いんや~、我ながら熱くなってるわぁ。一体どこまで熱くなれば気が済むんだよ! こんな一人で勝手に熱くなってるような文章に、誰が付き合ってくれるんだよ! 大体これ、書いてて「わけ分かんなく」なってるじゃん! いやいや、「分かり切った」ことなら、書く必要ないもん! でもね、これ、一応言っておくと、冷静さがなきゃ書けないんだからね!
……以上、前置きという名の「苦しい言い訳」でした。
*********
前回の記事で、「音楽よ大衆的であれ!」ってなことを書いたわけだが、何も全部が全部そうであれと言っているわけじゃない。何故なら、「大衆を相手にすること」は、誰にでもできることじゃないからだ。実際、ミスチルや宇多田ヒカルのことを「大衆的であろうとしてるとは思えない」とか「開かれてるとは感じられない」と書いた私だが、ミスチルや宇多田ヒカルにも好きな曲があるし、CDも持ってたりする。それに、音楽には、少数派のものがあって然るべきだと思うし、閉じたものにだって意味があると思う。「内輪受け」だろうと何だろうと、その人にとって必要なら、それで良い。
そして、それは、どんな音楽であっても同じはずだ。その音楽が売れてようとなかろうと、「私これ好き!」とか、そういうことがすべての始まりだったはずだ。それがどんどん広まって、大衆を巻き込んでいったのなら、それはとても素晴らしいことではないだろうか。しかし、それ以前のところで、「大衆的」であるということが、変に歪められて捉えられてると感じることがある。売れてるというだけで「売れ線」とか「商業音楽」とかいって本質を見ようとしなかったり、「個性派」とか「本物志向」とかいった聞こえの良い言葉が「大衆を相手にできないことへの言い訳」のように使われてたり。
そういう中で、アーティスト達も、大衆的であることへの魅力を感じなくなったのか、大衆的であろうとしなくなってきている、あるいは、大衆的であろうとすることから逃げている、そんな風に私には感じられていた。誰が悪いわけでもない。私自身、知らない間に、「大衆音楽」というものを諦めかけていたのかも知れない。
だけど、「浜崎あゆみ」に出会って、音楽が持ち得る可能性を、もう一度信じてみようって気になった。音楽は大衆を相手にできるんだと、思い出させてくれた。だから、こんな文章を書いてるのだ。じゃなかったら、前回のような、下手したらJ-POPを全否定しかねない文章、書いてないよ。
「大衆を相手にすること」は、誰にでもできることじゃない。鋭い自己批評や客観性、時代を捉える目、変化していく時代の中から不変(普遍)のものを掬い取り紡ぐ力、その中での自己実現……それらがなければ、できることではない。そう、あゆは、ただ「大衆を相手にする」のではなく、「大衆を相手にクリエイティヴ」であろうとしている。私にはそう感じられる。
例えば、「Humming 7/4」という曲がある。これは、自分のことを世間より一歩も二歩も先に出て捉えようとしていなければ書けない歌詞だし、世間を挑発してもいる。それでいて、サラリと自分を提示してみせ、と思ったら、「皆で一緒に行こうよ!」と言わんばかりのコーラスへと続いていく。「alterna」という最近の曲だってそうだ。あれは、鋭い自己批評の目がなければ書けないし、プロモにもそれが如実に表れている。自分が操り人形となり、スターへの階段を駆け上がり、自分のコピーロボットが“歌うマシーン”として大量生産されていく。ベタと言えばベタだが、これは彼女自身が「浜崎あゆみ」を一回疑ってみなければ持てない発想だし、意外と渦中にいる人はこういう発想を持てなかったりする。持てたとしても、相当の勇気や覚悟、技量や説得力がなければできない。だってこれ、やる人がやったら、笑うに笑えないし、一歩間違えれば本当に「笑いもの」になってしまう。にも関わらず、ちゃんと「楽しめる作品」として成立しているところが凄いわけで、それはつまり、彼女が“操り人形”とか“コピーロボット”とか“歌うマシーン”とかいったパブリック・イメージに負けていない何よりの証だし、これを今やるというタイミングを掴むのにも長けているということだ。第一、撮影中に、「(人形に扮するので)生きてないってバレちゃうね」とか言って笑ったりしているのだ。そう言えば、このプロモ、皮肉たっぷりの凄いことをやっていながら、どこか滑稽だったり笑えたりする。つまり、「笑い」にも昇華できているのだ。
大衆的であるためには、「大衆に対する自分」を大衆よりも先のところで考えていなければいけないし、それでいながら、「自分」を提示してみせなければ人の心は動かせない。そして、それらすべてひっくるめて「楽しめる作品」になっていなければいけない。皆でワーキャー騒ぎたいと言っているのではない。「そこから生まれる何か」を感じられるかどうか。あゆの作品に触れると、少なからず、何かを考えさせられる。こちらに何かを問いかけてくる。彼女自身、何かを考え、何かを問いかけようとしているからだろう。そして、それが「楽しめる作品」になっている。素晴らしいことだと思う。
最近、『ウイダー』のCMにあゆが出た。あれだって、自己批評の目がなきゃできないもんね。あゆ自身による「浜崎あゆみ」のパロディー。しかもそれが、「開き直り」でとどまらず、「挑発」としても機能していたと思う。
要するに、「大衆を相手にクリエイティヴ」であろうとするということは、常に世間や時代を意識し、それと向き合い、時にはそれと戦いながら、その上で自己実現を図り、自分を確立し、それをまた世に問う、その繰り返しなのだと思う。
前回の記事で、「ファンじゃない人も見てる」と書いたのはそういうことで…。そんなことを言うと、「ファン」は寂しく感じるのだろうか。でも、「ファン」って一口に言ったって、一体どこからどこまでを言うのか、そんなこと誰にも決められないよね。「ファン」って言ったって、結局は「顔が見えない」のだ。仮に「ファンらしきゾーン」を定めてみても、それは結局、「私」でも「君」でも「誰」でもない。だから、アーティストにできること、また、すべきことは、「自分を世に問う」。これだと思う。あゆは、「浜崎あゆみを世に問う」ことで、ファンあるいは世間と繋がろうとしている。私にはそう思える。それはとても「面倒くさい」ことかも知れない。でも、だからこその「クリエイティヴ」だと思うのだ。そして、それは、物凄く「真摯」な向き合い方だと思う。それによって、離れていく人が出てきても…。だって、ファンの顔が見えないのと同じで、「答え」なんてどこにもないんだから。「真摯」でありたいなら、「問い続ける」しかない、きっと。
私があゆの作品を聴いて驚いたのは、「この人、同じアルバム出してない!」ってことだ。これは、あゆが「その時その時で浜崎あゆみを世に問うてきた結果」なのだろう。そこには、「狙い」ではなく、「自然な流れ」があった。大衆的であるためには、常に変化し続ける必要があるのかどうか。答えは分からないが、時間の流れとともに世の中だって自分だって変わっていくのだから、常に自分を世に問おうとするのなら、変化は必然のことと思える。簡単に言ってしまえば、「今を生きる」、そういうことだ。
そして、そんな風に変化を見せ、常にその時の自分を世に問いながらも、あゆの作品からは、常に「確固たる芯」の部分が感じられる。だから、私の中の「芯」の部分にも届いてくる。こんな文章を引用させてもらいたい。
何かを学ぶのは本当に難しい。新しい事にいつでも感動できる新鮮な気持ちを持ち、新鮮な事を受け入れられる柔軟な気持ちを持ち、柔軟さを支える、強固な芯のある「自分」を持ってないといけない。自分に芯があるのなら、貪欲に求めるべきだ。そして積極的に変わるべきだ。そして変わらぬ芯の部分の魅力を再確認し、成長のカタルシスを感じるんだ。芯の部分以外は道端に捨ててしまえばいい。それは成長の邪魔なんだからね。
奇しくも、この文章と「alterna」が、私の中でピッタリとリンクしてしまった。
「今を生きる」表現が、「時代性」を帯びるのは当然のことだろう。しかし、その「時代性」の先にこそ、「不変性」もしくは「普遍性」があるのではないか。私はそんな風に思っている。近頃、「普遍的」という言葉が当たり前のように使われている気がするが、何も、当たり障りのない表現が「普遍的」ということではないと思うのだ。「普遍的」という言葉を、「時代と戦えないことへの言い訳」には使わないで欲しい。「時代」と戦ったものだけが勝ち取れる「普遍性」ってのがあるはずだ。
「大衆的であろうとすること」を、「世間に媚びてる」と言う人もいるかも知れない。でも私は、音楽が「世間と向き合うこと」を止めてしまったら、「大衆を相手にすること」を止めてしまったら、音楽は終わりだと思う。「音楽は時代と戦える」、あゆは私に、そう言っているような気がする。
最近ふと思うのは、「あゆ」には、「浜崎あゆみ」のことを完全に忘れてる時間があるのかどうかってことだ。ひょっとしたら、寝てる時以外ないのかも知れない。いや、寝てる時ですら? あゆの作品には、彼女自身がいつもいつも「浜崎あゆみ(音楽)」のことを考えてなきゃ生み出せないであろう「何か」がある。そういや以前、「絵を描いている時だけ絵のことを考えている人間が描いた絵は汚い」というような文章を読んだことがある。「絵を描いていない時も、いつもいつも絵のことを頭のどこかで考えている、そういう人間が描いた絵こそが、美しくなりえるんだ」と。きっと、「問い続ける」ことを止めてしまった人は、どこかで「自分」と「絵」を切り離してしまったんだ。「あゆが描く浜崎あゆみ」は今日も美しい。なんだか泣けてくる。
……以上、前置きという名の「苦しい言い訳」でした。
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前回の記事で、「音楽よ大衆的であれ!」ってなことを書いたわけだが、何も全部が全部そうであれと言っているわけじゃない。何故なら、「大衆を相手にすること」は、誰にでもできることじゃないからだ。実際、ミスチルや宇多田ヒカルのことを「大衆的であろうとしてるとは思えない」とか「開かれてるとは感じられない」と書いた私だが、ミスチルや宇多田ヒカルにも好きな曲があるし、CDも持ってたりする。それに、音楽には、少数派のものがあって然るべきだと思うし、閉じたものにだって意味があると思う。「内輪受け」だろうと何だろうと、その人にとって必要なら、それで良い。
そして、それは、どんな音楽であっても同じはずだ。その音楽が売れてようとなかろうと、「私これ好き!」とか、そういうことがすべての始まりだったはずだ。それがどんどん広まって、大衆を巻き込んでいったのなら、それはとても素晴らしいことではないだろうか。しかし、それ以前のところで、「大衆的」であるということが、変に歪められて捉えられてると感じることがある。売れてるというだけで「売れ線」とか「商業音楽」とかいって本質を見ようとしなかったり、「個性派」とか「本物志向」とかいった聞こえの良い言葉が「大衆を相手にできないことへの言い訳」のように使われてたり。
そういう中で、アーティスト達も、大衆的であることへの魅力を感じなくなったのか、大衆的であろうとしなくなってきている、あるいは、大衆的であろうとすることから逃げている、そんな風に私には感じられていた。誰が悪いわけでもない。私自身、知らない間に、「大衆音楽」というものを諦めかけていたのかも知れない。
だけど、「浜崎あゆみ」に出会って、音楽が持ち得る可能性を、もう一度信じてみようって気になった。音楽は大衆を相手にできるんだと、思い出させてくれた。だから、こんな文章を書いてるのだ。じゃなかったら、前回のような、下手したらJ-POPを全否定しかねない文章、書いてないよ。
「大衆を相手にすること」は、誰にでもできることじゃない。鋭い自己批評や客観性、時代を捉える目、変化していく時代の中から不変(普遍)のものを掬い取り紡ぐ力、その中での自己実現……それらがなければ、できることではない。そう、あゆは、ただ「大衆を相手にする」のではなく、「大衆を相手にクリエイティヴ」であろうとしている。私にはそう感じられる。
例えば、「Humming 7/4」という曲がある。これは、自分のことを世間より一歩も二歩も先に出て捉えようとしていなければ書けない歌詞だし、世間を挑発してもいる。それでいて、サラリと自分を提示してみせ、と思ったら、「皆で一緒に行こうよ!」と言わんばかりのコーラスへと続いていく。「alterna」という最近の曲だってそうだ。あれは、鋭い自己批評の目がなければ書けないし、プロモにもそれが如実に表れている。自分が操り人形となり、スターへの階段を駆け上がり、自分のコピーロボットが“歌うマシーン”として大量生産されていく。ベタと言えばベタだが、これは彼女自身が「浜崎あゆみ」を一回疑ってみなければ持てない発想だし、意外と渦中にいる人はこういう発想を持てなかったりする。持てたとしても、相当の勇気や覚悟、技量や説得力がなければできない。だってこれ、やる人がやったら、笑うに笑えないし、一歩間違えれば本当に「笑いもの」になってしまう。にも関わらず、ちゃんと「楽しめる作品」として成立しているところが凄いわけで、それはつまり、彼女が“操り人形”とか“コピーロボット”とか“歌うマシーン”とかいったパブリック・イメージに負けていない何よりの証だし、これを今やるというタイミングを掴むのにも長けているということだ。第一、撮影中に、「(人形に扮するので)生きてないってバレちゃうね」とか言って笑ったりしているのだ。そう言えば、このプロモ、皮肉たっぷりの凄いことをやっていながら、どこか滑稽だったり笑えたりする。つまり、「笑い」にも昇華できているのだ。
大衆的であるためには、「大衆に対する自分」を大衆よりも先のところで考えていなければいけないし、それでいながら、「自分」を提示してみせなければ人の心は動かせない。そして、それらすべてひっくるめて「楽しめる作品」になっていなければいけない。皆でワーキャー騒ぎたいと言っているのではない。「そこから生まれる何か」を感じられるかどうか。あゆの作品に触れると、少なからず、何かを考えさせられる。こちらに何かを問いかけてくる。彼女自身、何かを考え、何かを問いかけようとしているからだろう。そして、それが「楽しめる作品」になっている。素晴らしいことだと思う。
最近、『ウイダー』のCMにあゆが出た。あれだって、自己批評の目がなきゃできないもんね。あゆ自身による「浜崎あゆみ」のパロディー。しかもそれが、「開き直り」でとどまらず、「挑発」としても機能していたと思う。
要するに、「大衆を相手にクリエイティヴ」であろうとするということは、常に世間や時代を意識し、それと向き合い、時にはそれと戦いながら、その上で自己実現を図り、自分を確立し、それをまた世に問う、その繰り返しなのだと思う。
前回の記事で、「ファンじゃない人も見てる」と書いたのはそういうことで…。そんなことを言うと、「ファン」は寂しく感じるのだろうか。でも、「ファン」って一口に言ったって、一体どこからどこまでを言うのか、そんなこと誰にも決められないよね。「ファン」って言ったって、結局は「顔が見えない」のだ。仮に「ファンらしきゾーン」を定めてみても、それは結局、「私」でも「君」でも「誰」でもない。だから、アーティストにできること、また、すべきことは、「自分を世に問う」。これだと思う。あゆは、「浜崎あゆみを世に問う」ことで、ファンあるいは世間と繋がろうとしている。私にはそう思える。それはとても「面倒くさい」ことかも知れない。でも、だからこその「クリエイティヴ」だと思うのだ。そして、それは、物凄く「真摯」な向き合い方だと思う。それによって、離れていく人が出てきても…。だって、ファンの顔が見えないのと同じで、「答え」なんてどこにもないんだから。「真摯」でありたいなら、「問い続ける」しかない、きっと。
私があゆの作品を聴いて驚いたのは、「この人、同じアルバム出してない!」ってことだ。これは、あゆが「その時その時で浜崎あゆみを世に問うてきた結果」なのだろう。そこには、「狙い」ではなく、「自然な流れ」があった。大衆的であるためには、常に変化し続ける必要があるのかどうか。答えは分からないが、時間の流れとともに世の中だって自分だって変わっていくのだから、常に自分を世に問おうとするのなら、変化は必然のことと思える。簡単に言ってしまえば、「今を生きる」、そういうことだ。
そして、そんな風に変化を見せ、常にその時の自分を世に問いながらも、あゆの作品からは、常に「確固たる芯」の部分が感じられる。だから、私の中の「芯」の部分にも届いてくる。こんな文章を引用させてもらいたい。
何かを学ぶのは本当に難しい。新しい事にいつでも感動できる新鮮な気持ちを持ち、新鮮な事を受け入れられる柔軟な気持ちを持ち、柔軟さを支える、強固な芯のある「自分」を持ってないといけない。自分に芯があるのなら、貪欲に求めるべきだ。そして積極的に変わるべきだ。そして変わらぬ芯の部分の魅力を再確認し、成長のカタルシスを感じるんだ。芯の部分以外は道端に捨ててしまえばいい。それは成長の邪魔なんだからね。
奇しくも、この文章と「alterna」が、私の中でピッタリとリンクしてしまった。
「今を生きる」表現が、「時代性」を帯びるのは当然のことだろう。しかし、その「時代性」の先にこそ、「不変性」もしくは「普遍性」があるのではないか。私はそんな風に思っている。近頃、「普遍的」という言葉が当たり前のように使われている気がするが、何も、当たり障りのない表現が「普遍的」ということではないと思うのだ。「普遍的」という言葉を、「時代と戦えないことへの言い訳」には使わないで欲しい。「時代」と戦ったものだけが勝ち取れる「普遍性」ってのがあるはずだ。
「大衆的であろうとすること」を、「世間に媚びてる」と言う人もいるかも知れない。でも私は、音楽が「世間と向き合うこと」を止めてしまったら、「大衆を相手にすること」を止めてしまったら、音楽は終わりだと思う。「音楽は時代と戦える」、あゆは私に、そう言っているような気がする。
最近ふと思うのは、「あゆ」には、「浜崎あゆみ」のことを完全に忘れてる時間があるのかどうかってことだ。ひょっとしたら、寝てる時以外ないのかも知れない。いや、寝てる時ですら? あゆの作品には、彼女自身がいつもいつも「浜崎あゆみ(音楽)」のことを考えてなきゃ生み出せないであろう「何か」がある。そういや以前、「絵を描いている時だけ絵のことを考えている人間が描いた絵は汚い」というような文章を読んだことがある。「絵を描いていない時も、いつもいつも絵のことを頭のどこかで考えている、そういう人間が描いた絵こそが、美しくなりえるんだ」と。きっと、「問い続ける」ことを止めてしまった人は、どこかで「自分」と「絵」を切り離してしまったんだ。「あゆが描く浜崎あゆみ」は今日も美しい。なんだか泣けてくる。