「やっぱ大衆音楽っていうかさ、大衆的なものが一番カッコいい」
エレファントカシマシの宮本浩次は言った。宮本氏は浮世絵が好きなのだが、「俺が浮世絵好きだったのとかもさ、あんなものだってやってる人っていうのはすっげえ立場がもう低いんですよね。江戸時代の人ってみんな浮世絵見て喜んでるじゃない? もんのすごい大衆的」。かたや金屏風みたいなものがお芸術だったわけで、「で、今残ってるのはどっちですか、金屏風のお芸術ですか、浮世絵ですか、つったら浮世絵の方がさ、未だに心をつかんでむしろ芸術って言われちゃってるよな、あんなものが」と言っていた。
この話を思い出す度、「浜崎あゆみ」のことと重ねてしまう。
私があゆをカッコ良いなと思う理由のひとつに、「大衆的であろうとしてる」ってのがある。そして、私が音楽を素晴らしいなと思うのは、「大衆を巻き込むこと」ができるからだ。だって、人種も国籍も年齢も性別も、生活習慣も趣味も価値観も、あらゆるものが違う人達が、ひとつのものに夢中になる。そんなこと、まるで夢みたいじゃないか。国籍どころか、ごく身近な人とだって、些細なことで相容れなかったりするのに、音楽は、そんな夢みたいなことを、時にやってのけたりしてみせるんだ。
だけど最近、どうもそうじゃなくなってきてる気がしてならない。他の国のことはよく分からないから、日本での話をしてみることにする。
近田春夫の『考えるヒット』を読んでいて、ドキッとした言葉があった。日本の音楽(J-POP)について、「日本人にしか通用しない英語的なモノ」とあった。ああ、言われてしまった…と思った。私が抱いている「疑問」を見事に的中された気分。(『考えるヒット』は、あゆの『B & D』評に感激したので読み出したのですが、凄いですね! あゆの『B & D』評はあゆファン必読! あゆにも読んで欲しいな! もう読んでるかな?)
でもね、私は、もっと狭い範囲で同じようなことを感じてしまうのよ。近田氏は「日本人にしか通用しない」って書いてるけど、その「日本人」の中でも、もっと細かく分けられてるような気がしてならない。ジャンルとか年齢だけにとどまらず、「こういう音楽(アーティスト)が好きな人」っていう枠みたいのが知らない間に用意されてて、アーティストもリスナーも、知らない間にその枠におさまってる、おさめられてるって気がしてならない。皆、その上で楽しんでる。ひとつの枠におさまり切らない人もいるだろうけど、その都度、枠に入って楽しんでる感じ? 変に争いごとを好まないというか、枠を飛び出そうとしない感じ? いや、アーティストもリスナーもそんなにバカ(あるいは利口)じゃないとも思うけど、どうにもこうにも日本の音楽に「内輪受け」な匂いを感じてしまうことがあるのは私だけ? もちろん自戒も込めて言ってるよ。なんか、もっともっと「摩擦」があっても良いのになぁって思う。というか、「摩擦」のなさに、なんかおかしいなぁって違和感を感じてしまったりする。私は、日本のアーティストにも大好きな人がいるし、洋楽ファンの人が邦楽を軽視してたりするととても悔しいんだけど、でも、洋楽ファンの人が邦楽を物足りないというのも、分かる気がしてしまう。
簡単に言うと、「閉じてるなぁ」って感じてしまうのよ。さっきも言ったように、私が音楽を素晴らしいなと思うのは、大衆を巻き込むことができるからで、だから、音楽は「開かれた」ものであって欲しいと思ってる。ただ、ここでハッキリ言っておきたいのは、「大衆的なもの」=「売れてるもの」と言ってるわけじゃないってこと。だから、あゆが「大衆的であろうとしてるからカッコ良い」っていうのは「売れてるからカッコ良い」って言ってるわけじゃない。だって、それなら、他の売れてるアーティスト、例えばB’zとかミスチルとか宇多田ヒカルとかだって、良いわけじゃん。でも私は、彼らを「大衆的であろうとしてる」、つまり、「開かれてる」とは感じられないの。逆に、そういう人達よりは売れてないけれども、「開かれてる」と感じる音楽はある。むしろ、売れれば売れるほど、「開く」のは難しくなってくるんじゃないかと感じてるくらい。だから、「規模」じゃないのよ。セールスがどのくらいであろうと、開かれてる音楽は開かれてるし、閉じてる音楽はやっぱり閉じてるんだと思う。どんなに売れていても、その音楽が閉じてるのであれば、それは規模が大きいだけであって、真の意味で「大衆的である」とは言えないと思う。だから、ここでは、「大衆的」=「開かれてる」ってことで話を進めていきたい。
何をもって「開かれてる」とするか。そこが難しいと思うんだけど、誤解しないで欲しいのは、例えば、シロップなんかは、寒気がするくらいに閉じた内容を歌ってたりする。エレカシだって、強烈に閉じこもったことを歌ってたりする。でも私は、それを聴いて「閉じてるなぁ」とは感じないのよ。あゆだって「大衆的」と書いたけど、閉じこもった心情を歌ってたりするし。だから、インプットは何でも良いと思うんだよね。ただ、それが表現としてアウトプットされるときに、「開かれてる」かどうか。「そこ」なんだと思う。だから、どんなに開かれた内容を歌っていても、閉じてることはあると思うし、逆もまた然りで。そこの判断基準は感覚的なことで、結局は人それぞれってことになってしまうのかな。
でも、例えば、具体的に分かりやすい例で言うと、『紅白』とか『レコード大賞』とか、辞退する人いるじゃん。あれ、私にはよく分からないんだよね。その人なりの考えがあるんだろうし、その人の自由だとは思うよ。それ以外にも色々な事情があるのかも知れない。でも私は、申し訳ないけど、心のどっかに「疑問」が残っちゃうな。別に私は紅白のファンじゃないよ。むしろ、ほとんど見なかったりする。でも、出る側がそれをしてどうする? 辞退する人達の理由とかそれ以外の事情とかよく知らないから、勝手なこと言わせてもらうけど、例えば、もし、紅白に魅力を感じないから出ないというのであれば、お前がそんなこと言ってるから紅白の魅力が減っていくんだろー!って言いたくなるよ。紅白なんてダサいから出てらんないとかだったら、はぁ?って感じ。紅白がダサかろうが何だろうが、お前の音楽はダサくないんだろ? だったら、お前が出ている5分かそこらの時間だけ、紅白を変えてやれば良いじゃないか! なんかね、自信がないのかなって思っちゃうんだよ。コントや芝居をやれってんじゃないんだから、自分の音楽に自信があるなら、出ていけば良いのに。そんなんで「日本の音楽を変えてやる!」とか言われた日には……。
番組の方針に納得がいかないとか、紅白に出る意味を感じないとか、まぁ、気持ちも分からなくもないよ。紅白のために活動してるわけじゃないだろうしね。だけどさぁ、最近、視聴者に「出演して欲しい人」ってアンケートやったじゃん。そういうので選ばれてるのにも関わらず辞退する人ってのは、その「選んでくれた人」に対して、どう思ってんのか聞いてみたい。紅白はどうでも良かったとしても、あなたの音楽はそういう「選んでくれた人」に支えられてるんじゃないの? そういう人達に届けてるんじゃないの? あなたの音楽を求めてる人がそこにいるのに、それよりも先に優先するものって何なんだろう。ああ、私にはやっぱりよく分からないや。
はたして、今の日本で、「音楽」は、「浮世絵」なのか「金屏風」なのか。それとも、そのどちらにもなれないのか――。
というわけで、やっとこさ、「浜崎あゆみ」の話をしたいと思う。
私、あゆの音楽からは、「内輪受け」な匂い、感じないんだよねぇ。それはもう不思議なくらいに。「(miss)understood TOUR ~1回目~」で「開かれてる」って書いたけど、言いたかったのはそういうことで。つまり、私があゆに期待していることは、ズバリそのまま私が音楽に期待していることと同じで、「大衆を巻き込むこと」なの。
例えば、あゆに対して、顔が可愛いからって理由だけで興味を持った人、ファッションとかビジュアル面から興味を持った人、キャラクターや生き方に惹かれた人、歌詞に共感した人、音楽に惹き付けられた人、色々な人がいると思うけど、そのすべてに対して「開かれてる」って感じがするのよ。ミーハーなファンもコアなファンもマニアックなファンも、音楽に詳しい人もそうじゃない人も、ひょっとしたら、あゆ(更には音楽)に特に興味がない人にさえも、すべてに対して「開かれてる」って感じがするのよ。「人を選んでない」っていうか。そして、そこが素晴らしいと思うわけよ。それこそが、音楽だと思うわけよ。
その、あゆの持つ「大衆性」って、日本で第一線で活躍してる人の中では、ちょっと他にいないんじゃないか?って思っちゃうんだよね。例えば、他の多くのアーティストって、外から見てみると、「好きな人は好きだろうね」みたいな感覚があるんだよなぁ。ファンとそうじゃない人との間に距離があるというか。だから、それを楽しむには、こっちから歩み寄らなくてはならないような。自分が「それを楽しむモード」=「ファンモード」に切り替える必要があるっていうか。
でも、あゆの場合、それがゼロとは言わないけれど、限りなくゼロに近いんじゃないか?って思えてくるんだよ。ファンとそうじゃない人との境界が曖昧っていうか。ファンじゃない人も見てるっていうか、ファンじゃない人にもアピールしている「何か」を感じるのよ。それは、ファンじゃない人からすれば、好みじゃないかも知れないし、嫌悪感(摩擦)を感じさせるものかも知れない。実際、私だって、あゆを嫌ってたわけだから。だけど、考えてみると、嫌うということ自体、私にとって珍しいことだったのよ。自分が好きな音楽か、そうじゃない音楽に対しては、嫌いとかじゃなく無関心だったからね。つまり、あゆには、ファンじゃない私にまで何らかの感情を抱かせるだけのものがあったわけだよ。それは、あゆが、ファンじゃない人も見てる、つまり、大衆的であろうとしているからだと思うんだよ(何度も言うけど、それはセールスの問題ではない)。そして、そこに私は強く惹かれたんだと思うんだ。
これは、視野の問題なのかな。なんだか、あゆの音楽を聴いていると、言語や好みの問題はあれど、この音楽が発してるものは、外国人にも伝わるんじゃないか?なんて思っちゃうんだよ。買い被り過ぎかな。夢見過ぎかな。でも、そうだとしても、そのくらいのことを思わせてくれる「何か」があるんだよ。
ああ、これについては、もう少しちゃんと書きたいな。今回は、あゆの話をする前で結構長くなっちゃったから、続きはまた今度にして、今回はこのへんでやめておきたいと思います。熱くなり過ぎててスミマセン(汗)。
もはや、「音楽」が「大衆的」である必要はないのかも知れない。ある程度ファンがいて、その中でやっていければ、「ビジネス」として成立するわけだから。「商業音楽」なのだから、「ビジネス」として成立しなければやっていけないのだし。私は音楽に夢を託し過ぎてるのかも知れない。時代遅れな青臭いことを言ってるのかも知れない。でもね、「ビジネス」として成立させながらも、それをやってのけた人だっていると思うんだ。
近田氏はこう書いていた。「私がこの国の音楽について、音楽をやっている人間についてたったひとつだけハッキリ問いたいのは、閉じようとしているのか、開こうとしているのか、そこだけである」――。「内輪受け」も確かに楽しい。それはそれで良いのかも知れないとも思う。でも私は、それを「ロック」とは呼びたくない。
続き → 「時代性の先にあるもの」
エレファントカシマシの宮本浩次は言った。宮本氏は浮世絵が好きなのだが、「俺が浮世絵好きだったのとかもさ、あんなものだってやってる人っていうのはすっげえ立場がもう低いんですよね。江戸時代の人ってみんな浮世絵見て喜んでるじゃない? もんのすごい大衆的」。かたや金屏風みたいなものがお芸術だったわけで、「で、今残ってるのはどっちですか、金屏風のお芸術ですか、浮世絵ですか、つったら浮世絵の方がさ、未だに心をつかんでむしろ芸術って言われちゃってるよな、あんなものが」と言っていた。
この話を思い出す度、「浜崎あゆみ」のことと重ねてしまう。
私があゆをカッコ良いなと思う理由のひとつに、「大衆的であろうとしてる」ってのがある。そして、私が音楽を素晴らしいなと思うのは、「大衆を巻き込むこと」ができるからだ。だって、人種も国籍も年齢も性別も、生活習慣も趣味も価値観も、あらゆるものが違う人達が、ひとつのものに夢中になる。そんなこと、まるで夢みたいじゃないか。国籍どころか、ごく身近な人とだって、些細なことで相容れなかったりするのに、音楽は、そんな夢みたいなことを、時にやってのけたりしてみせるんだ。
だけど最近、どうもそうじゃなくなってきてる気がしてならない。他の国のことはよく分からないから、日本での話をしてみることにする。
近田春夫の『考えるヒット』を読んでいて、ドキッとした言葉があった。日本の音楽(J-POP)について、「日本人にしか通用しない英語的なモノ」とあった。ああ、言われてしまった…と思った。私が抱いている「疑問」を見事に的中された気分。(『考えるヒット』は、あゆの『B & D』評に感激したので読み出したのですが、凄いですね! あゆの『B & D』評はあゆファン必読! あゆにも読んで欲しいな! もう読んでるかな?)
でもね、私は、もっと狭い範囲で同じようなことを感じてしまうのよ。近田氏は「日本人にしか通用しない」って書いてるけど、その「日本人」の中でも、もっと細かく分けられてるような気がしてならない。ジャンルとか年齢だけにとどまらず、「こういう音楽(アーティスト)が好きな人」っていう枠みたいのが知らない間に用意されてて、アーティストもリスナーも、知らない間にその枠におさまってる、おさめられてるって気がしてならない。皆、その上で楽しんでる。ひとつの枠におさまり切らない人もいるだろうけど、その都度、枠に入って楽しんでる感じ? 変に争いごとを好まないというか、枠を飛び出そうとしない感じ? いや、アーティストもリスナーもそんなにバカ(あるいは利口)じゃないとも思うけど、どうにもこうにも日本の音楽に「内輪受け」な匂いを感じてしまうことがあるのは私だけ? もちろん自戒も込めて言ってるよ。なんか、もっともっと「摩擦」があっても良いのになぁって思う。というか、「摩擦」のなさに、なんかおかしいなぁって違和感を感じてしまったりする。私は、日本のアーティストにも大好きな人がいるし、洋楽ファンの人が邦楽を軽視してたりするととても悔しいんだけど、でも、洋楽ファンの人が邦楽を物足りないというのも、分かる気がしてしまう。
簡単に言うと、「閉じてるなぁ」って感じてしまうのよ。さっきも言ったように、私が音楽を素晴らしいなと思うのは、大衆を巻き込むことができるからで、だから、音楽は「開かれた」ものであって欲しいと思ってる。ただ、ここでハッキリ言っておきたいのは、「大衆的なもの」=「売れてるもの」と言ってるわけじゃないってこと。だから、あゆが「大衆的であろうとしてるからカッコ良い」っていうのは「売れてるからカッコ良い」って言ってるわけじゃない。だって、それなら、他の売れてるアーティスト、例えばB’zとかミスチルとか宇多田ヒカルとかだって、良いわけじゃん。でも私は、彼らを「大衆的であろうとしてる」、つまり、「開かれてる」とは感じられないの。逆に、そういう人達よりは売れてないけれども、「開かれてる」と感じる音楽はある。むしろ、売れれば売れるほど、「開く」のは難しくなってくるんじゃないかと感じてるくらい。だから、「規模」じゃないのよ。セールスがどのくらいであろうと、開かれてる音楽は開かれてるし、閉じてる音楽はやっぱり閉じてるんだと思う。どんなに売れていても、その音楽が閉じてるのであれば、それは規模が大きいだけであって、真の意味で「大衆的である」とは言えないと思う。だから、ここでは、「大衆的」=「開かれてる」ってことで話を進めていきたい。
何をもって「開かれてる」とするか。そこが難しいと思うんだけど、誤解しないで欲しいのは、例えば、シロップなんかは、寒気がするくらいに閉じた内容を歌ってたりする。エレカシだって、強烈に閉じこもったことを歌ってたりする。でも私は、それを聴いて「閉じてるなぁ」とは感じないのよ。あゆだって「大衆的」と書いたけど、閉じこもった心情を歌ってたりするし。だから、インプットは何でも良いと思うんだよね。ただ、それが表現としてアウトプットされるときに、「開かれてる」かどうか。「そこ」なんだと思う。だから、どんなに開かれた内容を歌っていても、閉じてることはあると思うし、逆もまた然りで。そこの判断基準は感覚的なことで、結局は人それぞれってことになってしまうのかな。
でも、例えば、具体的に分かりやすい例で言うと、『紅白』とか『レコード大賞』とか、辞退する人いるじゃん。あれ、私にはよく分からないんだよね。その人なりの考えがあるんだろうし、その人の自由だとは思うよ。それ以外にも色々な事情があるのかも知れない。でも私は、申し訳ないけど、心のどっかに「疑問」が残っちゃうな。別に私は紅白のファンじゃないよ。むしろ、ほとんど見なかったりする。でも、出る側がそれをしてどうする? 辞退する人達の理由とかそれ以外の事情とかよく知らないから、勝手なこと言わせてもらうけど、例えば、もし、紅白に魅力を感じないから出ないというのであれば、お前がそんなこと言ってるから紅白の魅力が減っていくんだろー!って言いたくなるよ。紅白なんてダサいから出てらんないとかだったら、はぁ?って感じ。紅白がダサかろうが何だろうが、お前の音楽はダサくないんだろ? だったら、お前が出ている5分かそこらの時間だけ、紅白を変えてやれば良いじゃないか! なんかね、自信がないのかなって思っちゃうんだよ。コントや芝居をやれってんじゃないんだから、自分の音楽に自信があるなら、出ていけば良いのに。そんなんで「日本の音楽を変えてやる!」とか言われた日には……。
番組の方針に納得がいかないとか、紅白に出る意味を感じないとか、まぁ、気持ちも分からなくもないよ。紅白のために活動してるわけじゃないだろうしね。だけどさぁ、最近、視聴者に「出演して欲しい人」ってアンケートやったじゃん。そういうので選ばれてるのにも関わらず辞退する人ってのは、その「選んでくれた人」に対して、どう思ってんのか聞いてみたい。紅白はどうでも良かったとしても、あなたの音楽はそういう「選んでくれた人」に支えられてるんじゃないの? そういう人達に届けてるんじゃないの? あなたの音楽を求めてる人がそこにいるのに、それよりも先に優先するものって何なんだろう。ああ、私にはやっぱりよく分からないや。
はたして、今の日本で、「音楽」は、「浮世絵」なのか「金屏風」なのか。それとも、そのどちらにもなれないのか――。
というわけで、やっとこさ、「浜崎あゆみ」の話をしたいと思う。
私、あゆの音楽からは、「内輪受け」な匂い、感じないんだよねぇ。それはもう不思議なくらいに。「(miss)understood TOUR ~1回目~」で「開かれてる」って書いたけど、言いたかったのはそういうことで。つまり、私があゆに期待していることは、ズバリそのまま私が音楽に期待していることと同じで、「大衆を巻き込むこと」なの。
例えば、あゆに対して、顔が可愛いからって理由だけで興味を持った人、ファッションとかビジュアル面から興味を持った人、キャラクターや生き方に惹かれた人、歌詞に共感した人、音楽に惹き付けられた人、色々な人がいると思うけど、そのすべてに対して「開かれてる」って感じがするのよ。ミーハーなファンもコアなファンもマニアックなファンも、音楽に詳しい人もそうじゃない人も、ひょっとしたら、あゆ(更には音楽)に特に興味がない人にさえも、すべてに対して「開かれてる」って感じがするのよ。「人を選んでない」っていうか。そして、そこが素晴らしいと思うわけよ。それこそが、音楽だと思うわけよ。
その、あゆの持つ「大衆性」って、日本で第一線で活躍してる人の中では、ちょっと他にいないんじゃないか?って思っちゃうんだよね。例えば、他の多くのアーティストって、外から見てみると、「好きな人は好きだろうね」みたいな感覚があるんだよなぁ。ファンとそうじゃない人との間に距離があるというか。だから、それを楽しむには、こっちから歩み寄らなくてはならないような。自分が「それを楽しむモード」=「ファンモード」に切り替える必要があるっていうか。
でも、あゆの場合、それがゼロとは言わないけれど、限りなくゼロに近いんじゃないか?って思えてくるんだよ。ファンとそうじゃない人との境界が曖昧っていうか。ファンじゃない人も見てるっていうか、ファンじゃない人にもアピールしている「何か」を感じるのよ。それは、ファンじゃない人からすれば、好みじゃないかも知れないし、嫌悪感(摩擦)を感じさせるものかも知れない。実際、私だって、あゆを嫌ってたわけだから。だけど、考えてみると、嫌うということ自体、私にとって珍しいことだったのよ。自分が好きな音楽か、そうじゃない音楽に対しては、嫌いとかじゃなく無関心だったからね。つまり、あゆには、ファンじゃない私にまで何らかの感情を抱かせるだけのものがあったわけだよ。それは、あゆが、ファンじゃない人も見てる、つまり、大衆的であろうとしているからだと思うんだよ(何度も言うけど、それはセールスの問題ではない)。そして、そこに私は強く惹かれたんだと思うんだ。
これは、視野の問題なのかな。なんだか、あゆの音楽を聴いていると、言語や好みの問題はあれど、この音楽が発してるものは、外国人にも伝わるんじゃないか?なんて思っちゃうんだよ。買い被り過ぎかな。夢見過ぎかな。でも、そうだとしても、そのくらいのことを思わせてくれる「何か」があるんだよ。
ああ、これについては、もう少しちゃんと書きたいな。今回は、あゆの話をする前で結構長くなっちゃったから、続きはまた今度にして、今回はこのへんでやめておきたいと思います。熱くなり過ぎててスミマセン(汗)。
もはや、「音楽」が「大衆的」である必要はないのかも知れない。ある程度ファンがいて、その中でやっていければ、「ビジネス」として成立するわけだから。「商業音楽」なのだから、「ビジネス」として成立しなければやっていけないのだし。私は音楽に夢を託し過ぎてるのかも知れない。時代遅れな青臭いことを言ってるのかも知れない。でもね、「ビジネス」として成立させながらも、それをやってのけた人だっていると思うんだ。
近田氏はこう書いていた。「私がこの国の音楽について、音楽をやっている人間についてたったひとつだけハッキリ問いたいのは、閉じようとしているのか、開こうとしているのか、そこだけである」――。「内輪受け」も確かに楽しい。それはそれで良いのかも知れないとも思う。でも私は、それを「ロック」とは呼びたくない。
続き → 「時代性の先にあるもの」