ハイエク 知識社会の自由主義---池田信夫
ケインズも新古典派もハイエクも最近妙に人気がある。混沌として不透明な時代において、何かしら経済学の光明を見たいという人々の希望だろうか。
とはいえ、ケインズはともかく、新古典派とハイエクの違いはわかりにくい。思想哲学上の違いは本書で再三触れているように明確ではあるのだろうけれど、現実の浮き世では、どっちも市場原理主義の新自由主義というやつなんでしょ、でほぼ通用してしまうように思う。
ただ、どちらにしても“市場の調整機能に委ねる”というのはどうも概念が包括的すぎてぴんと来ないこともある。下手に手をださずに、最低限のルールだけ与えて、あとは成り行きに任せるというのは、それってどちらかといえば宗教的観念ではないかという疑問がある。
たとえば、今日の資源の高騰という現象を、市場の調整が働いている期間でいずれは落ち着くと考えるのはまあいいとしても、その落ち着くのが1ヶ月先なのか1年後なのか10年後なのか、はたまた100年後なのかは誰にもわからず、気長に待ちましょうというのが政策的とはやはり考えにくい。個人には寿命があるのに、社会には寿命がないという矛盾から生じているわけで、100年待つ間に死んでしまってはその個人にとっては何のための「社会」かという話にもなる。
で、「ほっといたら100年かかるのを私なら10年で収斂させます」と声高に吠える政治家が出てきて、それが国民の大多数の支持、つまり「市場原理」によって選挙に勝ち、そしてケインズ型の財政政策を実行して、それが失敗しても成功しても、これも「調整機能」の一種の過渡期的現象などとなると、もう何が何だかわからなくなる。屋上屋を重ねるようなもので、そもそもなんのための考察か、なんて気もしてくる。そういえば、ナチスだってあれは民主選挙の結果、第一党に選ばれたのであった。
かといって、全体主義が良いわけはもちろんなく、共産主義が自由主義以上に困難であったことは、ひとまず知れ渡っており、所詮は中道左派から中道右派の間のいったりきたりで、神のみがその淘汰を見届けるんかいなあ。
ケインズも新古典派もハイエクも最近妙に人気がある。混沌として不透明な時代において、何かしら経済学の光明を見たいという人々の希望だろうか。
とはいえ、ケインズはともかく、新古典派とハイエクの違いはわかりにくい。思想哲学上の違いは本書で再三触れているように明確ではあるのだろうけれど、現実の浮き世では、どっちも市場原理主義の新自由主義というやつなんでしょ、でほぼ通用してしまうように思う。
ただ、どちらにしても“市場の調整機能に委ねる”というのはどうも概念が包括的すぎてぴんと来ないこともある。下手に手をださずに、最低限のルールだけ与えて、あとは成り行きに任せるというのは、それってどちらかといえば宗教的観念ではないかという疑問がある。
たとえば、今日の資源の高騰という現象を、市場の調整が働いている期間でいずれは落ち着くと考えるのはまあいいとしても、その落ち着くのが1ヶ月先なのか1年後なのか10年後なのか、はたまた100年後なのかは誰にもわからず、気長に待ちましょうというのが政策的とはやはり考えにくい。個人には寿命があるのに、社会には寿命がないという矛盾から生じているわけで、100年待つ間に死んでしまってはその個人にとっては何のための「社会」かという話にもなる。
で、「ほっといたら100年かかるのを私なら10年で収斂させます」と声高に吠える政治家が出てきて、それが国民の大多数の支持、つまり「市場原理」によって選挙に勝ち、そしてケインズ型の財政政策を実行して、それが失敗しても成功しても、これも「調整機能」の一種の過渡期的現象などとなると、もう何が何だかわからなくなる。屋上屋を重ねるようなもので、そもそもなんのための考察か、なんて気もしてくる。そういえば、ナチスだってあれは民主選挙の結果、第一党に選ばれたのであった。
かといって、全体主義が良いわけはもちろんなく、共産主義が自由主義以上に困難であったことは、ひとまず知れ渡っており、所詮は中道左派から中道右派の間のいったりきたりで、神のみがその淘汰を見届けるんかいなあ。