松下竜一
『ルイズ ― 父に貰いし名は』講談社 1982年
新聞で伊藤野枝の名前を見かけて,昔読んだこの本を読み返したくなった。
関東大震災の時に,憲兵大尉甘粕正彦によって惨殺されたアナーキスト,大杉栄と伊藤野江の遺児,伊藤ルイの小説仕立ての半生記である。
著者の松下竜一は,一年半にわたるルイへの聞き取りを行い,この本を書いた。この本を通じてルイは世の中に紹介され,その後講演と執筆活動を行うようになった。(ルイ自身が執筆した自伝やエッセイがその後出版されている。時間があれば読んでみたいと思っている。)
大杉栄と伊藤野枝の間には,4人の女児がいる。二女は養子としてよそに出たので,実質的には3人の姉妹が残された。
大杉栄はこの3人に,魔子,エマ,ルイズと,それぞれ命名している。ルイズはフランスの女性アナーキスト,ルイズ・ミッシェルから取った名前である。その後ルイは,留意子,留意,ルイと3回名前を変えている。
両親が惨殺されたのは,彼女が2歳の時であるので,ルイは両親の記憶は全くなく,名前のいわれも知らずに育った。
三姉妹は,福岡県今宿村にある伊藤野枝の実家に引き取られ,それぞれ真子,笑子,留意子と改名されて,伊藤家の戸籍に入れられた。大杉家では栄の遺体引き取りを拒んだため,両親は今宿村に葬られ,墓名なしの石が置かれた。
ルイと姉たちは地元の小学校,高等女学校へと進学する。女学校卒業後,ルイはタイピストの資格を取って,自立する。在学中も,就職先でも,天皇に弓を引いたアナーキストの娘として好奇の目を向けられ,つらい思いをする。
慰問を頼まれて訪ねた14歳年上の傷痍軍人,王丸和吉に求婚されて,1939年に結婚する。ルイの両親を理由に,王丸家からは挙式も入籍も許されなかった。
結婚後単身で満州に渡った夫を追って,1940年ルイは渡満する。
満州でルイはタイピストとして働き,長女を出産するが,日常目にする中国人や朝鮮人への日本人の蔑視に,たまらない気持ちにさせられる。
夫が病気の療養で福岡に戻り,その後を追ってルイも帰国する。2児の出産,そして夫のギャンブル好きに苦労するが,楽天的な性格から,ルイは内職で家計を助けながら終戦を迎える。
終戦とともに,アナーキストの運動は復権し,ルイは大杉栄・伊藤野枝の名前を目にするが,あえてその運動からは一線を画すようにする。しかし,自分ももっと勉強をしなければと,古書店で見かけたルソーの『エミール』を読み始める。また,大杉栄全集を古書店で目にし,夫にねだって購入する。拾い読みする大杉の文に,それまで避けていた父の姿にユーモアとやさしさを感じるようになる。そして。自分の名前の由来を知る。
1953年になって,留意子ではなくルイを積極的に名乗るようになり,PTAや公民館の活動に参加するようになる。公民館では講座の運営を依頼され,「くらしの学級」という集いを主催する。また,週2回の勉強会にも参加し,その講師の「自分を突き抜けよ」という励ましもあって,大杉栄・伊藤野枝の娘であることを秘匿しないようにする。
1964年にギャンブルから借金まみれになっている夫と離婚し,その前から従事していた博多人形の彩色の仕事で自立する。1971年からは朝鮮人被爆者の救援活動に加わり,その中心的役割を果たすようになる。
「エピローグ」に記されていることが,深い印象をわたしに刻んだ。
1976年,大杉栄・伊藤野枝の死因鑑定書が新聞に報道される。二人は絞殺される前に,激しい暴行を受けたという。ルイはその記事から衝撃を受け,骨身を砕くような疼痛を覚える。しかし同時に,その疼痛こそが血のつながりだと,両親の存在を身近に感じる。そして安堵を覚える。
ルイは人前では両親のことを「パパ,ママ」とは呼ばず,大杉と呼び,野枝と呼んできた。そのことをとても恥ずかしく思う。そして,「わたしはパパの子よ。わたしはママの子よ。」と何度も呟く。
STOP WAR!