魔法の弾丸

自己に対する選択毒性

出発する者

2008-03-02 11:02:50 | Weblog
しかし、その一方で別の時間、別の行動様式があるのだ。われわれがずっと昔の放棄してしまった時間、未知のものをたっぷりと含んで、それに自分は対処できるという自信のある者だけが入ってゆくことができる時間がある。どんなことになっても自分は大丈夫というのではない。それは冒険の時間が中に秘めている危難の可能性を過小評価することでしかない。いくつもの危難を越えてゆくうちに自分の力ではどうしようもない相手に出会ってしまうこともあるだろうと彼らは承知している。それを恐れるのではなく、その存在を知ったまま、ともかく行動することが自分の方針なのだからと考えて、仮にそれを無視する。そういう生きかたがある。それが人を空に向かって、海に向かって、あるいは単なる国内の旅や三日の釣旅行に向かって、押し出す。非日常の時間の方へとそっと促す。

母なる自然のおっぱい/池澤夏樹




旅に関する考察。

理系の視点を有しながら、美しく複雑な論理を語る文学者。




僕は、実験も上記の文章につながるものがあると考える。

ある現象に対して、遺伝子レベルまで還元した理論を執拗なまで構築し、
その仮説を実際に検証するための実験を行う。



しかし、得られた結果は人間の浅はかな想像力を越える。

そこには未知のものがたっぷり含まれている。



人間が忘れてしまったことが確かにそこには存在する。




また、筆者は旅をする人間についても考察している。


利己的な人間。つまり、徹底して個人であること行動者としての植村直己にあってもっとも重要な資質、彼というものを最終的に動かしてしたものは、行動への衝動であった。他のものは後からついてくる。自分を訓練する能力や自制心や時に集団の中で自分を殺して働かせる力などは副次的なものだ。最初にあったのは動こうとする衝動、登ろうという意志、グリーンランドや南極を横断しようという強烈な意欲である。それは功名心とか名誉欲とか、そういう外の社会との関係の中で説明できるものでは決してない。それはまったく彼自身の中から、それも実に深いところから湧いてくる衝動であって、彼を行動者に仕立てたのはまさにこれなのだ。




研究者も同じではないだろうか。

知りたいという衝動、患者のためという衝動がすべて。







独りで旅をするということは、自分と向き合うこと。

研究するということは、思考で旅することと同定義。


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