方 言 考
昨日付の朝日新聞デジタル(朝ニュースレター)に、連載記事『100年をたどる旅~未来のための近現代史~沖縄編⑤』として、伊藤和行記者による『沖縄の「方言排除」政策を批判したら…柳宗悦が受けた県民からの反発』と題する記事が載っていた。
この記事は昨日の朝日新聞1~2面にも掲載されている。
1938年から41年にかけて沖縄を訪れた民芸運動家柳宗悦氏の沖縄方言についての発言が、沖縄県の人々から猛反発を受けたことを内容とされている。
柳氏は初めて訪れた沖縄で見聞きした琉球文化・芸術にすっかり魅せられ、その後その紹介と保存に尽力するが、沖縄滞在中の対談で、沖縄で当時推し進められていた県民への標準語励行運動に対し、「標準語を使う事に反対ではないが、琉球の言葉をおろそかにしてはいけない」と訴えた。
これが地元紙で報じられると、運動を推進していた県の役人や住民の女性から、「外から来たものが珍しいものを残せと、あたかも観賞用植物か愛玩動物のように思っている」、「あなた方は変な優越感をもって批評するが、わたしたちは自分たちの惨めさをよく知っている一生懸命なのだ」と反発が沸き起こった。
これに対して柳氏は、標準語を学ぶことは「日本国民としての悦(よろこ)はしい任務」と断った上で、「だが、之が地方語への侮蔑となり、抑圧となるなら大きな誤り」だと主張し、学校などに貼られた「一家揃(そろ)つて標準語」などという言葉は「明らかに行き過ぎではないか」と反論した。
記事筆者の伊藤和行さんは、「軍国主義が強まる日本で、同化政策を強いる当局を批判した柳の主張は、沖縄の文化を愛するがゆえの善意によるものだった。現代の価値観でみれば、柳が訴えた「沖縄語の尊重」はまさに正論と言える。」と述べる一方、方言を克服しようとする沖縄県民の事情も解説している。
本土に出稼ぎに行ったり、兵役に取られたりした沖縄出身者が、沖縄言葉を話し、標準語を使えないがゆえに激しい差別を受けた現実があり、標準語を学んで話すことは沖縄の人たちにとっても必死の思いがあった。
この論争について、社会学者の小熊英二慶応大学教授の論評が紹介されている。
小熊さんは言う。「柳は沖縄の言語や文化を擁護するつもりであり、県側の反論に対しても中央の文化人の中では最も真面目に考えた人だった。しかし関心の中心は沖縄の民芸品などの『もの』、あるいは文化や言語で、沖縄に住む『ひと』の生活はその次だった」と。
なかなか鋭い批判であり、柳氏自身も後に自分たちにも思い至らなかったところがあると反省しているようだが、わたしはこの柳vs沖縄県民の論争の対象が「方言=言語」だったところに論点の一つがあるように思う。
外から来た学者・研究者・運動家がある地方の文化・芸術に感激して、その保持発展を要請するとしても、それを担うのは外来者ではなく、地方の在住者である。
民芸品、美術品、芸術作品のようなものなら、それを担う人を鼓舞し、援助することは可能である。
しかし、方言はそれとは異なる。その地方に住む人たちの生活の上の手段である。方言によって醸成される文化はその結果に過ぎない。
わたし自身も東京に出てから、標準語を話そうと努めてきた。その方が、生活するうえで心理的に便利だったからである。高校の同窓会などでも会話は標準語である。
子どもの時使っていた方言、「わにる」(恥ずかしがる)、「もうらしい」(可哀そう)、「ずくなし」(怠け者)、「あばね」(さよなら)などという方言は、特に若い世代で使われなくなっているようだ。
地方文化が中央文化に同一化されていくことは不可避であろう。
ちょっと寂しい気持ちにはなるが、方言文化を大切にするということは、方言を記録として大切に残すということであって、それを話し続けるということではないであろう。
滝くぐり
夏になると、イグアスの滝で楽しんだ滝くぐりを思い出す。サービス精神旺盛な船頭さんが何回も滝の下にゴムボートをくぐらせて、びしょぬれにさせられた。(2001年12月)
久しぶりの信州弁嬉しかったです。
そしてイグワスの滝のびしょ濡れ、たまらなく懐かしいと思います。私のところも同じことをナイヤガラでで体験した父母がとても喜んだ日がありました。