩道

写真:もみじ橋

写真:マンションの門
もみじ橋脇に門を残して建設されたマンションがあります。広いお屋敷丸々マンションに変わったのでしょう。


写真:川沿いの道

写真:東京経済大学付近
ようやく川沿いを歩ける道が出現しました。この先しばらく川を眺めることが出来ず、東京経済大学付近の鞍尾根橋から遊歩道が整備されているようです。この日はここから国分寺駅に引き返すことにします。


写真:東経の森

写真:新次郎池

写真:ハケ沿いの道
新次郎池については前回下見編で書いているのでそちらを参照していただくことにして、東京経済大学についてWikipediaから引用します。
東京経済大学の前身は、大倉財閥を作った大倉喜八郎によって1900年に現在の東京・虎ノ門に創立された大倉商業学校。大倉は、その設立の趣旨を次のように述べている。

『条約改正が実現し、内地雑居が近く行われる。しかしわが国の商業者の知識は昔と変わらない。このままで進むと対等条約と内地雑居の実施の結果、わが国の商業界は外国人に独占されることになろう。自分が外国に支店を設けて有為の青年を派遣してきたのは外国人に対抗するためである。そこで、自分の還暦と結婚満25年を記念して、商業学校を設けて多数の商業者を育成し、世のために尽くしたい。』

創立委員として大倉の友人である石黒忠悳(大倉商業学校と大倉高商で理事・督長を歴任)・渡邊洪基(大倉商業学校の督長を歴任)・渋沢栄一が参画し、1919年には旧制専門学校の大倉高等商業学校(大倉高商)を開校。1946年には大倉経済専門学校(大倉経専)として現在の国分寺キャンパスに移転、その3年後に大学に昇格。

創立時の所在地は、大倉喜八郎の邸宅(現在はホテルオークラ、大倉集古館が建つ)の隣接地であった港区赤坂葵町(現・港区虎ノ門)であった。しかし空襲による校舎消失により、1946年1月20日に現在のキャンパスがある国分寺へ移転する。なおこの国分寺の土地は大倉財閥系列企業であった中央工業(新中央工業の前身)所有の土地であり、赤坂の校地との引き換えによって取得したものである。赤坂葵町の校地には現在、虎ノ門ツインビルディング(旧新日鉱ビルディング)が建設されており、ビル敷地内の緑地には創学の碑がある。

11万人近い卒業生がおり、経済界をはじめとして政治・会計・ジャーナリズム・芸能・スポーツなどのさまざまな分野に人材を輩出している。



写真:南町ひだまり公園
こちらの公園をお借りしてウォーキング後のストレッチをして解散となりました。解散後多くの方が殿ヶ谷戸庭園を訪れたようです。

いつもの有志5名で、この日は日高屋飲みでした。お値段リーズナブルで、味も悪くありません。〆に半ラーメンを食べても二千円でおつりが来ます。五月からウォーキングのスタートが午前中になり、これからは日高屋飲みも増えてゆきそうです。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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横浜山手・三渓園コース 約4.7Km(園内を含めると約8Km)

2018-05-04 08:48:42 | ウォーキング
連休前最後のウォーキングでしたが、季節が駆け足で移り変わってゆくこの時期だと、写真の花たちがずいぶん前のように感じます。


写真:港の見える丘公園
東横・みなとみらい線で元町・中華街に到着し、そこから歩き始めです。港の見える丘公園の谷下でストレッチをし、各自それぞれのペースで丘を登って行きました。丘というより山ですが。


写真:サザンカとツツジ
この組み合わせは珍しいのかなと思って写真を撮りました。このウォーキングがあった4月22日あたりは季節の変わり目だったのかな。


写真:タツナミソウ

写真:ジュウニヒトエ

写真:フランス山の風車
フランス山について、横浜市のページから引用します。
 フランス山の歴史は幕末までさかのぼる。生麦事件などの外国人殺傷事件が相次いだため、文久3(1863)年、フランスとイギリスは自国民を守ろうと軍隊の横浜駐屯を決定し、フランス軍が兵舎を構えたのがこの山だった。その名前に抱くイメージからはほど遠い軍事基地、それがフランス山の始まりだった。
 フランス軍が明治8(1875)年に撤退した跡地に、明治29年に建てられたのが赤レンガのフランス領事館である。軍撤退当時、移転先を探していた領事館はすぐに新築工事を始めようとしたが、予算などの問題で長く棚上げとなった。ようやくゲーテ座や指路教会などを手がけたフランス人建築家、サルダの設計施工で、約2か年の工事の末に完成した。日本近代建築史上でも高い評価を得ている。しかし大正12(1923)年の関東大震災で他の多くの建物と同様に倒壊してしまった。
 昭和46(1971)年、横浜市はこの地域をフランスから買収して整備し、翌年、フランス山公園として市民に開放した。平成14年から本格的な再整備工事が始まると、遺構が発見され、保存整備や復元工事が慎重に行われた。明治期の領事館用井戸水汲み上げ風車の土台や震災後に再建された領事公邸遺構の保存、幕末にフランス海軍が造成した階段(山の下方から左右2本が伸び、途中で合流しさらに上がっていく)や風車の復元などだ。開港資料館も資料提供で協力した。歴史がきちんと遺されたこの公園をさらに多くの人に楽しんでほしい。



写真:アジサイ
次の季節を彩る花がすでに準備を進めていました。



写真:横浜ベイブリッジ

写真:マリンタワー
横浜に住んでいた子供の頃にあこがれだったマリンタワーです。


写真:昨年整備された花壇

写真:?

写真:アヤメ?

写真:バラ?

写真:オオデマリ
イングリッシュガーデンのバラにはちょっと早かったようですが、様々な花が咲き競っていました。



写真:横浜市イギリス館

写真:大佛次郎記念館

写真:横浜水道創設記念噴水塔
イングリッシュガーデン前に再集合してウォーキングを再開します。


写真:山手のお屋敷

写真:横浜雙葉


写真:キリン園公園
山手のお屋敷街を歩き、ウィリアム・コープランドが日本で初めてビールを製造した工場跡地にある、キリン園公園へ。コープランドとビール工場についてWikipediaから引用します。
1864年に日本の横浜へ移住。コープランドは知人ら2人と出資し、商事組合 S.ジェームズ商会を1866年に設立、牧場と運送業で品質の良い牛乳販売が評判になるが、商会は1867年に解散。コープランドは単独でコープランド商会を設立し、運送業を行って、資金を貯める。資金を貯めたコープランドは山手123番(天沼)の土地を購入すると、1869年にスプリング・バレー・ブルワリーを設立した。近隣の丘を210メートル掘って、低温によるビール醸造を行った。後にルイ・パスツールが確立したパスチャライゼーション(低温殺菌法)を知ると、コープランドもこの技術をスプリング・バレー・ブルワリーに導入している。コープラドが生産したスタイルはラガービール、バイエルンビール、バイエルンボックであった。コープランドの醸造したビールは、主に横浜の居酒屋に樽で売る他、醸造工場に隣接する自宅を改装し「スプリング・バレー・ビヤ・ガーデン」を1875年に開設すると、外国人居留者と外国船の船員向けに営業している。こちらも日本初のビアガーデンと言える。コープランドのビールは評判となり、東京や長崎へも出荷されるようになった。なお、1869年にはジャパン・ヨコハマ・ブルワリー、ヘフト・ブルワリーなども開業しているが、コープランドのビールほどは評判にならなかったようで、短期間で閉鎖されている。

コープランドは1872年にノルウェーへ一時戻るとアンネ・クリスティネ・オルセンと結婚した(結婚時、15歳)。コープランドは花嫁を伴って日本に戻ってきたが、7年後の1879年にアンネ・クリスティネは22歳で病死する。

ドイツ人醸造技師E・ウィーガントが1974年頃に設立したババリア・ブルワリーはスプリング・バレー・ブルワリーの近隣にあったこともあって、競合していた。ババリア・ブルワリーとスプリング・バレー・ブルワリーは低価格競争に陥り、互いに利益を減らしていった。1876年にコープランドはヴィーガントに競争の無駄を説得し、コープランド・アンド・ヴィーガント商会を設立する。コープランドが経営担当、ウィーガントが醸造担当という役割分担であったが、これは上手く行かず、1880年にコープランドとウィーガントの間で、工場経営の主導権をめぐって対立が激しくなり、裁判の結果、商会は解散となって、工場は競売にかけられることとなる。工場そのものは、コープランド自身が落札したため、醸造所は継続することになる。

コープランドは、1881年より日本人向けの味が淡白で低価格のビールの醸造もはじめ、1882年には日本語新聞にはじめての広告を掲載するなど、日本人向けの販売を始める。しかし、醸造所買収時の借金がきっかけとなり、スプリング・バレー・ブルワリーは1884年に倒産、公売にかけられることになった。

スコットランド出身の商人 トーマス・ブレーク・グラバーの支援を受け、スプリング・バレー・ブルワリーは1885年に日本人投資家に売却され、ジャパン・ブルワリーとなる。1888年、ジャパン・ブルワリーは明治屋と一手販売契約を締結し「麒麟ビール」の販売を始める。

1889年、勝俣清左衛門の次女・ウメ(勝俣銓吉郎の姉)と再婚。自宅のビアガーデンを経営する傍ら、東京の磯貝麦酒醸造所の技術指導などをする。1893年には日本を後にし、グアテマラシティで商売を始めるが上手く行かなかった。1902年1月には日本に戻って、横浜の石川町に居を構えるが、翌2月には没することになる。ウメはその後、両親と東京で暮らし、婦人帽子などの装飾業を営んでいたが、1908年に亡くなった。

コープランドの葬儀はジャパン・ブルワリー社によって行われ、墓は横浜外国人墓地に建てられた。後にウメも葬られている。

スプリング・バレー・ブルワリーの跡地は横浜市立北方小学校となっている。ジャパン・ブルワリー社の後身である麒麟麦酒社の横浜工場、横浜支社では、コープランドの命日(2月11日)と6月には、墓前で、最新のビールを供えて、麒麟麦酒社の発展を祈る墓前祭が行われている。



写真:本牧リボンファンストリート商店会

写真:ナツツバキ

写真:春紅葉


写真:本牧山頂公園
このコースは横浜の特徴であるアップダウンが多くて疲れます。この日二つ目の登りである本牧山頂公園に到達しひと休みです。




写真:本牧神社
山頂公園から階段を下ると本牧神社。神社のページから引用します。
本牧神社(旧称・本牧十二天社)は旧来、本牧岬の先端(現本牧十二天一番地)に張り出した出島の中に鎮座し、巨古木蒼然たる杜に囲まれ、鳥居の脚元には波濤打ち寄せる風光明媚な鎮守様でした。その様子は江戸名所圖絵にも「本牧塙 十二天社」として描かれ、江戸湾を往来する廻船からは航海安全の神、地元民からは生業の守護神と崇められ、八百年以上の永きに亘り本牧の地に鎮座して人々のあつい信仰を受け続けていました。
伝記には、建久二年(1192年)、源頼朝公が鎌倉幕府を開くにあたり、鬼門(北東の方角)守護を祈念して平安時代から存せる神殿に六尺×四尺の朱塗厨子を奉納したとあります。
また、鎌倉将軍惟康親王より社領の寄進を受け、さらに室町中期には、関東管領より社領の寄進を受けました。天正年間には徳川家康公の関東入国に際し、高十二石免御朱印の下知があり、以来、徳川十五代将軍より「御代々頂戴」―とあり、方除け、厄除けにご神徳が顕然として、武家や庶民から篤く崇敬されていた様子が判ります。また、別当寺であった多聞院の由緒書によると『弘長三年(1263年)正月元朝、滄波洋々たる海中に炫爛として皎明を発し、一の大日靈女命(天照大御神)の像、今の社地の海岸に漂い給いしを郷人恭しく祠宇を建て、本村の総鎮守と奉斎したり。去るほどにいつの頃か僧侶の手により本地垂迹の説を継いで仏説十二天(日天、月天、火天、水天、風天、地天、梵天、毘沙門天、大日財天、閻魔天、帝釈天、羅刹天の十二神)を神前に祀り、本体大日靈女命を深く秘したり(今に古老は当の本体は本殿の背後より拝するものとする風あり)』とも記されており、十二天社の呼称のいわれを伝えています。
一尺二寸の十二体の天像は、明治初年の神仏分離令によって分けられ、本体の大日靈女命を祀って「本牧神社」と改称されました。
先の大戦において、横浜は大空襲の惨禍により市街の多くが焼け野原となりました。更にこの本牧地区は、終戦直後の昭和21年から、二十三万坪に及ぶ進駐軍の強制接収に遭い、以来、平成5年までの47年間、当神社も往古の境内地を失って本牧町二丁目への仮遷座を余儀なくされ、多くの氏子共々、苦難の時期を過ごしてきました。  
米軍の接収が解除とともに、返還地域一帯は横浜市による区画整理事業が行われ、その結果、当神社の境内地は従前の「本牧十二天」ではなく、現在の「本牧和田」に換地されることとなりました。  
こうして50年近くの長い間、仮遷座を忍ばれながら氏子とともに苦楽を共にされた大神様の御神恩に感謝の誠を捧げるべく、氏子崇敬者の浄財を募って御造営されたのが現在の御社殿です。まさに本牧神社の戦後の歩みは「ハマの戦後復興史」そのものと云えましょう。



写真:三渓園のキハナショウブ


写真:三渓園の藤棚



写真:三重塔

写真:ボタン

写真:古民家
三渓園に到着し、皆それぞれ園内を巡っていました。茶屋でビールを飲んでいたらそのあと歩く気がしなくなり、飲み仲間を集めてウォーキング終了。

タクシーで根岸駅へ向かい横浜ジョイナスの銀座ライオンでビール。歩いた後のビールはやっぱりおいしかったです。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
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目黒ウォーキング協会主催 武蔵水路・さきたま古墳バスハイク

2018-05-02 06:36:49 | ウォーキング
協会員の親睦を図るため、目黒ウォーキング協会では年に一度のバスハイクを実施しています。今年の目的地はさきたま古墳公園と、そのわきを流れる武蔵水路沿いに整備されたさきたま緑道。


写真:目黒区役所南口
現在目黒区役所があるこの場所、かつては牧場でした。江戸時代、日本では牛乳を食用とする習慣がなく、明治維新以降急速に西洋の文化が流入する中で牛乳の需要が高まり、目黒川が作った傾斜地は牧場になりました。昭和二年に牧場はアメリカンスクールに代わり、昭和32年まであったそうです。運営されていたかどうかは別にして、太平洋戦争の時期にもアメリカンスクールが存在していたのですね。近くにはアイスクリームショップもあったそうですが、外国人御用達、日本人お断りだったとか。
アメリカンスクール(はっきりとしたエビデンスはないものの、現在調布市にあるASIJと思われる)が移転した後、この土地を千代田生命が買収し著名な建築家村野藤吾氏が設計した本社社屋が立てられました。千代田生命破綻後、目黒区が170億円余りで買収したのですが、その後区長が自殺するなど負の歴史が付きまといます。経緯も真相もわからないのですが、景気が回復した今となっては安い買い物をしたのではないかと思います。


写真:さきたま緑道

写真:桐の花
目黒区役所を出発したバスは、大鳥神社、碑文谷小川軒前、都立大学高架下で協会員をピックアップ後、環八から関越自動車道を東松山で降りて、赤見台近隣公園で下車しました。武蔵水路沿いに整備されたさきたま緑道は国道17号を歩道橋でパスしていて、歩道橋から目の前に桐の花を見ることができました。この花、なかなか近くで見る機会はないですね。


写真:点在する彫刻



写真:さきたま緑道
武蔵水路についてWikipediaから引用します。
武蔵水路(むさしすいろ)は、利根川の水を荒川に導くための導水路。利根川水系に属する。埼玉県行田市の利根大堰で利根川から取水され、鴻巣市で荒川に注ぐ。全長14.5 kmで全体が開水路である。管理者は水資源機構。東京都水道局の約4割、埼玉県企業局の約8割の給水エリアの水道水を送っている。また、周辺地域の洪水や出水を取り込む役割(内水排除機能)を果たしている。1965年、見沼代用水路の一部を使用して緊急送水を開始、1967年、武蔵水路の工事が完成した。2015年度までに改築工事を実施(後述)し、これに伴い、一部区間で治水機能を新たに有したことから、2016年に利根川水系に属する一級河川に指定された。

さきたま緑道については埼玉県のページから引用します。
JR北鴻巣駅前の鴻巣市赤見台近隣公園から、武蔵水路に沿って、さきたま古墳公園に至る4.5km、幅員25mの遊歩道と自転車道のある緑道です。
安全で快適な、花とみどりあふれる雰囲気の中で、いにしへの緑のみちとして整備され、昭和58年4月に一部開通、以後徐々に拡張し、平成元年11月に全面が開通されました。平成元年に開催された「第4回国民文化祭さいたま'89」にともない製作された、「さきたま」の地にふさわしい彫刻50点が展示されています。



写真:元荒川
元荒川と交差する武蔵水路は地下のトンネルを通り双方の水が混じらないようにしており、このような方式を逆サイフォンと言います。


写真:彫刻の一つ

写真:武蔵水路

写真:霧に煙る遠景
遊歩道と自転車道は時々交差しながら続いてゆきます。


写真:ヤマボウシ


写真:蜘蛛の巣

写真:武蔵水路
時折小雨が降る天候でしたが、幸運にも歩いているときには降られず傘は不要でした。水玉をまとった蜘蛛の巣がきれいですね。巣を張る蜘蛛の種類なのか、地面付近の蜘蛛の巣が印象的でした。


写真:さきたま緑道

写真:蜘蛛の巣


写真:コデマリ

写真:シラン

写真:栃ノ木

写真:チガヤ
利根川や荒川が作った広大な平地が続いており、退屈と言ってしまえばそれまでなのですが、細かく見ると花など見どころもありました。


写真:奥の山古墳

写真:イロハカエデ

写真:移築民家

写真:埼玉県発祥の地

写真:さきたま古墳公園

写真:駐車場を守る埴輪
1時間弱のウォーキングでさきたま古墳公園に到着しました。会員の皆さんは時間が許す限り、様々な古墳を見て回っていました。


写真:レストハウスにてお弁当
40人で食事をとるような施設がなかったので、今回はお弁当を届けてもらいレストハウスで皆での食事となりました。この頃から雨が降り始め、屋根のあるレストハウスがありがたかった。

滑川の温泉施設で入浴した後、来たコースを逆に戻って目黒区役所へ。個人的に関越道に乗る場合、環八は使わないので今回の下見の時が初体験でした。朝は渋滞があって都立大学から練馬の入り口まで一時間かかりましたが、帰りは順調で30分くらいだったように思います。2006年に井荻トンネルが開通して以降、流れがスムーズになったようですね。

今回天候に恵まれたとはいえませんが、歩いているとき雨が降らずにラッキーでした。今年度もめぐろウォーキング塾や、めぐろウォーキングマーチ将軍お鷹狩りウォークと恒例のイベントを運営してゆかなければなりません。交流を深めた協会員のチームワークで乗り切ってゆきたいと思います。


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