私に鼻の手術を執拗に迫ったのは、高校同級生の浜谷徹雄というものであるが、私が日本タイプライターにいる時彼から急に電話があって、会いたいというので私はノコノノコ出かけて行ったのである。彼は他の能登の者たち一緒に益谷秀次の自宅に連れて行ったのである。当時は多分衆議院議長をしていた時と思うが、矢来町の家に行って見ると、秀次は一人で酒を飲んでいた。他の二三人の者は私は全然知らない者たちであった。彼等は浜谷徹夫の子分みたいな存在であたのであろう。家人は誰も居なくて、家の中をこの連中が飛び回っていた。私はなにも紹介される訳でなしに、ただこの同級生についていっただけである。 私は子供のころ父に会いに金沢に行くとき、ハシが秀次に汽車の中で挨拶をしていた。彼は父との選挙でいつも敗退していたことを知っていた。選挙で金を使い、随分苦しいおもいをしていたときである。父の死後怪文書が出回り、その後竹端仁作が私に財産を放棄しろといっていって、私がそれに応じないので、国立金沢病院でこの浜谷徹雄のおかげで、鼻の手術をさせられる羽目になった。益谷と浜谷の関係はどうであったかは知らないが、金沢国立病院で手術をさせたことはなんらかの因果関係があったかであろう。私はその手術の際この写真の示す上顎洞(鼻の手術の際上顎の前壁をできるだけ広く取り除き、上顎洞粘膜をすべて取り除く)裂孔を砕かれ、脳天を強打されたのである。そのため記憶を失い、人生を破滅されるほど強烈な損傷を受けていたのであ

父が亡くなった昭和26年2月11日以降その年の春頃であったが、父に関する怪文書が出回ったのである。 その内容は 1)父が若い頃東京で松平家にか家扶として仕えていた時のことである。 松平家とは会津若松藩の殿様である。 ここには後に秩父宮妃となられる信子妃がいられた。父はこの信子妃に懸想したと書かれていた。 信子妃は日本タイプライターの専務の娘に何か似た雰囲気があったようである。父と柳田専務は従兄弟同士のあいだがらであった。これは私の判断であるが、血縁的に近いものを感じたのかもしれない。 また父がこの松平家に養子にったと言うことがあったので、そういゆう感情を抱いたのか、全くデマの類なのか判明しないが、いずれにしても、他人の父に対する悪意を喚起させる意図から発していることは明白である。2)大正の終り頃、父は一回衆議院選に出なかったことがあった。そのとき佐藤實氏を代われに民政党に推薦したのである。 佐藤氏は能登産業銀行を経営していたが、昭和初年の経済不況で倒産に追い込まれた。(日銀金沢支店による能登産業銀行に対する補償法による特別融資金がなっされ、担保物件が提出されたが、その後昭和6年解散する事になり、父は地元のために担保物権を買い取った。地元の宗玄酒造の原水である白山や喜兵衛ドンとなった建物及び能登鉱山の山林等50万坪等である。それらは父の名義にすることなく、地元の産業の発展のため父が取得したもである。ただ喜兵衛ドンとなった建物だけは私の名義にするように当時の名義人米村為八郎氏と父の約束であった。その建物の元の持ち主が遊蕩の挙句破産したので、自分の子孫に教訓として残したかったのである。)その後父は昭和初年に再び立候補するが、佐藤實氏と 選挙地盤を二分して、各地盤から立候補したのである。 この父が佐藤氏を利用して自分の選挙地盤を守ったが、佐藤氏はその為金を失い破産したと言うようなことが書かれていた。 そのときは二人とも選挙に当選したのであるからその非難は 当たらないと思う。むしろ佐藤氏は政友会から勧誘で、民政党から政友会に 鞍替えしたのである。 その原因は佐藤氏の経営する銀行の救済を政友会が餌に 鞍替えさせたのである。 いずれにしてもこのときのシコリが残っていたのか、こんな記事が書かれたあった。 父と絶えず対立候補であった政友会の益谷秀次氏側から このデマが流れたのではなかろうか? 益谷氏は弁谷家とは縁戚関係があり、父の死後は皆益谷派に流れ込んだ為である。 私の鼻の手術を執拗に迫った浜谷徹雄も益谷派の派閥に入り込んでいた。竹端作や弁谷栄も同じである。 益谷と堤はここで手を組んだのであろう。
3)父の妹であるが実は戸籍上は従兄妹となっていた当時 は野本姓であったが、父はこの妹を織田信長と同じ様に自分の妹の 嫁入り先を政争の具に利用したと言うのである。当時能登は政友会一色であった。 その中で民政党から出ることは並大抵の事ではなかったろう。そこで父は自分の選挙地盤のため妹を犠牲に利用したと夕内容であった。自分の妹を四回も相手を変えて結婚させたというのである。 真偽の程は不明であるが、当時は普選で一般の人にも選挙権が与えられ,政友会一色の能登では、買収や違反が盛んで大変であったらしい。当時竹端仁作も佐藤実氏の銀行に投資しており、父に助けられた訳であるが、父の死後は父を裏切った。 ハシに私を的に虐待することを命じた竹端仁作は益谷と堤と共同で、謀略を働いたのである。父の妹の話もその作戦である。妹の子供で日本観光を倒産させた桜井清次は益谷と同じ宇出津の出であり、話が通じたのである。この写真は吉田首相を中心に、益谷と堤がお互いに取り入っていたことを示している。益谷の秘書をしていた辻女史がいまだに中央の政界、財界、官界に幅をきかせているのも、すべてこの写真がその出発点を示している。桜井清次はよく竹端家に隠れて行っていたのだ。この写真の二人と桜井清次の繋がりが明らかである。従って辻女史や浜谷徹夫との繋がりがあったのである。
この様な背景で、仕返しが私の一身に掛かり、を破壊計画が実行されたのである。
旧三和銀行、富士銀行の父の財団の復旧の責任
竹端仁作は父の資産を管理する立場にあった。何故かと言うと、竹端家は当地の最有力資産家であり、昭和初年の経済危機の際、当地の資産家は多大の損害を蒙り、彼等の投資していた事業が破綻して、投資先の自治体が破産したのである。この事態を救助すべく久父が肩代わりをしてたのである。そのため名義は父の名前にならなかったが、当地方の有力者に信託したのである。昭和11年に更正自治体に指定された自治体の更正出来るまで父が肩代わりをしたのである。その資金として方債、債権、公社債、国債等を使い、登録し、名義は従来と通りとし、安田信託等に信託した。この中に西武鉄道や箱根土地等の社債もふくまれていたのである。ここが父の財力の強さを秘めていた。経済の当時の破綻は並大抵のものではなく、父の財力が当地方を破綻から救ったのである。戦後これらの資産は父の康楽寺のに寄付され、康楽寺の本殿完成まで,公益事業を併せ行う為、父の資産の一部の育英事業の管理人として、私の戸籍上の両親が指定されていた。その資産だけでも億単位の公社債、債権、株式からなる金銭信託である。西武関係の社債や日本発送電の社債の管理人として竹端仁作が当地の代表として指定されていた。勿論私が父の事業後継者に指定されていた事は言う迄もな。父の公益事業とは此れまでも度々述べてきた本殿康楽寺の建設であり、それに付属したアジア、中国との文化的交流である。其れと同時の社会事業として、育英資金の運営については弁谷栄やその妻ハシが管理人となっていたのである。戦後父の資産は三和銀行にシフトした部分がある。それは日本タイプライターの戦後処理に伴う父の資産が三和銀行の信託に移行した。ここに三和銀行を主体とする日本観光の倒産の原因があるのである。平成11年に日本観光は破産したが、その裏にはこれ迄述べてきた仕掛けが連綿とした続いてきたのである。従って各信託会社は信託管理義務違反について、父の財団を復旧すべき連帯責任、義務を有しているのである。信託違反としてその責任が追求される必要が存在するのである。
私の父は日本タイプの取締役の一人一人に私の事を依頼したのである・
自分の死後私を日本タイプの社長にする事を日本タイプの重役の一人一人にそれぞれ名義株を渡し頼むと言っていた。
父が亡くなる前年の秋、父は白雲楼に来ていた。
父はこの頃から床に着く事がおおかったようである。
私はその頃上戸中学校3年生で、砲丸投げの選手として秋の県大会に金沢に来ていたのである。
戸籍上の両親も金沢にきており、白雲楼に居のである。
県大会が終わって金沢から能登に帰る時、学校の先生が私に白雲楼に行かないか誘ったのである。
私は父桜井兵五郎が白雲楼にきていることを知らなかったので、行く事を躊躇ったのである。
先生が白雲楼に来る事を招待されていたのか知れないが、私は戸籍上の両親のいる白雲楼に行く気になれずそのまま帰ったのであった。
その後金沢から帰った弁谷ハシより、何故白雲楼に来なかったとキツク追求された。
私は何故こうもキツク咎められたのかりかいが出来なかった。
ところがその夜戸籍上の両親が夜皆が寝静まった夜話をしていたのを私がフト目を覚ました時、二人の話を聞いたのである。
弁谷ハシ曰く、伯父さんは何故あんなに怒ったのであろうか?と弁谷栄に話し掛けていたが返事がなく無言のままであった。
伯父さんとは私の父桜井兵五郎のことでる。
私が白雲楼に行かなかったので、私の父より大変怒られたのである。
もし先生の誘いで白雲楼に行ければ、父に最後にあえたのである。
それならば戸籍上の両親が白雲楼に来るようにと私に話しておくべきであった。伯父さんが来ているからと何故私に言わなかったのか。
ここで竹端仁作の話に戻る。
竹端新作は私に財産の放棄をシツコク求めたが、私は何のことか判らず、返事をしなかったのである。
竹端仁作は私が父桜井兵五郎より、父の財産の件で話を聞いて知っていると思ったのである。
私の父の死後私は未成年であったから、竹端仁作が私の後見人になることになったいた。
私の戸籍上の両親は、私が父の財産の承継人である私の後見人になることは出来ない。
何故なら弁谷栄は戸籍を訂正して、私を桜井兵五郎の子としての届出を拒否していたからである。
そこで竹端仁作は財産を放棄しろとシツコク迫る事となったのである。
私が財産の放棄を承諾しないもおのだあるから、私の変わりに
弁谷昌造が裁判所で財産を放棄すると陳述したのである。
裁判所で私が一方的に放棄するといっても認められないので、竹端仁作が管理人となることを裁判所が認めたのであろう。ここから私の悲劇が始まるのである。
それは此れまで述べてきた。
金沢国立病院における頭蓋骨破壊
この竹端家の前にあった外車は、言うまでもなく堤康次郎の車である。
父か桜井兵五郎の財産を私するために、堤康次郎が竹端家に訪れていたのである。
ここで三者つまり堤を中心にして竹端、弁谷家の合意がなされたのである。
堤義明が株式名義偽装事件で、一時雲隠れしたが彼は慶応病院に入院の形で身をしていたのである。
丁度その頃私は慶応病院の神経内科に通っており、上記の三者合意の上、私を鼻の手術を介しての脳を破壊したのであるが、私のMRIは隠されたことを以前の話した。
その後ろ盾が堤である。
慶応病院は堤の意向を受けて私のMRIを隠したのである。
その発端が昭和26年の春のこの三者の合意から発している。
堤義明が慶応に身を隠していた頃、私は慶応病院で神経内科に診察を受けていたのである。
丁度この頃弁谷貞造も慶応病院に入院しており、神経内科の辺りを入院服でいるのを見つけたが、彼は私の目を見ようとししなかったのである。
慶応病院は何故堤の言ううなりになるかは、金のなる木だからであろう。
私の父の資産を横領した金のなる木である。