読書の記録

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日本はなぜ貧しい人が多いのか

2010年09月09日 | 経済

日本はなぜ貧しい人が多いのか  「意外な事実」の経済学

原田泰


 日本社会を覆っている主に経済政策を中心とした「俗説」を、データを武器に切っていく。たとえば「日本の社会福祉保障は実は北欧にひけをとらない高水準」「日本の格差は必ずしも広がっていない」「人口の減少は国力の減退にはつながらない」「若者のフリーター化や失業は、若者の価値観ではなく景気が原因」「グローバリズムが後進国の発展を阻害したというロジックは成り立たない」などである。

 このような、巷の俗説が実は誤り、あるいは一面的な解釈でしかないことを指摘したり告発し、マスコミや行政が声高にいっていることが浅はかであることを問い詰めた本が増えてきたように思う。ある意味、情報の民主化であって、これはいいことではある。
 これらのやり方の多くは、どこからかデータを引っ張ってきて(白書とか世論調査のような行政が公表しているデータが多い)、“ほらそんな事実はないでしょ”と見せるやり方である。たとえば、この類のパイオニアでもあるパオロ・マッツァリーノが2004年に「反社会学講座」において行った「若者の犯罪率は実は増えていない」は、警察白書から若者の犯罪検挙件数を昭和20年頃からの推移で示し、昔のほうがずっと多かった、という歴然とした事実を見せつけた。


 本書も基本的にはこのパターンである。ただ、引用してくるデータの出典がぐっと専門的になり、統計解析手法もかなりテクニカルになる。

 これらのように巷の「俗説」がさも真実のように語られながら、事実は異なるということは実際に多そうである。最近この手で最も壮大なのは「地球温暖化は本当は起こっていない」だろうか。

 ところで、この「告発」もまた、実は根拠は「俗説」と同じくらいの確度、つまり十二分に怪しいことが案外に多いことは注意しなければならない。ここらへんはリテラシーが問われる部分である。

 僕は前職で統計解析屋さんみたいなことをしていた。なので、特に本書のような「データを武器に事実を見せる」ことそのものは、世間で思われているよりも実はずっと胡散臭いものであることを知っている。
 たとえば、本書でも何か所かで試みられているが、重回帰分析のような多変量解析を使っている場合は、いくらt値が1以上だとか、寄与率が90%だと統計用語でまくし立てられても、やはり話半分で聞いた方がいい。変数の組み合わせをいろいろ試してみて、たまたま検定がうまくいったものだけ発表すればよいのだから。
 そもそも、多変量解析をしないと結果が出ないというところがポイントで、普通のクロス集計や記述統計では思うような結果が出せなかったからであることが多い(そういう意味では単純な記述統計だけで差異を証明できているやつのほうがまだ信用度は高い)。

 こういった解析手法の恣意性もあるのだが、そもそも「データ武装」というのは、基本的にどのデータを使って、どのデータを使わなかったか、という取捨選択の上で成り立っているというところがポイントになる。そして、多くの場合「使わなかったデータ」「採択されなかった分析・解析手法」は開示されない。で、ここが肝心なのだが開示されなかった「使わなかったデータ」「採択されなかった分析・解析手法」の中には少なからずの「分析してみて、思うような狙った結果が出なかった」ものが隠ぺいされているのである。

 要するに、「データ武装」というのは「情報の非対称性」が前提なのである。したがって、この手の分析を本当に信頼高くするには、その最終結論を導き出すデータの前に、どれだけの試行錯誤をしたのか、の過程も開示しなければならないのだが、もちろんそんなことをしたのでは「告発」にならない。

 で、言うまでもないが、「告発」はもとより、もともとの「俗説」も根拠はこんなものなのである。「格差が広がっている」「犯罪が増えている」「学習能力が落ちている」なんてのは一面的なデータの切り方をしたに過ぎない。どっちもどっちである。

 じゃあ、けっきょく本当のところはどうなのか? 
 たいていの事象は「どっちもあり」なのである。犯罪は一面的には増えているし、一面では減っている。それは、当事者が何を犯罪とみなすか、である。検挙数か認知数か。泣き寝入りも含むのか。重犯罪だけを含むのか、単なるマナー違反まで範疇なのかどうか。自分の住んでいる街だけを対象とするのか日本全国なのか。ここ数年の範囲なのか、むこう30年の中でなのか。それとも世界と比べてなのか。
 格差もしかり、学力もしかり、景気もしかりである。これが「現実」である。


 じゃあこういう「俗説」とか「告発」は何がカギなのかというと、要は最初の課題設定、今風に言えば、どういう「アジェンダ」を設定するか、ということになる。
 「格差は広がっている」というアジェンダの設定が勝利なのである。これに対し、「いや、格差は広がっていない」という反論は趨勢としてはこの時点で既に後手となる。「格差は広がっている」というアジェンダの設定が成功すれば、国家予算が通る、国民の支持が挙がる、視聴者が興味を持つ、という勝算さえあれば、あとはそのアジェンダを補強する証拠を「データ武装」する、ということだ。


 以上をふまえて、本書に戻るとして、日銀が物価上昇率が0%を越えないようにしているのではないか、という仮説はなかなかセンセーショナルだ。状況証拠としては確かにそうだし、その「もっともらしさ」が俄然光っている。 通常、日銀はインフレターゲットを設定していないとされているのだが、「0%を越えない」という不思議な設定(つまりデフレのほうがマシという判断)は、なかなか興味深く、からくりを考えたくなる。80年代バブルによっぽど懲りたのかしら。


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