そ の ひ ぐ ら し

その日1日を良く暮らせればよし。
スカイツリーのふもとでちびと小ちびとオットと4人暮らし。

ブルートレイン

2012-01-30 01:37:29 | travel


大晦日に、北斗星という寝台列車に乗った。あこがれのブルートレインだ。
ちいさい頃、こども向けの本のなかに出てきたその言葉を、私は意味もわからずに「ブルート・レイン」という区切りだとなぜか思い込んでいた。
だからそれがblue trainだと知ったときには目からうろこが落ちると同時に、なんとも魅惑的な響きのしていたその言葉が、たったそれだけの単純な意味の単語の組み合わせだったことについて、なんだかがっかりするような気持ちになったのを覚えている。

北斗星にまつわるとても個人的なエピソードを、つれづれなるままに書こうと思う。

年末年始に札幌に行くので、大晦日に北斗星に乗る、と言ったら、母が猛烈に羨ましがった。
聞けば、昔家族で北海道旅行を計画していて北斗星に乗る予定だったらしい。
しかしその計画は、病気だった母方の祖父の死によっておじゃんになってしまった。
その一連のエピソードを、私は全然覚えていなかったけれど、だから私は大晦日の夜に、Ustreamを使って母だけにこっそり生中継してやった。便利な世の中になったものだ。
あとで妹に聞いたら、母はたいそうはしゃいでいたらしい。いい大人なんだから、自分で乗ったらいいのに。好奇心旺盛なわりに、何事にも腰の重い母なのだ。

とはいえ、祖父の死は私にとってはむしろ印象的、象徴的な出来事として私の記憶に強く残っている。
中学3年の6月のことであった。かねてより肝臓を悪くして入院していた祖父だったが、いよいよ具合が悪いというので、母の故郷の岐阜へ見舞いに行くことになった。
父方の田舎は大分、母方は岐阜だったが、私たち娘は岐阜の祖父母とのほうが近しかった。父は仕事で忙しい人だったし、たぶん母も大分へはあまり行きたがらなかったのであろう。
夏休みなどにはだいたい岐阜の実家へ行った。祖父は書道の先生をしていたので、教室にしていた2階の部屋でよく習字をしては赤をいれてもらった。岐阜の家の目の前には名鉄各務原線の踏切があり、ちいさい頃には祖父に肩車されて家の縁側から電車をながめた。同じ道路を北側へ行くとJR(当時は「国鉄」だった)高山線が走っている。名鉄は本数が多いのでしょっちゅう踏切が鳴るが、国鉄は本数が少ないのでそうそうお目にかかれない。幼い私は、大人たちが高山線を「なかなかこない」と言うのを聞いて、名鉄を見て「なかなかくる」と言った。祖父は私のそのせりふを気に入っていたようであった。
その頃から電車は好きだったが、踏切はとても苦手で、線路のむこうにある公園まで遊びに行くときにはいつも逃げるようにして走って踏切をわたった。名鉄の踏切が鳴り出すと、電車を見たい気持ちと踏切のあのこわい感じの間でジレンマを感じながら、「怖いものみたさ」でいつも名鉄の真っ赤な電車を眺めた。たまにパノラマカーが通った。大人になった今、電車はあの頃にも増して大好きで、踏切はいまだにあまり好きではない。できることならなにか乗り物に乗って渡りたい。歩いて渡りたくはない。渡るのではなく電車に乗って踏切を通り過ぎるだけでも、頭の奥の奥の一番奥ではこどもの頃に感じたこわい感じをいまだに思い出させる気がする。

とにかく、思い出の多い岐阜の祖父があまり長くないかもしれない、ということを、頭でわかりながら、心でまでは理解せぬまま、私と妹は母に連れられて岐阜へ行った。父は仕事の都合だったか、アメリカに単身赴任していた時期だったかで不在だった。
6月の土曜日、新幹線に乗って岐阜へ向かった。祖父が元気なときは岐阜羽島の駅まで車で迎えにきてくれたものだが、その祖父が入院していたのだから、名鉄を乗り継いで細畑の駅まで行き、そこから歩いたか、あるいは岐阜駅からタクシーにでも乗ったのだろう。
入院先の病院に行ったが、弱りきって言葉もろくに発せない祖父になにを言ってやればいいのか、14歳の私には到底わからなかった。
岐阜の母の実家で一晩を過ごし、翌朝祖母とともにもう一度病院に顔を出し、帰るね、と祖父に声をかけて病院を出ようとしたところで、祖父は息をひきとった。まるで、娘と孫の顔が見られたからもう思い残すことはない、とでも言うように。

それで、そのまま通夜と葬式が行われることになり、妹と私は忌引で学校を休むことになった。
とはいえ、急なことだったので誰も何も準備をしていない。誰かが千葉から荷物をとってこねばならなかった。父は出張先だか単身赴任先だかにいて、すぐには来られないので父には頼めない。それで最初は母が千葉に帰って喪服や制服や必要なものを取ってくる、と言ったのだと思うが、私は、私が行く、と手を上げたのだった。
それで、ひとりで新幹線に乗って千葉の家に帰り、母に指示された荷物をまとめ、ひとりで一晩を過ごし、翌朝、ふたたび岐阜へ向かった。
梅雨の時期にも関わらず、真夏のような青空の日だった。新幹線の窓からひとりでその空をぼーっと眺めて、Original LoveのIt's a wonderful worldを聴きながら、今日の空になんとよく似合う曲だろう、と思った。そして、あ、私は大人になった、と思った。14歳の私にとって、ひとりで旅ができるということは、とてつもなく大人びた出来事なのだった。じいさんが死んだというのに不謹慎だな、と思いながら、私は使命感に満ちて、わくわくしていた。「はじめてのおつかい」であった。

岐阜に着いて、その日の夜には通夜が、その翌日には葬儀が行われた(と思う)。葬儀には父もいたはずだから、多分前の晩のうちに岐阜に着いたのだろう。
葬儀のとき、長時間の正座で足がしびれて、立ち上がれなくて思わず笑ってしまい、母に怒られた。
棺に入れられ、燃やされて骨と灰になった祖父を見て、とても不可解な気持ちになったのを覚えている。つい一昨日まで、病床に臥していたとは言えひとりの人間として存在していた祖父が、骨と灰になるとはいったい何事か。祖父の体は、そして魂はいったいどこへいってしまったのか。死とはいったいなんなのか。14歳の私にとって、初めて直面する人の死とは、ただただ不可解な出来事だった。

というようなことを、北斗星の旅を決めてからいろいろと思い出した。
不思議なことだが、大人になってからのほうが、子供の頃のことをよく思い出すような気がする。
大人になるなんていうのは、年齢的にはともかくとして、精神的にはありえないのかもしれないが、それでもこのときの経験はやっぱり大人への入り口であったと思う。振り返ってみれば、じいさんが私に、大人への階段をひとつのぼるステップを用意してくれたように思う。旅好き・乗り物好きになったのはこのときの原体験があるからだと思うし、祖父が生前好きだったらしい写真撮影を私が好きなのも不思議な縁だ。旅と写真は切っても切れない関係だ。

以上が私の、北斗星にまつわるとても個人的なつれづれである。
もしも最後までお付き合いくださった方がいたら、ありがとうございます。感謝します。
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離陸する飛行機

2012-01-16 11:08:27 | travel
飛行機の離陸するときが好きだ。
滑走路にまっすぐ前を向いて、いくぞ!っていう感じで一気に加速して、機首が上がり、ふわりと浮き上がったと思うと、
さっきまでいた地上世界はあっという間に過去のもの。みるみるうちに巨大なジオラマになる。
このわずか3分の出来事は、何度飛行機に乗っても毎回ちいさな窓にかじりついてまじまじと見てしまう。
あるいは空港で誰かを見送るときも、その人が乗った飛行機が地面から離れる瞬間にはじんとしてしまう。
やがてちいさな点になって見えなくなるまで、じぃーっと見てしまう。
こどもじみていると思うのだが、あまりにもドラマチックで、目が離せない。

飛行機が離陸するときはいつも、あたらしい生活がはじまるときの期待と不安の入り交じった興奮状態を思い出す。
人生の転機に、新天地へ向かうとき、自分のなかの「いくぞ!」が最高潮に達するのが、飛行機が離陸する瞬間なのだ。
だから、日帰りの出張だろうと、週末の1泊旅行だろうと、条件反射のようにあの感じがよみがえって、わくわくしてしまう。

旅はスマートに、慣れた手つきでそつなくこなしたいのだけど、これだけはどうしてもだめだ。
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