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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

竹端仁作 上戸の長者(3)

2007年02月03日 15時02分09秒 | 堤康次郎
私は小さい頃より竹端家を訪れるのが習慣になっていた。
しかし預けられた家で虐待を打け、瓦で
頭を叩かれてより、痴呆状態に陥り今までの記憶を喪失してより、竹端家のことも記憶より喪失していた。
その後竹端家を訪れる頃になったのは
中学に入った頃であろう。
その頃弁やの分家より養子の話があった。私を養子に貰いたいと
分家の婆さんが度々弁や家を訪れた。
しかし弁や栄は拒否をしていた。
何故拒否したのかは言うまでもなく、私の父桜井兵五郎が私に残した財産があったからである。
その頃何故か、私の育ての母親ハシが
竹端家の爺さんの悪口を私に頻りに話してである。
竹端家けは子供がいたが、毒を飲んで自殺したと言うのである。
私はそんな事があったのかと初めて知った。
竹端の爺さんは私には養子の話しなぞしたことは無かった。
唯私が訪問するとこの欲深い爺さんは相好を崩して喜びを露にした。
弁や家に於ける私の待遇とは雲泥の差があることを感じていた。
しかし私の父が死んでより、事情が変ってきたのである。
桜井能唯の悪行
桜井能唯の悪行続き
桜井能唯は自分は佐渡の本間家が本家であるとした本を昭和41年に出版し、
私の父桜兵五郎は分家であるとして、
いわば自分が桜井兵五郎の正統な相続人であると、世間に発表したのである。実は日本観光を乗っ取るための方便であるが、如何にも歴史が証明したように権威図ける為、金沢大学の教授を使って本を出版したのである。

その証として能登喜兵衛ドンを父が私に残した仲谷家の建物を桜井能唯の生家の横に牽引して、新築として登記をし
能登塩釜の道具を並べ、珠洲市より記念物ろして指定を受け、日本観光と倒産させたのである。
白雲楼の株主

竹端仁作 上戸の長者(2)

2007年02月02日 15時01分02秒 | 堤康次郎
竹端仁作の家には私は幼頃より、度々使いに出され、仁作とは良く話をした。
私は未だ極く幼い頃から何故度々竹端家に行かされたのかは私には判らなかったが、この家では私は大変歓待されたのだ。
この家では前に書いた桜井能唯が父から無断で自分の会社名義にした喜兵衛ドンと名つけた元の所有者でかっては
地方一の金持ちの家の主の奥さんが、竹端家下働きをしていた。
竹端仁作が且つっては当地一番の資産家が没落したので、この中谷家の山等資産を買い取っていたのであろう。
桜井能唯の悪行
戸鉱山と堤康次郎

竹端仁作 上戸村の長者

2007年02月01日 14時59分40秒 | 堤康次郎
私は幼い頃より上戸村の竹端家に月に二三回は訪問したものである。
竹端家は辨谷の親戚で子供がいなかったので、暇を持て余していた爺さんの話相手になっていた。この爺さんは私の出生のことを良く知っていたようで、お前の父親の力で辨谷栄は飯田郵便局長になれたのだと私に話したものである。私はこの話は初めて聞いて驚いたものである。
竹端家は地元一番の金持ちで資産家であったらしい。
生活費には現金を一切使わず、小作人等が持ってくる野菜や地元の海産物で、食材が足りていた。金持ちなのに、金を使わないで生活が出来ることを自慢にしていた。
竹薮に囲まれた広い屋敷には老夫婦二人だけであった。
玄関の横にある囲炉裏の部屋で、お湯をチンチン沸かしながらお茶を入れてもらってお茶を飲みながら爺さんの話を聞いた。
来客があった時は、隣の部屋で暫く待ってから爺さんと必ず話しをしてから帰った。
爺さんの話によると
竹端家は近江の出で、この上戸村まで歩いて辿り着き住み着いたと言ううことであった。
私は半信半疑であったが、堤康次郎との関係もこうゆうところから出来たのかもしれない。
私の父が昭和26年2月11日に亡くなって後であるが、辨谷栄、ハシから自分達が先に行っているから後で来るようにいわれた。
竹端家には子供の頃は良く行ったが、
中学3年頃よりは何故か行かなくなっていた。
私が行った時は話しが終わったころで、ハシが帰るところであった。栄は一つ奥の部屋の前で立ち話をしていた様であった。
私が竹端家に着くと直ぐハシが帰る様子であったが、玄関のタタキの前の部屋の敷居まで仁作が来て私に向っていうのである。
お前は弁や家の相続を放棄しろ、簡単な事だ、裁判所で私はなにも要らないと一言云うだけでよいのだ。簡単な事だ。
と竹端仁作は私に
力を入れて話すのである。
弁や家の相続のことで何で竹端の爺さんが私に熱心に説くのか理解に苦しんだ。
傍に弁や栄やハシが居るのに関わず
私を竹端家に呼んで何故爺さんを自ら私に話す必要があるのか。
私が藪から棒のようにいきなり言われて
驚いていると、次はハシに向って、どうせ減る者ではないのだからとハシに云うとハシは何故か真っ赤な顔になった。
此れは何を意味するのであろうか?
弁や栄が未だ生きているのになにを放棄するという云うのか、何故竹端仁作が私に言わなければならないのか、何故ハシはどうせ減るモノではないのだからと言われ真っ赤になったのか不思議であった
性的虐待





磯野長蔵氏と父(2)

2006年12月03日 14時17分05秒 | 私の父

磯野長蔵氏と父(2)この写真は昭和14年6月3日の北陸毎日新聞の夕刊に乗った写真である。東京の十七日会のメンバーを金沢駅に父が迎えたときの写真である。十七日会のメンバーとは、大隈信常候、牧野良三氏、増田義一氏、松村昇氏、磯野長蔵氏、浜野茂氏三島良蔵氏の面々で、白雲楼に一泊の予定で來沢された時の写真である。 北陸毎日新聞は父の経営になる新聞で、昭和15年に北国新聞と対等合併したが、当時は未だ父が社主であった。この時期は丁度父が麻布広尾の土地を購入したばかりで、明治屋も父の隣地を購入明治屋の支店であったと思われる。 ただ子息の磯野計蔵氏がここに住まわれていたようである。磯野長蔵氏の自宅も割合近くにあった。  私が昭和33年日本タイプに居た頃、日本観光の副社長である加藤正男氏が5階の日本観光の事務所から2階の私の居る事務室に降りてこられ、私と良く話しをたものである。 加藤正男氏は大毎東日の外国通信部に以前は在籍されていた。ロンドン大学を卒業し、英国議会制度や国際事情に詳しく、大毎王国のお家騒動で会長や専務他多数の幹部が会社をかく首された事件があり昭和9年に日本タイプの社長秘書件調査部長として来られたのである。 一緒にこられた大毎の社会部長であった深江彦一氏は北陸毎日新聞の社長となられた。父が日本タイプ社内で、東亜政治経済調査会を立ち上げ、加藤氏を部長として迎えたのである。 終戦内閣に於いて国務大臣となった父の政務秘書官となったが、戦後は日本観光の副社長となられた。  加藤正男氏が私に話したことの中に、戦前や戦時中の食料の不足していたなかで、加藤氏が英国大使館やフランス大使館等に肉等を持参して大変喜ばれた話をされた。父や磯野良蔵氏の住まいであった広尾の周りは、大使館が軒並み並んでいた。 これで明治屋が父の隣に土地を買った理由が判る。外国大使館の職員に食料を供給する役割を、外国生活が長かった加藤正男氏を介して明治屋が行ったものである。

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磯野長蔵氏と父

2006年12月02日 12時33分02秒 | 私の父
磯野長蔵氏と父
昭和14年5月17日父は平沼亮三氏の友人中村房次郎氏等の斡旋により、港区麻布広尾町35番地の
5千坪の土地を取得、ここに本邸とした。
 それと期を同じくして、明治屋株式会社が父の土地の隣に広い土地を取得している。
明治屋の発祥地は横浜であり、磯野計氏により食料の輸入販売業として誕生した。
 横浜山手にビール醸造に適した水の出る場所があり、ここが麒麟麦酒発祥の地となったのであるが、
当初はジャパン・ブリュワリ株式会社で明治屋と一手販売契約をし、ビール、清涼飲料水も販売するようになり、麒麟麦酒の発展の基礎を築いた。
 横浜は日本開国の地であり、世界各国えの貿易の発祥の地となるとともに、大隈候改進党の発祥の
地ともなったのである。
 明治屋は父の同郷であった谷七太郎氏の生産していた北海道産葡萄酒の一手販売も行っていた。

明治屋の本社は日本タイプライターの近くの京橋にあり、目と鼻の先の近さであった。
当時北陽産業(白雲楼)本社はは、現在のブリジストンの隣であった。
当時の世界は戦雲の雲行きが近ずいており、何事も国家統制の時代になりつつあった。
 勿論食品業界も同様であり、日本の食糧事情は逼迫の状態に向っていたのである。