昭和26年5月1日付けで電力業界の再編体制が成立した。戦前の五大電力の一翼を担っていた日本電力の子会社である高岡電灯の監査役をしていた竹端仁作が、私に財産を放棄しろと迫ったのは、この電力再編成にかんする父の資産にかんすることことであった。この資産は康楽寺の本殿建築の資源として寄付されていたが、電力再編のみならず、私鉄関係の再編にも関連していた。従って堤康次郎も電力再編には多大な利害があったわけである。電力再編は国家の大事業であり、戦後の復興が掛かっていた。ここで松永左衛門と吉田茂との暗闘が始まるのである。要は人事件の争いであり、日本財界のヘゲモニの争いである。この闘争のため、昭和25年5月に成立する法案がが流れたのである。この1年延びたことで康楽寺の着工が一年伸びることとなった。父が翌年2月に亡くなるとそれを待っていたとばかりに竹端仁作一派が暗躍しだすのである。 それと麻布の5千坪の土地を私する好機とばかり、父の個人の寺を宗教法人とする好機とし、父個人の資産を宗教法人に取り込みを狙ったわけである。
この写真の中にもう一人父の知人が居る。 つまり吉田茂である。彼を囲むように二人がいるのがなんとなく暗示的である。 父は戦後は財界においては群を抜いて一位に位していた。 日本の戦後経済の源は父より始っしたほどである。 財界の主だった人は必ず父をたずねたのである。 それは敗戦に終止符を打つ内閣に居たことと、戦時経済の支柱を支えていたからなのである。 郷誠之助亡き後は父が財界の隠れたドンであったのである。 吉田政権えの援助は言うまでもなく、対外的にも外交ルートを維持してたのである。 特に当時の蒋介石政権は日本に対して大変強行な姿勢であったが、自分の麻布邸や起雲閣を提供して旧交を温めたのである。 また日本タイプビルや白雲楼も米軍の慰安設備に提供、米第八軍司がマッカーサー元帥に先立ち日本に上陸したのだが、米第八軍は金沢の白雲楼に駐留したのである。 白雲楼は米第八軍の保養所となった。 50メータープール始め、乗馬やゴルフ場を造り、大食堂では 宮本三郎の描く日本の四季を描かせ、アメリカ人軍人から大好評をはくしたのである。 父の主治医は武見太郎であり、吉田茂とは牧野伸顕を通じて親戚の間柄でたあったから、政治的バックアップは出来たであろう。 父は昭和26年2月11日亡くなるが、もう二三年生きていたら私は鼻の手術を受けるこはなかったろう。 私は本来父の妻鈴子のもとで暮らすことになっていたが、鈴子が昭和18年に亡くなり、私は昭和26年には金沢の桜井清次宅から高校にいくことになっていたのである。 私の戸籍も当然裁判により父の子として判決が確定していたのである。 これが一瞬の内に毒薬により私の人生がかわったのである。 父の死後武見太郎より目の玉が飛び出るような治療費の請求が来たとのことである。 医者としての腕よりも、政治向きの資質があったようである。 この写真は父の死後のもであろう。 父の麻布邸をドイツ大使館として斡旋したとされるのが 堤康次郎であり、保証人が益谷でな無かったかと思われる。 其れまでは堤と吉田茂は仲が悪かったのである。 其れを好転させたのが父の本邸のドイツ大使館えの売却である。 この土地は父個人の寺の土地であり、その相続人にしか売却は出来ない。 個人の寺を宗教法人にしたのが、竹端仁作一派であり 益谷なのである。中央政界や石川県会に力のある益谷ならでは出来なかったであろう。 父は当時政界より引退しており、この二人が躍り出ることが可能になったのである。 ここに私の不幸が二重となる因子が発生したのである。
昭和初年から実施された普選からは、選挙は厳しさを増し
政友会と民政党との戦いは今では考えられない様相を呈した。
選挙権は一般成年男子に平等に与えられたが、その票を巡る争奪戦は眼に余るものがあった。ここに相手陣営の中傷が流布されるようになった。
父が亡くなったときの怪文書はその一端を表している。
父の地盤は政友会一色であり、父の友人の布施丑造氏も政友会に属していた。
父は大隈公との関係から民政党として出馬することなり、益谷秀次との政治的ライバル関係が続くことになった。
東条英機内閣時代は政党は解体して一本化したが、
父は民政党最期の幹事長として、政友連合に反対していたが、時の本流には抗しきれず、民政党を解体する羽目になった。政友会の領袖前田米蔵一派と対立し、反東条派として対立していた。
この両派な対立の仲立ちをしたのが、国策研究会の主宰者である。
一方益谷秀次は政界ろ黒幕辻嘉六の秘書をしており、戦後は自由党を創立資金を提供したことになっている。
父は日本進歩党を前田米蔵氏と立ち上げたが、追放となり政治には直接関与出来なくなった。
戦前の政友会系と民政党系が後に合同して、自由民主党となったが、益谷秀次は吉田、岸、池田、佐藤内閣の要職を占め戦後の政界の黒幕的存在であった。一方吉田茂に取り入った堤康次郎は戦後政界における存在は、益谷秀次に比して影が薄い。金が掛かる政界に余り深入りする必要が無くなたのである。
一方益谷には金弦があった。
日本観光を倒産させた桜井清次は益谷と同じ宇出津の出で、かって清次は私に向かって、一度政治に足を突っ込んだらお終いだと漏らしたことがあった。
つまり金をセビラレテ居たからであろう。
政友会と民政党との戦いは今では考えられない様相を呈した。
選挙権は一般成年男子に平等に与えられたが、その票を巡る争奪戦は眼に余るものがあった。ここに相手陣営の中傷が流布されるようになった。
父が亡くなったときの怪文書はその一端を表している。
父の地盤は政友会一色であり、父の友人の布施丑造氏も政友会に属していた。
父は大隈公との関係から民政党として出馬することなり、益谷秀次との政治的ライバル関係が続くことになった。
東条英機内閣時代は政党は解体して一本化したが、
父は民政党最期の幹事長として、政友連合に反対していたが、時の本流には抗しきれず、民政党を解体する羽目になった。政友会の領袖前田米蔵一派と対立し、反東条派として対立していた。
この両派な対立の仲立ちをしたのが、国策研究会の主宰者である。
一方益谷秀次は政界ろ黒幕辻嘉六の秘書をしており、戦後は自由党を創立資金を提供したことになっている。
父は日本進歩党を前田米蔵氏と立ち上げたが、追放となり政治には直接関与出来なくなった。
戦前の政友会系と民政党系が後に合同して、自由民主党となったが、益谷秀次は吉田、岸、池田、佐藤内閣の要職を占め戦後の政界の黒幕的存在であった。一方吉田茂に取り入った堤康次郎は戦後政界における存在は、益谷秀次に比して影が薄い。金が掛かる政界に余り深入りする必要が無くなたのである。
一方益谷には金弦があった。
日本観光を倒産させた桜井清次は益谷と同じ宇出津の出で、かって清次は私に向かって、一度政治に足を突っ込んだらお終いだと漏らしたことがあった。
つまり金をセビラレテ居たからであろう。
竹端仁作と父桜井兵五郎の関係は、父の友人布施丑造氏の子息が竹端仁作の兄弟の家に養子にきていた関係である。布施家は能登の名家で資産家であったが、昭和初年の恐慌の関係で、能登産業銀行が破綻したことは以前話したが、布施氏は鳳至銀行の頭取でもあり、また高岡電灯の監査役でもあった。能登産業銀行が不調で、布施氏はその職より退任した。そのかわりに竹端仁作が高岡電灯の監査役となったのである。当時日本最大の日本電力の子会社であり、日本電力は
電力業界再編製の中心となり、日本発送電の要となって日本国内の電力を纏め、戦後の電力会社は、すべてここからの出資と現物によりわかれたのである。
父は戦後電力と
観光に力を注ぎ、尽力した。
父の資力の中心は電力と観光であった。布施丑造氏は父より少し前に亡くなったが
竹端仁作の弟の家に、丑造氏の息子が養子に入ったのも父との関係からであった。
丑造氏と父が亡くなり状況が一変したのである。父の事業は日本電力の持ち株会社
日電興業と関係深く、日本発送電の再編に深く関わりがあったのである。
日本発送電の戦後の再編は、父の死後であったので、父の資力を狙ったのが私の鼻の手術の原因となったのである。
私の記憶を思考力を喪失させる為、残虐なことを平気で行った。
鼻の師骨を砕いた時、三叉神経を傷つけ、
頭蓋骨を二箇所強打し、眼から鼻より頭にかけての人間の社交力や思考力、の神経を破壊したのである。
電力業界再編製の中心となり、日本発送電の要となって日本国内の電力を纏め、戦後の電力会社は、すべてここからの出資と現物によりわかれたのである。
父は戦後電力と
観光に力を注ぎ、尽力した。
父の資力の中心は電力と観光であった。布施丑造氏は父より少し前に亡くなったが
竹端仁作の弟の家に、丑造氏の息子が養子に入ったのも父との関係からであった。
丑造氏と父が亡くなり状況が一変したのである。父の事業は日本電力の持ち株会社
日電興業と関係深く、日本発送電の再編に深く関わりがあったのである。
日本発送電の戦後の再編は、父の死後であったので、父の資力を狙ったのが私の鼻の手術の原因となったのである。
私の記憶を思考力を喪失させる為、残虐なことを平気で行った。
鼻の師骨を砕いた時、三叉神経を傷つけ、
頭蓋骨を二箇所強打し、眼から鼻より頭にかけての人間の社交力や思考力、の神経を破壊したのである。
前回では国立金沢病院で白昼堂々私は鼻の手術から脳天を強打されたことを話した。
また鼻の手術を執拗に私が高級生より誘われ、まさか国立病院で上記のことが行われることは想像だにしなかったのである。
この手術の経過については以前のブログで記述した。
上記の様に国立病院でしかも種村院長の指示のもと、私の手術が行われたと言うことは、公的な政治的力が背景にあったことを意味する。
いくら院長とはいえ免許のない医師を使って、私の手術を行うとは尋常ではない。
しかもこの院長の葬儀は厚生省葬である。
また私の母の当時皇后様のお付で宮城にいたことからして、政治的背景があきらかである。
この政治的背景は益谷秀次、堤康次郎を考えることはそれまでの経緯から当然結論つけられる。
勿論日本観光を倒産させた桜井清次、桜井能唯や弁谷家一族が関係していたことは云うまでもないのである。
この写真は人間の基本的行動の根源である、大脳基底核,線条体等のあるところである。この部分は血管障害によるダメージを受けやすい場所であり、私の頭蓋骨を強打したのはこのダメージを起こすためである。
人間としての基本的な感情やそれと結びついた記憶、思考力を喪失したのである。
また鼻の手術を執拗に私が高級生より誘われ、まさか国立病院で上記のことが行われることは想像だにしなかったのである。
この手術の経過については以前のブログで記述した。
上記の様に国立病院でしかも種村院長の指示のもと、私の手術が行われたと言うことは、公的な政治的力が背景にあったことを意味する。
いくら院長とはいえ免許のない医師を使って、私の手術を行うとは尋常ではない。
しかもこの院長の葬儀は厚生省葬である。
また私の母の当時皇后様のお付で宮城にいたことからして、政治的背景があきらかである。
この政治的背景は益谷秀次、堤康次郎を考えることはそれまでの経緯から当然結論つけられる。
勿論日本観光を倒産させた桜井清次、桜井能唯や弁谷家一族が関係していたことは云うまでもないのである。
この写真は人間の基本的行動の根源である、大脳基底核,線条体等のあるところである。この部分は血管障害によるダメージを受けやすい場所であり、私の頭蓋骨を強打したのはこのダメージを起こすためである。
人間としての基本的な感情やそれと結びついた記憶、思考力を喪失したのである。