目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

第16回将軍お鷹狩りウォークロングコース実踏

2018-06-14 09:42:04 | ウォーキング
今年も11月3日に「めぐろウォーキングマーチ将軍お鷹狩りウォーク」が開催されます。事務局のコース提案作業は四月から始まり、今回は実行委員がそのコースを確認する作業です。台風の影響により雨が予想されたあいにくの日となってしまいましたが、コース確認作業は延期されることなく実施されます。




写真:日比谷公園健康広場
初回から14回までのスタート会場は桜田門広場でしたが、昨年から11月3日に桜田門が使用できなくなり、こちらの公園内の広場をお借りしており、今年もこの広場からのスタートが決定しています。日比谷公園に自由の鐘や、三笠山と呼ばれる高台があることをほとんどの人は知らないでしょうね。

日比谷公園霞門を出て信号を渡り、弁護士会館の一角にある「大岡越前守忠相屋敷跡」のプレートを確認します。ちなみに南町奉行所は有楽町の交通会館がある場所にありました。直線距離にして1キロ弱です。
さらに西へ向かい、外務省脇の霞ヶ関坂を上りながら、外務省内に建てられた陸奥宗光像を確認します。突き当りの六本木通りを右折し、国土交通省前で六本木通りを横断して国会前庭和式庭園内を歩きます。国会前庭は道路を挟んで北側に洋式庭園、南側に和式庭園があります。これまでのお鷹狩りでは「日本水準原点」がある洋式庭園を歩いてきましたが、和式庭園を歩くのは今回が初めてです。
庭園を出て国会側へ横断します。参議院を見ながら歩くことになるのですがこれまでは道路一本隔てて見ていました。今回は国会議事堂側の歩道をルートに選びました。議事堂を過ぎると参議院議員会館。平河町を左折して参議院議長公邸に続き、衆議院議長公邸を見て、赤坂見附は歩道橋で渡ります。青山通りを西へ向かいますが、マクラーレンやランボルギーニ等、手が届かない車をウィンドウ越しに眺めながら歩くのも面白いものです。お馴染みの「やらと」の暖簾を見ることができませんが、いつからなくなったのでしょう?いちょう並木で青山通りに別れを告げ、神宮外苑へ向かい絵画館前でトイレ休憩しました。

このルートもお鷹狩り16年の歴史の中で初めてとなります。第一回を含め皇居から絵画館を目指す場合は紀尾井町、迎賓館、安鎮坂、権田原を通るルートが採用されました。最近はランナーが増えて鮫川橋坂、安鎮坂が歩きにくくはなりましたが都内を代表する素晴らしいルートです。青山通りを歩いたほうが距離が短くなるかなぁと思ったのですが、距離はどちらも変わりませんでした。お鷹狩りの際将軍一行は現在の青山通りを通って目黒へ向かったという話を聞いたことがあるので、今回は青山通りを採用することにしました。歩道も広くて歩きやすいし。



写真:神宮外苑絵画館前

写真:聖徳記念絵画館
絵画館前では消防団の訓練が行われていました。来週消防団操作大会があるそうで、この時期によく見かける光景です。ここで将軍お鷹狩りについて目黒区のページから引用してみましょう。
目黒の鷹狩り
目黒といえば、さんま・タケノコ・不動尊で広く世間に知られている。これらは徳川歴代将軍の鷹狩りと深いかかわりがある。すなわち、目黒の近世史を語るうえで、将軍家の鷹狩りを見過ごすわけにはいかないのである。

近郊の鷹場を整備
鷹狩りは、飼いならした鷹をこぶしにのせ、山野に放して野鳥を落としたり、捕まえたりする、鍛練と娯楽を兼ねた行事であったが、中世になり武家が政権を執るようになると、政治的なねらいから、領内の民情や敵地の情勢を探る傾向が強くなり、制度として次第に整えられていった。
江戸時代に入ると、幕府は鷹狩りを年中行事に取り入れ、年頭には決まって将軍自らが鷹狩りを行ったといわれる。また、将軍家が鷹狩りを行う場所を御鷹場、拳場、御留場などといい、特に幕府のおひざ元である江戸近郊の鷹場は、江戸を固めるために整備され、鷹の飼養と調練にあたる鷹匠や鳥見などが置かれた。
自給自足のさびれた農村であった目黒の中で、駒場野、碑文谷原、碑文谷池などが、将軍家の格好な鷹場となった。また、鷹場の各所に鷹番を置き、各村に高札を立てて村の連帯責任で見張らせたりしたといわれている。鷹番の地名もこんなところから出たものであろう。

「生類憐みの令」で一時中止
鷹狩りを好んだ三代将軍家光は近郊へ遊猟に出ることが多く、史料によると、寛永から正保年間にかけて、碑文谷原へ1回、目黒辺りへ6回という記録が残されている。特に寛永元年(1624年)、秋の鷹狩りの際に目黒不動に立ち寄ったのが縁で、元和元年(1615年)の火災で焼失した本堂を再建し、仏像なども寄進したといわれている。以来、目黒不動は幕府の厚い保護を受け、江戸近郊の最も有名な参詣行楽地として栄えていった。また、爺ヶ茶屋にまつわる目黒のさんまの話もこのころのものである(話の主は、八代将軍吉宗であるという説もある)。
盛んに行われてきた将軍家の鷹狩りは、貞享4年(1687年)に五代将軍綱吉が出した「生類憐令」により、中止せざるを得なくなり、以後七代将軍家継まで、目黒での鷹狩りの記録はない。

農民泣かせの鷹場復活
八代将軍吉宗の時代を迎えて、享保元年(1716年)に再び鷹狩りは復活し、江戸の鷹場は葛西、岩渕、戸田、中野、品川、目黒の6筋に分けられた。特に目黒筋の鷹場は、江戸からの距離や地形の関係から、従来にも増して活況を呈するようになった。これらの鷹場は単に復活しただけでなく、幕府創設期の緊張した政治への復活を目指すものであった。しかし、この復活によって、付近の村は田畑を踏み荒らされたり、鷹場の整備に駆り出されたりして、農民泣かせの復活でもあった。



写真:新国立競技場
休憩を終えるとお鷹の松を見てから、新国立競技場の建設現場を横目に歩きます。今回このルートを採用した目的の一つがこれ。建設が進んだ競技場を見て、東京オリンピック2020へ盛り上がってゆきましょうということです。
スタジアム通りから青山通りに戻り、外苑西通りを横断します。これまであまり意識していなかったのですが、ここから見る外苑西通りは南北共に下り坂になります。南へ向かって笄川が流れており、北側には穏田川がありました。このあたりが分水嶺になるのか、それとも青山通りを平らにするため土を盛ったか?穏田川は渋谷川と名前を変えて、天現寺橋で笄川と合流すると古川と再度名前を変えます。
ルートは善光寺手前で青山通りを横断し、南青山三丁目の路地へと入ってゆきます。このルートは思案のしどころで、過去には青山五丁目の交差点まで青山通りを歩き、アイビーホール青学会館の前を通るルートを採用しました。今回は根津美術館近くの岡本太郎美術館の前を通ることとして、ウォーキングに最適なルートを選択しました。将軍お鷹狩りウォークはフリーウォークではなく班を作り実行委員が誘導して歩くマーチ形式なので、このようなマニアックなルート設定も可能となります。道を間違えないよう、実行委員の腕の見せ所となります。
六本木通りに出て、渋谷四丁目で通りを渡り常陸宮邸の裏を通り國學院大學。坂を下って左に曲がり氷川神社の境内を通り、氷川の杜公園へ。この渋谷区立の児童公園には土俵があり、江戸時代は盛んに相撲が行われていたそうです。歩道があまり広くない明治通りを避け、裏路地のみかん公園、つるかめ公園の前を通り渋谷橋交差点手前で明治通りに出ます。広尾一丁目で明治通りを横断し、恵比寿橋を渡ってビール坂商店会を抜けサッポロビール本社前へ。ガーデンプレイス、アメリカ橋を通り茶屋坂を下ってゴールの田道ふれあい広場へ到着しました。

今回は11km以内に収める目標を立てていたのですが、結果的に11.4kmのコースとなってしまいました。ゴール後行われた実行委員会でご意見をいただき、結論としては今回実踏をしたルートを採用するという意見で一致をみました。今後理事会での承認を受け、警察など関係各所と調整のうえ、正式にルートが決定します。今回は初めて歩くルートも多く、楽しいお鷹狩りとなりそうです。
お鷹狩りについてもう一つ、目黒区のページから引用しておきます。
駒場野
享保元年(1716年)の鷹狩り復活後、目黒筋の中で最も利用されたのは駒場野であった。現在、その大部分は東京大学教養学部が占めているが、当時の駒場野は人の背丈ほどもある笹が一面に生え、ところどころに松林が茂る広大な原野(約16万坪といわれる)で、キジやウズラなどの野鳥をはじめイノシシ、ウサギなどがたくさん生息していたといわれる。
八代将軍吉宗が駒場野で、初めて鷹狩りを催したのは享保3年(1718年)秋のことである。以後、吉宗の遊猟は15回を数えたという。また、駒場野では鷹狩りが中心であったが、次第にウズラ狩りやイノシシ狩りも行われるようになり、鉄砲を使う大がかりな狩りへと発展していった。

つらかった「ケラの御用」
このあおりを受け、付近の農民は、農事に使う牛馬の飼料である駒場野での秣採りを禁止された。そのうえ、鷹狩りの雑役や野鳥飼育用の大豆畑の仕事までも請け負わされ、鷹狩りが度重なるにつれて大きな負担となった。特に、鳥見が常駐していた上目黒村では、お触れが出ると、鷹の生餌であるケラを納めなければならなかった。
ケラ捕りは夜中に、ちょうちんの灯りで田畑のあぜを捜し回るのだが、なかなか捕まらない。そこで、炒り糠(いりぬか)をまき散らし、そのにおいに誘われ土中から出てくるケラを捕まえた。しかし、命ぜられた数量を確保するのは容易なことではなく、村方は再三、ケラ捕りの延期を願い出たほど、厳しく、そしてつらい御用であった。

各筋に綱差を設置
野鳥がどんなにたくさんいても、将軍は、一面の笹原や林の中を馬上で追うのであるから、そう簡単には捕まらない。狩りの度に一羽の鳥も捕れないようでは、将軍家のご威光にかかわる。しかも野鳥が減少するにつれ、御用役人の心配は一層強くなる。そこで一計を案じ、あらかじめ野鳥を捕まえて飼育しておき、いざというときの御用にと、飼付御用を務める綱差という役が各筋に設けられた。
目黒筋の初代綱差は、武州多摩郡野津田村(現在の町田市)の農民で、キジ捕りの名人といわれた川井権兵衛さん。権兵衛さんは、享保3年(1718年)に下命を受けて駒場野の近くに移り住み、将軍家遊猟の際の陰の演出者として活躍した。以後、目黒筋の綱差は、代々川井家が受け継ぎ、権兵衛を襲名した。

俗謡となった権兵衛さん
初代権兵衛さんのキジ捕りの方法は、まず、笹原を10坪ほど切り開き、キジの大好物の大豆をまいておく。そして、近くの番小屋で様子をうかがい、キジが大豆を食べる瞬間に引き綱を引いて網をかぶせる。しかし、肝心のキジよりも先にカラスがえさを失敬してしまう。こうした毎日を繰り返すので、ほとほと手を焼いた権兵衛さんは、6尺もある木刀(だんびら)を振り回してカラスを追う。
そんな情景をおもしろおかしくうたった、「権兵衛が種まきゃ、カラスがほじくる、三度に一度は追わずばなるまい、ズンベラ、ズンベラ…」という俗謡が生まれたという。しかし、同じ俗謡ぞくようが和歌山、福岡両県をはじめ各地方でもうたわれており、目黒で生まれたという説の真偽のほどは明らかではない。
かくて、徳川歴代将軍による目黒筋での鷹狩りは、綱差や農民の苦労をよそに、幕末まで続けられたのである。


この記事によると今年は吉宗駒場野来訪300周年ということになるようです。青木区長に暴れん坊将軍になってもらいましょうか。。。


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