「雨の降る日は天気が悪い」などと、バカなことを言いたくなるくらい雨が多いです。長くて暑い夏には「涼しくなってくれ」と思っていましたが、雨続きで涼しくなるとあの太陽が恨めしい夏が、まだましだったように思えます。
キンモクセイ
晴が予報された金曜日には「絶対どこかを歩こう」と思っていたので、野川の下見にやってきました。どこにいても金木犀の香りが香ってくる、すがすがしい晴れの一日でした。
半分青い、律君の家
テレビではこの角度から映しませんが、律君の家(外観のみ)です。突き当りは森尾由美さんのおうち。高校時代アイドル好きの友人が「僕のユーミンは森尾ユーミン」と言っていたのがばかばかしすぎて忘れられない。
律君の家
多磨霊園
すこやか歩こう会は墓マイラーサークルではないのですが、近くに有名人のお墓があればちょっと寄ってみたい。都立多磨霊園は青山、谷中、雑司ヶ谷とは規模が違います。
山本五十六
東郷平八郎
この二人の元帥海軍大将のお墓が隣り合わせになっていることは印象に残ります。山本元帥が東郷元帥を慕って隣に埋葬されたのかと思ったのですが、そのような記事は見つかりませんでした。山本元帥の遺骨は故郷の新潟県長岡に改葬されているそうです。お二方とも国葬になっていますが、昭和天皇が「山本元帥を国葬にしなければならないのかね」と疑問を呈したとの記事がありました。勉強不足でどのような意図なのかわからないのですが、疑問の理由となりそうな記事をWikipediaから引用します。
戦前の国葬の対象者は「皇族」「王公族」「旧薩長藩主」「首相・太政大臣・左右大臣の経験者」「元帥」のどれかに該当し、山本五十六以外は皇族・王公族であるか、爵位を有していた。桂太郎は首相として日英同盟・日露戦争・韓国併合などの業績があるが、死去当時皇族と旧薩長藩主以外で国葬になった者が三条実美・岩倉具視・伊藤博文しかなかったため国葬になっていない。また、大隈重信は在野時代が長く死去当時も政府の役職についていなかったこともあり、国葬にならず「国民葬」となった。
西園寺公望
高橋是清
内村鑑三
右からの横書きの墓碑が珍しいと思ったのですが、横書き自体が珍しいですね。内村鑑三さんのお墓には「妻 静子ともに眠る」と書いてあります。
THE AMERICAN SCHOOL IN JAPAN
この学校は目黒区から移転してきました。現在の目黒区総合庁舎は元千代田生命のビルで、千代田生命が出来る前昭和2年から32年までアメリカンスクールがありました。当時は近くにアイスクリームショップもあったそうです。
都立野川公園
野川
寄り道はここまでで野川下りの続きとなります。今日歩いて、川幅がどれくらい変わるでしょうか。
ハグロトンボ
子孫を残すために活動中です。
水車
三鷹市大沢グランドテニスコート
調布飛行場の管制塔
大沢の里水車経営農家の水車です。水車経営農家についてホームページから抜粋します。
三鷹市には、大沢の里水車経営農家に、通称新車(しんぐるま)と呼ばれる、日本でも有数の水車があります。しんぐるまは野川沿いに位置し、その機構の素晴らしさと文化財的価値の高さから、東京都から「武蔵野(野川流域)の水車経営農家」として有形民俗文化財の指定を受けており、さらに、日本機械学会からは「旧峯岸水車場」として機械遺産の認定を受けています。
しんぐるまは、江戸時代の文化5(1808)年頃に創設され、昭和43(1968)年頃に野川の改修によって水流が変わるまでの160年間、回り続けていました。野川の改修工事によって水車の稼働は停止しましたが、八代目当主の峯岸清さんが水車全体を大切に保存してこられたため、現在も、複雑な機構を持つ水車装置全体が良好な状態で保存されています。
テニスコートは調整池になっていて現在改修工事中のためテニスコートはずっと水に浸かった状態のようです。奥からバシャバシャ水が送られてきますが、あの水はどこから来るのでしょう?
キンモクセイ
野川
白鷺
天文台下交番あたりです。歩き始めと比べると野川の水量もだいぶ増えました。
深大寺通りの蕎麦屋
鬼太郎茶屋
福満橋
深大寺についてWikipediaから引用します。
「深大寺」の名称は、仏法を求めて天竺(インド)へ旅した中国僧の玄奘三蔵を守護したとされる水神「深沙大王」(じんじゃだいおう)に由来していると伝えられている。奈良時代の天平5年(733年)、満功上人が法相宗の寺院として開創したと伝える。平安時代の859年、天台宗へ改宗する。江戸時代の1646年と1865年に火災に遭い、堂宇の大半を失っている。現在の本堂は大正時代の再建である。
本尊は本堂に安置されている阿弥陀三尊像。東京都では浅草の浅草寺に次ぐ古刹である。
福満についてはお寺のページから引用します。
『縁起』によれば、深大寺を開いた満功上人(まんくうしょうにん)の父、福満(ふくまん)が、郷長右近(さとおさうこん)の娘と恋仲となりましたが、右近夫妻はこれを悲しみ、娘を湖水中の島にかくまってしまいます。時に福満は玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の故事を思い浮べ、深沙大王(じんじゃだいおう)に祈願して、霊亀の背に乗ってかの島に渡ることが出来たのです。娘の父母もこの奇瑞を知って二人の仲を許し、やがて生まれたのが満功上人であったと伝えています。
長じて満功上人は、父福満の宿願を果すために出家し、南都に法相(ほっそう)を学び、帰郷後、この地に一宇(いちう)を建て深沙大王を祀りました。時に天平五年(七三三)、これが深大寺開創の伝説であります。
いま深大寺の境域は清水にめぐまれ、その清冽な水はつきない流れとなって、かつては下流の田を潤してきました。古代、その水を求めて集まった人々の泉に対する感謝の心は、素朴な水神信仰を生み、やがて仏教の伝来とともにこの霊地に注目して寺が建立されたといわれます。これが草創期の姿なのでありましょう。
深沙大王は本来、疫病を除き、魔事を遠ざける効能のある神とされています。唐の玄奘三蔵が経典を求めて天竺に赴く途次、砂漠での難を深沙大王が救ったという説話は有名ですが、深大寺では例年十月に深沙大王堂で大般若経(だいはんにゃきょう)六百巻の転読会を厳修しますが、堂内には玄奘と向い合って鬼神の姿の深沙大王像が描かれている十六善神図が掲げられます。
かくして『縁起』には、淳仁天皇が「浮岳山深大寺」の勅額を下し、大般若転読を永式と定める鎮護国家の道場になったことを伝えています。
門前蕎麦
茅葺の山門
不動の滝
門前蕎麦はたくさんありますが、この日訪れた店はまぁ普通かな。蕎麦のうまさを語る季節ではないですから。昼過ぎにこちらに到着して一時間くらい休憩をとってそれぞれ蕎麦を食べる様にしようと思っていました。来てみて、人が多いこと、ゆっくり休めるベンチなどがないことを考えると、深大寺での蕎麦休憩は難しいかな。団体よりも個人で訪れた方がいいですね。
神代植物公園水生植物園
深大寺そばの花
水生植物園を抜けてゆけると坂を上らなくていいのですが、入り口が一つしかなく抜けることはできません。野川歩きは坂が少ないのが特徴ですが、深大寺周辺は国分寺崖線を体験してもらうしかないですね。
深大寺自然広場のススキ
調布の里山
佐須用水
この地域の特徴を調布市のページから引用します。
深大寺・佐須地域は、調布市の中北部(佐須町4丁目及び深大寺南町1・2・4丁目の一部)に位置し、国分寺崖線の緑と崖線由来の湧水を水源とする水路、その水路に沿って広がる田畑などが一体となって、里山の風景が今もなお残っている地域です。
地勢
深大寺・佐須地域は、ハケと呼ばれる国分寺崖線を挟む2つの段丘(武蔵野段丘、立川段丘)にあり、ハケ下からの湧水が水路(小川)となって、多摩川の支流である野川に合流しています。崖線に沿って続く雑木林、南北に形成された谷戸を活用した 都立農業高校神代農場や深大寺自然広場、水路周辺に広がる田畑など、良好な自然環境及び里山の景観が維持されています。
栗畑
案山子
調布の里山、なかなか見どころがあります。
あかね橋から野川
鵜
アオサギ
野川もずいぶん広くなりました。電線にとまっているのは鳩かカラスかすずめが相場ですが、鵜は珍しいです。
二子玉川まで行こうと思って歩き始めたのですが、予想以上に疲れたので京王線で帰りました。本番もこのあたりでストレッチをして、柴崎駅から帰ります。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
キンモクセイ
晴が予報された金曜日には「絶対どこかを歩こう」と思っていたので、野川の下見にやってきました。どこにいても金木犀の香りが香ってくる、すがすがしい晴れの一日でした。
半分青い、律君の家
テレビではこの角度から映しませんが、律君の家(外観のみ)です。突き当りは森尾由美さんのおうち。高校時代アイドル好きの友人が「僕のユーミンは森尾ユーミン」と言っていたのがばかばかしすぎて忘れられない。
律君の家
多磨霊園
すこやか歩こう会は墓マイラーサークルではないのですが、近くに有名人のお墓があればちょっと寄ってみたい。都立多磨霊園は青山、谷中、雑司ヶ谷とは規模が違います。
山本五十六
東郷平八郎
この二人の元帥海軍大将のお墓が隣り合わせになっていることは印象に残ります。山本元帥が東郷元帥を慕って隣に埋葬されたのかと思ったのですが、そのような記事は見つかりませんでした。山本元帥の遺骨は故郷の新潟県長岡に改葬されているそうです。お二方とも国葬になっていますが、昭和天皇が「山本元帥を国葬にしなければならないのかね」と疑問を呈したとの記事がありました。勉強不足でどのような意図なのかわからないのですが、疑問の理由となりそうな記事をWikipediaから引用します。
戦前の国葬の対象者は「皇族」「王公族」「旧薩長藩主」「首相・太政大臣・左右大臣の経験者」「元帥」のどれかに該当し、山本五十六以外は皇族・王公族であるか、爵位を有していた。桂太郎は首相として日英同盟・日露戦争・韓国併合などの業績があるが、死去当時皇族と旧薩長藩主以外で国葬になった者が三条実美・岩倉具視・伊藤博文しかなかったため国葬になっていない。また、大隈重信は在野時代が長く死去当時も政府の役職についていなかったこともあり、国葬にならず「国民葬」となった。
西園寺公望
高橋是清
内村鑑三
右からの横書きの墓碑が珍しいと思ったのですが、横書き自体が珍しいですね。内村鑑三さんのお墓には「妻 静子ともに眠る」と書いてあります。
THE AMERICAN SCHOOL IN JAPAN
この学校は目黒区から移転してきました。現在の目黒区総合庁舎は元千代田生命のビルで、千代田生命が出来る前昭和2年から32年までアメリカンスクールがありました。当時は近くにアイスクリームショップもあったそうです。
都立野川公園
野川
寄り道はここまでで野川下りの続きとなります。今日歩いて、川幅がどれくらい変わるでしょうか。
ハグロトンボ
子孫を残すために活動中です。
水車
三鷹市大沢グランドテニスコート
調布飛行場の管制塔
大沢の里水車経営農家の水車です。水車経営農家についてホームページから抜粋します。
三鷹市には、大沢の里水車経営農家に、通称新車(しんぐるま)と呼ばれる、日本でも有数の水車があります。しんぐるまは野川沿いに位置し、その機構の素晴らしさと文化財的価値の高さから、東京都から「武蔵野(野川流域)の水車経営農家」として有形民俗文化財の指定を受けており、さらに、日本機械学会からは「旧峯岸水車場」として機械遺産の認定を受けています。
しんぐるまは、江戸時代の文化5(1808)年頃に創設され、昭和43(1968)年頃に野川の改修によって水流が変わるまでの160年間、回り続けていました。野川の改修工事によって水車の稼働は停止しましたが、八代目当主の峯岸清さんが水車全体を大切に保存してこられたため、現在も、複雑な機構を持つ水車装置全体が良好な状態で保存されています。
テニスコートは調整池になっていて現在改修工事中のためテニスコートはずっと水に浸かった状態のようです。奥からバシャバシャ水が送られてきますが、あの水はどこから来るのでしょう?
キンモクセイ
野川
白鷺
天文台下交番あたりです。歩き始めと比べると野川の水量もだいぶ増えました。
深大寺通りの蕎麦屋
鬼太郎茶屋
福満橋
深大寺についてWikipediaから引用します。
「深大寺」の名称は、仏法を求めて天竺(インド)へ旅した中国僧の玄奘三蔵を守護したとされる水神「深沙大王」(じんじゃだいおう)に由来していると伝えられている。奈良時代の天平5年(733年)、満功上人が法相宗の寺院として開創したと伝える。平安時代の859年、天台宗へ改宗する。江戸時代の1646年と1865年に火災に遭い、堂宇の大半を失っている。現在の本堂は大正時代の再建である。
本尊は本堂に安置されている阿弥陀三尊像。東京都では浅草の浅草寺に次ぐ古刹である。
福満についてはお寺のページから引用します。
『縁起』によれば、深大寺を開いた満功上人(まんくうしょうにん)の父、福満(ふくまん)が、郷長右近(さとおさうこん)の娘と恋仲となりましたが、右近夫妻はこれを悲しみ、娘を湖水中の島にかくまってしまいます。時に福満は玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の故事を思い浮べ、深沙大王(じんじゃだいおう)に祈願して、霊亀の背に乗ってかの島に渡ることが出来たのです。娘の父母もこの奇瑞を知って二人の仲を許し、やがて生まれたのが満功上人であったと伝えています。
長じて満功上人は、父福満の宿願を果すために出家し、南都に法相(ほっそう)を学び、帰郷後、この地に一宇(いちう)を建て深沙大王を祀りました。時に天平五年(七三三)、これが深大寺開創の伝説であります。
いま深大寺の境域は清水にめぐまれ、その清冽な水はつきない流れとなって、かつては下流の田を潤してきました。古代、その水を求めて集まった人々の泉に対する感謝の心は、素朴な水神信仰を生み、やがて仏教の伝来とともにこの霊地に注目して寺が建立されたといわれます。これが草創期の姿なのでありましょう。
深沙大王は本来、疫病を除き、魔事を遠ざける効能のある神とされています。唐の玄奘三蔵が経典を求めて天竺に赴く途次、砂漠での難を深沙大王が救ったという説話は有名ですが、深大寺では例年十月に深沙大王堂で大般若経(だいはんにゃきょう)六百巻の転読会を厳修しますが、堂内には玄奘と向い合って鬼神の姿の深沙大王像が描かれている十六善神図が掲げられます。
かくして『縁起』には、淳仁天皇が「浮岳山深大寺」の勅額を下し、大般若転読を永式と定める鎮護国家の道場になったことを伝えています。
門前蕎麦
茅葺の山門
不動の滝
門前蕎麦はたくさんありますが、この日訪れた店はまぁ普通かな。蕎麦のうまさを語る季節ではないですから。昼過ぎにこちらに到着して一時間くらい休憩をとってそれぞれ蕎麦を食べる様にしようと思っていました。来てみて、人が多いこと、ゆっくり休めるベンチなどがないことを考えると、深大寺での蕎麦休憩は難しいかな。団体よりも個人で訪れた方がいいですね。
神代植物公園水生植物園
深大寺そばの花
水生植物園を抜けてゆけると坂を上らなくていいのですが、入り口が一つしかなく抜けることはできません。野川歩きは坂が少ないのが特徴ですが、深大寺周辺は国分寺崖線を体験してもらうしかないですね。
深大寺自然広場のススキ
調布の里山
佐須用水
この地域の特徴を調布市のページから引用します。
深大寺・佐須地域は、調布市の中北部(佐須町4丁目及び深大寺南町1・2・4丁目の一部)に位置し、国分寺崖線の緑と崖線由来の湧水を水源とする水路、その水路に沿って広がる田畑などが一体となって、里山の風景が今もなお残っている地域です。
地勢
深大寺・佐須地域は、ハケと呼ばれる国分寺崖線を挟む2つの段丘(武蔵野段丘、立川段丘)にあり、ハケ下からの湧水が水路(小川)となって、多摩川の支流である野川に合流しています。崖線に沿って続く雑木林、南北に形成された谷戸を活用した 都立農業高校神代農場や深大寺自然広場、水路周辺に広がる田畑など、良好な自然環境及び里山の景観が維持されています。
栗畑
案山子
調布の里山、なかなか見どころがあります。
あかね橋から野川
鵜
アオサギ
野川もずいぶん広くなりました。電線にとまっているのは鳩かカラスかすずめが相場ですが、鵜は珍しいです。
二子玉川まで行こうと思って歩き始めたのですが、予想以上に疲れたので京王線で帰りました。本番もこのあたりでストレッチをして、柴崎駅から帰ります。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール