「やっぱ大衆音楽っていうかさ、大衆的なものが一番カッコいい」
エレファントカシマシの宮本浩次は言った。宮本氏は浮世絵が好きなのだが、「俺が浮世絵好きだったのとかもさ、あんなものだってやってる人っていうのはすっげえ立場がもう低いんですよね。江戸時代の人ってみんな浮世絵見て喜んでるじゃない? もんのすごい大衆的」。かたや金屏風みたいなものがお芸術だったわけで、「で、今残ってるのはどっちですか、金屏風のお芸術ですか、浮世絵ですか、つったら浮世絵の方がさ、未だに心をつかんでむしろ芸術って言われちゃってるよな、あんなものが」と言っていた。
この話を思い出す度、「浜崎あゆみ」のことと重ねてしまう。
私があゆをカッコ良いなと思う理由のひとつに、「大衆的であろうとしてる」ってのがある。そして、私が音楽を素晴らしいなと思うのは、「大衆を巻き込むこと」ができるからだ。だって、人種も国籍も年齢も性別も、生活習慣も趣味も価値観も、あらゆるものが違う人達が、ひとつのものに夢中になる。そんなこと、まるで夢みたいじゃないか。国籍どころか、ごく身近な人とだって、些細なことで相容れなかったりするのに、音楽は、そんな夢みたいなことを、時にやってのけたりしてみせるんだ。
だけど最近、どうもそうじゃなくなってきてる気がしてならない。他の国のことはよく分からないから、日本での話をしてみることにする。
近田春夫の『考えるヒット』を読んでいて、ドキッとした言葉があった。日本の音楽(J-POP)について、「日本人にしか通用しない英語的なモノ」とあった。ああ、言われてしまった…と思った。私が抱いている「疑問」を見事に的中された気分。(『考えるヒット』は、あゆの『B & D』評に感激したので読み出したのですが、凄いですね! あゆの『B & D』評はあゆファン必読! あゆにも読んで欲しいな! もう読んでるかな?)
でもね、私は、もっと狭い範囲で同じようなことを感じてしまうのよ。近田氏は「日本人にしか通用しない」って書いてるけど、その「日本人」の中でも、もっと細かく分けられてるような気がしてならない。ジャンルとか年齢だけにとどまらず、「こういう音楽(アーティスト)が好きな人」っていう枠みたいのが知らない間に用意されてて、アーティストもリスナーも、知らない間にその枠におさまってる、おさめられてるって気がしてならない。皆、その上で楽しんでる。ひとつの枠におさまり切らない人もいるだろうけど、その都度、枠に入って楽しんでる感じ? 変に争いごとを好まないというか、枠を飛び出そうとしない感じ? いや、アーティストもリスナーもそんなにバカ(あるいは利口)じゃないとも思うけど、どうにもこうにも日本の音楽に「内輪受け」な匂いを感じてしまうことがあるのは私だけ? もちろん自戒も込めて言ってるよ。なんか、もっともっと「摩擦」があっても良いのになぁって思う。というか、「摩擦」のなさに、なんかおかしいなぁって違和感を感じてしまったりする。私は、日本のアーティストにも大好きな人がいるし、洋楽ファンの人が邦楽を軽視してたりするととても悔しいんだけど、でも、洋楽ファンの人が邦楽を物足りないというのも、分かる気がしてしまう。
簡単に言うと、「閉じてるなぁ」って感じてしまうのよ。さっきも言ったように、私が音楽を素晴らしいなと思うのは、大衆を巻き込むことができるからで、だから、音楽は「開かれた」ものであって欲しいと思ってる。ただ、ここでハッキリ言っておきたいのは、「大衆的なもの」=「売れてるもの」と言ってるわけじゃないってこと。だから、あゆが「大衆的であろうとしてるからカッコ良い」っていうのは「売れてるからカッコ良い」って言ってるわけじゃない。だって、それなら、他の売れてるアーティスト、例えばB’zとかミスチルとか宇多田ヒカルとかだって、良いわけじゃん。でも私は、彼らを「大衆的であろうとしてる」、つまり、「開かれてる」とは感じられないの。逆に、そういう人達よりは売れてないけれども、「開かれてる」と感じる音楽はある。むしろ、売れれば売れるほど、「開く」のは難しくなってくるんじゃないかと感じてるくらい。だから、「規模」じゃないのよ。セールスがどのくらいであろうと、開かれてる音楽は開かれてるし、閉じてる音楽はやっぱり閉じてるんだと思う。どんなに売れていても、その音楽が閉じてるのであれば、それは規模が大きいだけであって、真の意味で「大衆的である」とは言えないと思う。だから、ここでは、「大衆的」=「開かれてる」ってことで話を進めていきたい。
何をもって「開かれてる」とするか。そこが難しいと思うんだけど、誤解しないで欲しいのは、例えば、シロップなんかは、寒気がするくらいに閉じた内容を歌ってたりする。エレカシだって、強烈に閉じこもったことを歌ってたりする。でも私は、それを聴いて「閉じてるなぁ」とは感じないのよ。あゆだって「大衆的」と書いたけど、閉じこもった心情を歌ってたりするし。だから、インプットは何でも良いと思うんだよね。ただ、それが表現としてアウトプットされるときに、「開かれてる」かどうか。「そこ」なんだと思う。だから、どんなに開かれた内容を歌っていても、閉じてることはあると思うし、逆もまた然りで。そこの判断基準は感覚的なことで、結局は人それぞれってことになってしまうのかな。
でも、例えば、具体的に分かりやすい例で言うと、『紅白』とか『レコード大賞』とか、辞退する人いるじゃん。あれ、私にはよく分からないんだよね。その人なりの考えがあるんだろうし、その人の自由だとは思うよ。それ以外にも色々な事情があるのかも知れない。でも私は、申し訳ないけど、心のどっかに「疑問」が残っちゃうな。別に私は紅白のファンじゃないよ。むしろ、ほとんど見なかったりする。でも、出る側がそれをしてどうする? 辞退する人達の理由とかそれ以外の事情とかよく知らないから、勝手なこと言わせてもらうけど、例えば、もし、紅白に魅力を感じないから出ないというのであれば、お前がそんなこと言ってるから紅白の魅力が減っていくんだろー!って言いたくなるよ。紅白なんてダサいから出てらんないとかだったら、はぁ?って感じ。紅白がダサかろうが何だろうが、お前の音楽はダサくないんだろ? だったら、お前が出ている5分かそこらの時間だけ、紅白を変えてやれば良いじゃないか! なんかね、自信がないのかなって思っちゃうんだよ。コントや芝居をやれってんじゃないんだから、自分の音楽に自信があるなら、出ていけば良いのに。そんなんで「日本の音楽を変えてやる!」とか言われた日には……。
番組の方針に納得がいかないとか、紅白に出る意味を感じないとか、まぁ、気持ちも分からなくもないよ。紅白のために活動してるわけじゃないだろうしね。だけどさぁ、最近、視聴者に「出演して欲しい人」ってアンケートやったじゃん。そういうので選ばれてるのにも関わらず辞退する人ってのは、その「選んでくれた人」に対して、どう思ってんのか聞いてみたい。紅白はどうでも良かったとしても、あなたの音楽はそういう「選んでくれた人」に支えられてるんじゃないの? そういう人達に届けてるんじゃないの? あなたの音楽を求めてる人がそこにいるのに、それよりも先に優先するものって何なんだろう。ああ、私にはやっぱりよく分からないや。
はたして、今の日本で、「音楽」は、「浮世絵」なのか「金屏風」なのか。それとも、そのどちらにもなれないのか――。
というわけで、やっとこさ、「浜崎あゆみ」の話をしたいと思う。
私、あゆの音楽からは、「内輪受け」な匂い、感じないんだよねぇ。それはもう不思議なくらいに。「(miss)understood TOUR ~1回目~」で「開かれてる」って書いたけど、言いたかったのはそういうことで。つまり、私があゆに期待していることは、ズバリそのまま私が音楽に期待していることと同じで、「大衆を巻き込むこと」なの。
例えば、あゆに対して、顔が可愛いからって理由だけで興味を持った人、ファッションとかビジュアル面から興味を持った人、キャラクターや生き方に惹かれた人、歌詞に共感した人、音楽に惹き付けられた人、色々な人がいると思うけど、そのすべてに対して「開かれてる」って感じがするのよ。ミーハーなファンもコアなファンもマニアックなファンも、音楽に詳しい人もそうじゃない人も、ひょっとしたら、あゆ(更には音楽)に特に興味がない人にさえも、すべてに対して「開かれてる」って感じがするのよ。「人を選んでない」っていうか。そして、そこが素晴らしいと思うわけよ。それこそが、音楽だと思うわけよ。
その、あゆの持つ「大衆性」って、日本で第一線で活躍してる人の中では、ちょっと他にいないんじゃないか?って思っちゃうんだよね。例えば、他の多くのアーティストって、外から見てみると、「好きな人は好きだろうね」みたいな感覚があるんだよなぁ。ファンとそうじゃない人との間に距離があるというか。だから、それを楽しむには、こっちから歩み寄らなくてはならないような。自分が「それを楽しむモード」=「ファンモード」に切り替える必要があるっていうか。
でも、あゆの場合、それがゼロとは言わないけれど、限りなくゼロに近いんじゃないか?って思えてくるんだよ。ファンとそうじゃない人との境界が曖昧っていうか。ファンじゃない人も見てるっていうか、ファンじゃない人にもアピールしている「何か」を感じるのよ。それは、ファンじゃない人からすれば、好みじゃないかも知れないし、嫌悪感(摩擦)を感じさせるものかも知れない。実際、私だって、あゆを嫌ってたわけだから。だけど、考えてみると、嫌うということ自体、私にとって珍しいことだったのよ。自分が好きな音楽か、そうじゃない音楽に対しては、嫌いとかじゃなく無関心だったからね。つまり、あゆには、ファンじゃない私にまで何らかの感情を抱かせるだけのものがあったわけだよ。それは、あゆが、ファンじゃない人も見てる、つまり、大衆的であろうとしているからだと思うんだよ(何度も言うけど、それはセールスの問題ではない)。そして、そこに私は強く惹かれたんだと思うんだ。
これは、視野の問題なのかな。なんだか、あゆの音楽を聴いていると、言語や好みの問題はあれど、この音楽が発してるものは、外国人にも伝わるんじゃないか?なんて思っちゃうんだよ。買い被り過ぎかな。夢見過ぎかな。でも、そうだとしても、そのくらいのことを思わせてくれる「何か」があるんだよ。
ああ、これについては、もう少しちゃんと書きたいな。今回は、あゆの話をする前で結構長くなっちゃったから、続きはまた今度にして、今回はこのへんでやめておきたいと思います。熱くなり過ぎててスミマセン(汗)。
もはや、「音楽」が「大衆的」である必要はないのかも知れない。ある程度ファンがいて、その中でやっていければ、「ビジネス」として成立するわけだから。「商業音楽」なのだから、「ビジネス」として成立しなければやっていけないのだし。私は音楽に夢を託し過ぎてるのかも知れない。時代遅れな青臭いことを言ってるのかも知れない。でもね、「ビジネス」として成立させながらも、それをやってのけた人だっていると思うんだ。
近田氏はこう書いていた。「私がこの国の音楽について、音楽をやっている人間についてたったひとつだけハッキリ問いたいのは、閉じようとしているのか、開こうとしているのか、そこだけである」――。「内輪受け」も確かに楽しい。それはそれで良いのかも知れないとも思う。でも私は、それを「ロック」とは呼びたくない。
続き → 「時代性の先にあるもの」
エレファントカシマシの宮本浩次は言った。宮本氏は浮世絵が好きなのだが、「俺が浮世絵好きだったのとかもさ、あんなものだってやってる人っていうのはすっげえ立場がもう低いんですよね。江戸時代の人ってみんな浮世絵見て喜んでるじゃない? もんのすごい大衆的」。かたや金屏風みたいなものがお芸術だったわけで、「で、今残ってるのはどっちですか、金屏風のお芸術ですか、浮世絵ですか、つったら浮世絵の方がさ、未だに心をつかんでむしろ芸術って言われちゃってるよな、あんなものが」と言っていた。
この話を思い出す度、「浜崎あゆみ」のことと重ねてしまう。
私があゆをカッコ良いなと思う理由のひとつに、「大衆的であろうとしてる」ってのがある。そして、私が音楽を素晴らしいなと思うのは、「大衆を巻き込むこと」ができるからだ。だって、人種も国籍も年齢も性別も、生活習慣も趣味も価値観も、あらゆるものが違う人達が、ひとつのものに夢中になる。そんなこと、まるで夢みたいじゃないか。国籍どころか、ごく身近な人とだって、些細なことで相容れなかったりするのに、音楽は、そんな夢みたいなことを、時にやってのけたりしてみせるんだ。
だけど最近、どうもそうじゃなくなってきてる気がしてならない。他の国のことはよく分からないから、日本での話をしてみることにする。
近田春夫の『考えるヒット』を読んでいて、ドキッとした言葉があった。日本の音楽(J-POP)について、「日本人にしか通用しない英語的なモノ」とあった。ああ、言われてしまった…と思った。私が抱いている「疑問」を見事に的中された気分。(『考えるヒット』は、あゆの『B & D』評に感激したので読み出したのですが、凄いですね! あゆの『B & D』評はあゆファン必読! あゆにも読んで欲しいな! もう読んでるかな?)
でもね、私は、もっと狭い範囲で同じようなことを感じてしまうのよ。近田氏は「日本人にしか通用しない」って書いてるけど、その「日本人」の中でも、もっと細かく分けられてるような気がしてならない。ジャンルとか年齢だけにとどまらず、「こういう音楽(アーティスト)が好きな人」っていう枠みたいのが知らない間に用意されてて、アーティストもリスナーも、知らない間にその枠におさまってる、おさめられてるって気がしてならない。皆、その上で楽しんでる。ひとつの枠におさまり切らない人もいるだろうけど、その都度、枠に入って楽しんでる感じ? 変に争いごとを好まないというか、枠を飛び出そうとしない感じ? いや、アーティストもリスナーもそんなにバカ(あるいは利口)じゃないとも思うけど、どうにもこうにも日本の音楽に「内輪受け」な匂いを感じてしまうことがあるのは私だけ? もちろん自戒も込めて言ってるよ。なんか、もっともっと「摩擦」があっても良いのになぁって思う。というか、「摩擦」のなさに、なんかおかしいなぁって違和感を感じてしまったりする。私は、日本のアーティストにも大好きな人がいるし、洋楽ファンの人が邦楽を軽視してたりするととても悔しいんだけど、でも、洋楽ファンの人が邦楽を物足りないというのも、分かる気がしてしまう。
簡単に言うと、「閉じてるなぁ」って感じてしまうのよ。さっきも言ったように、私が音楽を素晴らしいなと思うのは、大衆を巻き込むことができるからで、だから、音楽は「開かれた」ものであって欲しいと思ってる。ただ、ここでハッキリ言っておきたいのは、「大衆的なもの」=「売れてるもの」と言ってるわけじゃないってこと。だから、あゆが「大衆的であろうとしてるからカッコ良い」っていうのは「売れてるからカッコ良い」って言ってるわけじゃない。だって、それなら、他の売れてるアーティスト、例えばB’zとかミスチルとか宇多田ヒカルとかだって、良いわけじゃん。でも私は、彼らを「大衆的であろうとしてる」、つまり、「開かれてる」とは感じられないの。逆に、そういう人達よりは売れてないけれども、「開かれてる」と感じる音楽はある。むしろ、売れれば売れるほど、「開く」のは難しくなってくるんじゃないかと感じてるくらい。だから、「規模」じゃないのよ。セールスがどのくらいであろうと、開かれてる音楽は開かれてるし、閉じてる音楽はやっぱり閉じてるんだと思う。どんなに売れていても、その音楽が閉じてるのであれば、それは規模が大きいだけであって、真の意味で「大衆的である」とは言えないと思う。だから、ここでは、「大衆的」=「開かれてる」ってことで話を進めていきたい。
何をもって「開かれてる」とするか。そこが難しいと思うんだけど、誤解しないで欲しいのは、例えば、シロップなんかは、寒気がするくらいに閉じた内容を歌ってたりする。エレカシだって、強烈に閉じこもったことを歌ってたりする。でも私は、それを聴いて「閉じてるなぁ」とは感じないのよ。あゆだって「大衆的」と書いたけど、閉じこもった心情を歌ってたりするし。だから、インプットは何でも良いと思うんだよね。ただ、それが表現としてアウトプットされるときに、「開かれてる」かどうか。「そこ」なんだと思う。だから、どんなに開かれた内容を歌っていても、閉じてることはあると思うし、逆もまた然りで。そこの判断基準は感覚的なことで、結局は人それぞれってことになってしまうのかな。
でも、例えば、具体的に分かりやすい例で言うと、『紅白』とか『レコード大賞』とか、辞退する人いるじゃん。あれ、私にはよく分からないんだよね。その人なりの考えがあるんだろうし、その人の自由だとは思うよ。それ以外にも色々な事情があるのかも知れない。でも私は、申し訳ないけど、心のどっかに「疑問」が残っちゃうな。別に私は紅白のファンじゃないよ。むしろ、ほとんど見なかったりする。でも、出る側がそれをしてどうする? 辞退する人達の理由とかそれ以外の事情とかよく知らないから、勝手なこと言わせてもらうけど、例えば、もし、紅白に魅力を感じないから出ないというのであれば、お前がそんなこと言ってるから紅白の魅力が減っていくんだろー!って言いたくなるよ。紅白なんてダサいから出てらんないとかだったら、はぁ?って感じ。紅白がダサかろうが何だろうが、お前の音楽はダサくないんだろ? だったら、お前が出ている5分かそこらの時間だけ、紅白を変えてやれば良いじゃないか! なんかね、自信がないのかなって思っちゃうんだよ。コントや芝居をやれってんじゃないんだから、自分の音楽に自信があるなら、出ていけば良いのに。そんなんで「日本の音楽を変えてやる!」とか言われた日には……。
番組の方針に納得がいかないとか、紅白に出る意味を感じないとか、まぁ、気持ちも分からなくもないよ。紅白のために活動してるわけじゃないだろうしね。だけどさぁ、最近、視聴者に「出演して欲しい人」ってアンケートやったじゃん。そういうので選ばれてるのにも関わらず辞退する人ってのは、その「選んでくれた人」に対して、どう思ってんのか聞いてみたい。紅白はどうでも良かったとしても、あなたの音楽はそういう「選んでくれた人」に支えられてるんじゃないの? そういう人達に届けてるんじゃないの? あなたの音楽を求めてる人がそこにいるのに、それよりも先に優先するものって何なんだろう。ああ、私にはやっぱりよく分からないや。
はたして、今の日本で、「音楽」は、「浮世絵」なのか「金屏風」なのか。それとも、そのどちらにもなれないのか――。
というわけで、やっとこさ、「浜崎あゆみ」の話をしたいと思う。
私、あゆの音楽からは、「内輪受け」な匂い、感じないんだよねぇ。それはもう不思議なくらいに。「(miss)understood TOUR ~1回目~」で「開かれてる」って書いたけど、言いたかったのはそういうことで。つまり、私があゆに期待していることは、ズバリそのまま私が音楽に期待していることと同じで、「大衆を巻き込むこと」なの。
例えば、あゆに対して、顔が可愛いからって理由だけで興味を持った人、ファッションとかビジュアル面から興味を持った人、キャラクターや生き方に惹かれた人、歌詞に共感した人、音楽に惹き付けられた人、色々な人がいると思うけど、そのすべてに対して「開かれてる」って感じがするのよ。ミーハーなファンもコアなファンもマニアックなファンも、音楽に詳しい人もそうじゃない人も、ひょっとしたら、あゆ(更には音楽)に特に興味がない人にさえも、すべてに対して「開かれてる」って感じがするのよ。「人を選んでない」っていうか。そして、そこが素晴らしいと思うわけよ。それこそが、音楽だと思うわけよ。
その、あゆの持つ「大衆性」って、日本で第一線で活躍してる人の中では、ちょっと他にいないんじゃないか?って思っちゃうんだよね。例えば、他の多くのアーティストって、外から見てみると、「好きな人は好きだろうね」みたいな感覚があるんだよなぁ。ファンとそうじゃない人との間に距離があるというか。だから、それを楽しむには、こっちから歩み寄らなくてはならないような。自分が「それを楽しむモード」=「ファンモード」に切り替える必要があるっていうか。
でも、あゆの場合、それがゼロとは言わないけれど、限りなくゼロに近いんじゃないか?って思えてくるんだよ。ファンとそうじゃない人との境界が曖昧っていうか。ファンじゃない人も見てるっていうか、ファンじゃない人にもアピールしている「何か」を感じるのよ。それは、ファンじゃない人からすれば、好みじゃないかも知れないし、嫌悪感(摩擦)を感じさせるものかも知れない。実際、私だって、あゆを嫌ってたわけだから。だけど、考えてみると、嫌うということ自体、私にとって珍しいことだったのよ。自分が好きな音楽か、そうじゃない音楽に対しては、嫌いとかじゃなく無関心だったからね。つまり、あゆには、ファンじゃない私にまで何らかの感情を抱かせるだけのものがあったわけだよ。それは、あゆが、ファンじゃない人も見てる、つまり、大衆的であろうとしているからだと思うんだよ(何度も言うけど、それはセールスの問題ではない)。そして、そこに私は強く惹かれたんだと思うんだ。
これは、視野の問題なのかな。なんだか、あゆの音楽を聴いていると、言語や好みの問題はあれど、この音楽が発してるものは、外国人にも伝わるんじゃないか?なんて思っちゃうんだよ。買い被り過ぎかな。夢見過ぎかな。でも、そうだとしても、そのくらいのことを思わせてくれる「何か」があるんだよ。
ああ、これについては、もう少しちゃんと書きたいな。今回は、あゆの話をする前で結構長くなっちゃったから、続きはまた今度にして、今回はこのへんでやめておきたいと思います。熱くなり過ぎててスミマセン(汗)。
もはや、「音楽」が「大衆的」である必要はないのかも知れない。ある程度ファンがいて、その中でやっていければ、「ビジネス」として成立するわけだから。「商業音楽」なのだから、「ビジネス」として成立しなければやっていけないのだし。私は音楽に夢を託し過ぎてるのかも知れない。時代遅れな青臭いことを言ってるのかも知れない。でもね、「ビジネス」として成立させながらも、それをやってのけた人だっていると思うんだ。
近田氏はこう書いていた。「私がこの国の音楽について、音楽をやっている人間についてたったひとつだけハッキリ問いたいのは、閉じようとしているのか、開こうとしているのか、そこだけである」――。「内輪受け」も確かに楽しい。それはそれで良いのかも知れないとも思う。でも私は、それを「ロック」とは呼びたくない。
続き → 「時代性の先にあるもの」
ホントお久ですm(。。)m 励ましありがとうでした!!!
少し復活してきたので、また宜しくです(^^)v
少し復活してきたとのことで、良かったです。
お互い、無理せず、マイペースでいきたいですね!
ネットだってブログだって何だって、楽しむためにあるんだし♪
ayuの音楽が大衆的って考え、なんとなく理解できました!!僕たまにayuが
Mステとかに出演したときにブログを検索して、ayuの曲を聴いた人の
感想を読んでるんですよ。そうすると全ての人がファンという訳では
ないので批判的に書かれてることも多いんです。でもこれって
よくよく考えてみると葉っぱさんのいう「大衆的」なんじゃない
かなって思ったんです。ファンじゃなかったら、わざわざ
時間をさいて記事を書く必要なんてないのに書いてしまう。
なんというか人を素通りさせないパワーがayuにはあるんですかねぇ^^
あゆファンの方に共感してもらえて、凄く嬉しいです!
そうなんですよね。特にあゆファンじゃない人でも、あゆに対して何らかの認識なり意見なり解釈なりを持ってたりして、たとえそれが私からすると「え?」って言いたくなるような解釈であっても(笑)、あゆの影響力の強さを感じます。ただ名前を知ってるっていうのを超えてる感じなんですよね。しかもそれが一時のブームで終わってないところが凄い。
「ファンじゃない人も見てる」っていうと、「世間に媚びてる」だとか「売れ線狙い」だとか言う人もいるかも知れないけど、あゆの場合、それを超えてると思うんですよね。つまり、「世間に媚びてる」のではなく、「世間と向き合ってる」。「ファンを見る」=ファンにアピールできるのは、当たり前といえば当たり前の話で、そこに逃げてしまうのは、「ファン思い」に見えて、実は楽だったりするんですよね。それはそれで良いのかも知れないけど、あゆはそれをしたがらないって感じですよね。じゃなかったら、「B & D」のような曲を出したりしないですよね!
ファンって言ったって、突き詰めていけば、「顔が見えない」わけだから、そこに寄りかかるのではなく、かといって諦めるのでもなく、「フェイス・トゥ・フェイス」の表現をしようとしてるって感じが私はします。でも、それは時に、「ついていけなくなる人」も出てきてしまうのかな。でも、でも、声を大にして言いたいのは、それこそ一番の「ファンとの向き合い方」、そして、「音楽との向き合い方」だと思うってことです。だって、それは、ファン、そして、音楽を、そこまで信じてるってことだもん! 何より私は、「B & D」に、あゆの、ファン、そして、音楽への多大なる愛情を感じました! 「ついていくぞ!」って思いました(^^)
って、またまた熱くなってしまいました~。この話は、もうちょっと続きを書きたいと思ってるところなんです。今回コメントに書いたこととダブってしまうかも知れないけど、良かったらまた読んで下さいね。
大衆的なものは、とかくリアルタイムでは軽視されがちだけど、ビートルズだって美空ひばりだって、私はリアルタイムではないけれど、めちゃめちゃ大衆的だったはずです! そう、あゆが敬愛するマドンナだってね! 最後に大きく出ちゃいました~(笑)。
答しているのよ。
例えば、あたしはかつて林檎ちゃんのことを「貴方は
常に大衆音楽家だ」と讃えたんだよ。同じ様に、aiko
を絶賛していたんだよ。それは嘘じゃない。
でもね、ファンと共に歳を重ねて行くって匂いを感じ
た時に、萎えた。そーゆーのがダメだとは言えないけ
ど、あたしには無理だった。
あたしは、ビートルズに逢いたかったんだよ。どう
なっちゃうのかわからない、ハラハラドキドキさせて
くれる「アイドル」が、欲しかったんだ。
マドンナこそが、現在最もビートリーだと言い続けて
いますけど、来日公演の同時刻に片瀬のイベントが
あったなら、あたしは迷わず片瀬を選びます。(断
言)
かつて、未亜は「同じ日にライブが重なったら(例え
林檎でも)aikoを選ぶんじゃないかな。こうした気持
ちを言葉にするのは、難しい。大体、同じ日に片瀬の
サイン会があったら、そっちを選びかねないわけだし
ね。」(2002-5)と、ぬるいことを書いていたな。だ
から未亜はダメなんだよ。
あれ?何を言いたいのか、忘れちゃったわよ。
私は、林檎ちゃんに出会って、一気に邦楽を聴くようになった。そのときは自覚してなかったけど、きっとその「開かれた音楽」に心トキメいたんだと思う(本当はそこにエレカシも出てくるんだけど)。そして、林檎ちゃんが東京事変を始めて思ったことは、「ああ、降りちゃったんだな」ってことだと思うんだ。
「閉じてる」とか「人を選んでる」とか感じてしまうと、きっと私は、真っ先に自分は「選ばれない」んじゃないかと思ってしまうような人間だと思うの。
別にね、じゃあ、変化していけばそれで良いのかと言われればそうじゃないと思うし、ずっと同じようなことをやり続けているのがダメなのかと言ったらそうじゃないと思うんだ。ただ、ドキドキしたいんだと思う。で、そのためにはきっと、やってる人がドキドキしてなきゃ、ダメなんだと思う。
イコちゃんが、「厄介なテーマ。常々自問自答」って書いてくれたけど、だから、それが好きなんだと思うよ結局。いや、好きというより、ただ単にそれが私を突き動かしてるんだと思う。だから、そこに立ち向かってる人がどうしようもなく好きなのかな。それはすごく面倒くさいかも知れないけど、その面倒くさい自問自答が音楽に昇華されたのを感じたときに、心動かされるんだと思う。そのためには、絶対に、自分自身とか音楽とかファンとか社会とか、よく分からないけど、そういったあらゆるもの全てを一旦疑ってみせる、その「疑問」のやり取りがなくちゃいけないと思うんだよなぁ。
つづく
ああ、やっぱり、うまく言えないし、結論は出ないね。でも、やっぱり思ったのは、「ああ、分からないから、こんなに好きなんだな」ってこと。今の林檎ちゃんとかは、なんか「分かってしまう」、それがダメなんだと思う。あゆは、「分からないから、ずっと歌っているんだと思う。答えがあるなら、それはもう歌わないと思う」って言ってて、なんか、ジーンと来たな。やっぱ、「分からない」アーティストや音楽が好きなんだと思う。人一倍「分かりたい」くせに、「分からない」のが好きなんだよ(笑)。しょーもないねコレ。
だって、音楽なんて分からないもん。なんで歌なんて歌うのよ? なんで野菜を育てるのかは分かるけど、音楽は野菜とは絶対に違うんだから。「そこ」を忘れちゃいけないと思う。だから、その「分からなさ」に立ち向かってる人が好きなんだろうなぁ。
大体さ、「開かれた洋楽」に心トキメいたくせに、自分の国の音楽に対しては、「開かれたもの」には冷たくて、「閉じたもの」に優しいってこれ、どういうことよ? 仕舞いには怒るよ私。あ、もう怒ってるか。あっははー。