魔法の弾丸

自己に対する選択毒性

見ることⅤ

2007-09-27 21:52:39 | Weblog
 となると、「見たこと」が強烈な光を放つものであればあるほど、それを「書くこと」に尋常ならざる力が必要となるのは当然です。

 ところが、―自戒を込めて言いますが、「書く」力の弱い作家は、裏返せば「読む」力を弱いわけで、その弱さは往々にして、自分自身の作品に対する言い訳まがいの甘やかしを生んでしまします。もしも、開高健が「書く」力の弱い作家であれば、自身が「書いたこと」は「見たこと」と同じである。と安心して筆を進めることができたでしょう。あるいは逆に「見る力が弱ければ、浅薄な「見たこと」を原稿用紙に写し取ることは容易だったはずです。

開高健 悠々として急げ/重松清




「見た」ことを「伝える」こと。
自分の脳内で構成された世界を他者の脳内で立ち上げること。

自分が見た世界。
自分が経験した世界。
自分が中心の世界。


それを異なる神経回路を有する他者の脳で再現すること。
この試みは厳密には不可能である。



でも、その世界を伝えたいと強く願うから
言葉というものを使用してその世界を変換させる。

洞察力が鋭ければ、鋭いほど
それとは裏腹に世界は逃げていく。




開高健や三島由紀夫など極めて書く力が強い作家の文章は
形容詞や比喩を用いすぎることによって、その世界からは遠く離れた世界が立ち上がってくる感覚がある。

書く力が強すぎるあまり
言葉のもつ力、そのものが色褪せていく。



言葉でしか伝えられないことは、とても切なくてもどかしい。


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