今年は特に、有名人の訃報が続くなぁ。今度は、馬之助かよ。
『元プロレスラーの上田馬之助(本名・上田裕司=ひろし)氏が21日午前10時7分、呼吸不全の為大分県臼杵市内の病院で死去した。71歳。愛知県出身。96年に車の事故で頸椎を損傷し、車椅子生活を余儀なくされ、98年に引退。96年3月の事故では下半身が不自由になり、熊本県内の病院等でリハビリ。最近は大分県臼杵市内の自宅で恵美子夫人とリハビリに励んでいた。夫人によると21日午前、果物を喉に詰まらせ同市内の病院に搬送されたが、午前10時7分、息を引き取った。恵美子さんは「病院に着いた時には呼吸をしていなかった。色々手当てをしたが、医師からは“喉に物が詰まり、呼吸が出来ずに窒息死した”と言われた」と説明した。58年大相撲の追手風部屋に入門。当初は上田山、後に海部錦(あまにしき)のしこ名で序二段12枚目迄昇進したが、60年に廃業し日本プロレス入り。61年にデビューした。アントニオ猪木らに比べ地味だったが、66年に渡米し悪役レスラーとして活躍した事が転機となった。76年に国際プロレスに参戦した当時から髪を金色に染める様になり、竹刀等の凶器を使い反則を繰り返すスタイルを確立。当初は金髪がまだらだったことから「まだら狼」、後に「金狼」と呼ばれ、日本初の本格ヒール(悪役)として注目を集めた。その後は新日本や全日本で、アントニオ猪木、ジャイアント馬場らを相手に、タイガー・ジェット・シンとのタッグで大暴れした。車椅子生活になってからもプロレスへの愛情は変わらず、98年に熊本県内で開催された引退記念大会には車椅子に乗って姿を見せた。臼杵市内に移り住んでからは、大分県内のローカルプロレス団体「FTO」の名誉顧問を務めた。又熊本では身体障害者施設への募金活動に取り組んだ。』
96年3月の事故は、東北自動車道をワゴン車で移動中に、西濃運輸の大型トラックに追突されたんだそうだ。追突されたワゴン車は横転し、ドライバーが脳挫傷で死亡。氏もフロントガラスを突き破り、車外に投げ出されアスファルトに叩き付けられた。普通の人なら即死だっただろうと言われる大事故だったが、レスラーとして体を鍛えていた事に加え、叩き付けられる直前、無意識に受身を取っていた事で一命を取り留めたんだそうだ。本人は車が衝突した瞬間以降の事は記憶に残っていなかったと云う。事故により脊椎損傷の大怪我を負う。
警察の調べによると、西濃運輸のドライバーが床に落ちたライターを拾おうとして、前を走っていたワゴン車に気付くのが遅れたらしい。
引退のきっかけとなった事故で、運転していたのはIWAジャパンの営業部員。後日、脳挫傷にて死亡した事を聞き「俺が死ねば良かった。何で人生まだこれからの若い奴が死ななきゃならないんだ」と号泣したという。
事故直後は、首から下が動かない状態だったが、リハビリにより、プロレス会場に車椅子で来場出来る程回復したんだそうだ。
実生活では、非常に善人だったらしい。
加齢も有るけれど、矢張り車椅子生活になってから、基礎体力が徐々に落ちていったんだろうね。果物を喉に詰まらせ窒息死するとは。
先日、深夜に腹が減ったので、半額処分で購入していた『オーストラリア産 牛バラブロック』をステーキにして頂いた。
『豚バラブロック』と同じ様なもんだろうなぁ、と思っていたんだが、これがどうにもナイフが通り難く、口に放り込んで噛んでみるが、これが中々咀嚼出来ない代物だった。半分位喰った所で、大き目にカットした部分がどうにも咀嚼出来ずに『ええい、ままよ。』とばかりに無理矢理嚥下してみたんだが、カットがデカ過ぎ、喉の半ばで引っ掛かった。
幸いな事に気道は塞がなかったので呼吸は出来た。だが此の儘ではどうなるか判った物ではない。さて、どうしたものか? と命の危険を感じながらも考えていると、やがて喉の奥に引っ掛かっていた肉片が自動的にセリ上がって来た。
らっきぃ、口の中に戻って来た肉片を皿に一旦吐き出して、ナイフで半分にカットして、今度は喉に引っ掛かる事無く、無事に嚥下する事が出来た。
喉に異物が留まった時に、基礎体力が有る場合は、自動的に体外へ排出しようとする作用が人体には働くんだな。
基礎体力が無い高齢者や小さい子供が、蒟蒻ゼリーや餅を喉に詰まらせて窒息死するって意味が判った気がした。
そう若くも無いので、今後は気を付けないといかんな、と思った出来事だった。
遅ればせながらも、謹んで上田馬之助氏のご冥福をお祈りします。
合掌。