とある場所で、爆笑問題が色々な著名人と対談している本をたまたま手にする機会に恵まれた。適当にパラッパラッと見てて(糸井重里とかと対談していた)、何気なく気になって開いたページ、「島田雅彦」との対談。これが出会い。「作家」です。この対談を読みながら私は興奮してしまった。何がどうってわけでもなく、話の内容もちゃんと分かってなかったかも知れないけど、何て言うか、シンパシーを感じてしまったのだ。しかし、この人にシンパシー感じちゃって、私、良いのだろうか?(笑)
トドメがこれ。各対談の後に、その対談を爆笑問題の二人が振り返るのだけど、島田雅彦のことを「凄いことを言う割には、物凄い照れくさそうに話す人でしたね」と言っていたのだ。いや、「物凄い照れくさそうに話す割には、凄いことを言う人でしたね」だったかも。いずれにせよ、この「照れくさそう」ってのが決め手! 照れくさそうな人ほど信用できる!?(私の場合) しかも、照れくさそうな割に、凄いことを言う! これ、私のハートを射止める大鉄則かも!? 逆に(?)、何ともないことを大げさに言うってのも有力です。(射止めたい方、参考までに…爆)。
まんまとハートを射止められた私は、もちろん、彼の作品が読みたいー!という気持ちで一杯になり、古本屋で『彼岸先生』と『僕は模造人間』を見つけ購入。まず、『彼岸先生』を読み終えた。
久々にドキドキしながら本を読んだ。私の解釈が合ってるとは限らないし、よく分かってないところもたくさんあると思うけど、でも、なんか、もう、そういうんじゃないのだ。フィーリングがもう、オーラがもう。たとえ私が分かってなくても、そんなの遥か彼方に飛び越えて、作者の気迫というか“命がけの祈り”が伝わってくるのだ。それは、どんな祈りかというと、「何をしたって生きられる」とか「何者であっても生きてゆける」とか、多分、そういうことだ。
ストーリーがどうと言うより、とにかく、そういう、血がググッと熱くなっちゃうような“命がけの祈り”を感じる文章が頻繁に出てくる。これは、ストーリーを読ませるものではなく、よりよく生きるために捧げられた“命がけの祈り”を届けるための物語なんだ。そのためには喜んで犠牲になる。ストーリーなんて忘れられても一向に構わない。人の記憶からは、ストーリーは何十年後かには消えてしまうかも知れないが、“祈り”は何百年後だってずっと残る。うん。うん。表現って本来そういうものだよね。そうか、私が読みたかったのはこれだったんだ。それは、あくまでも私にとってだけかも知れない。でも、それで良い。私の中でこの小説は死なない。
ここで凄いのは、よりよく生きるために捧げられた祈りが、結局は、「何をしたって生きられる」、「何者であっても生きてゆける」ということに辿り着いている点だ。「自分は何者であるか、何をして生きていこうかにこだわり過ぎるあまり、不自然な生き方を選ぶ羽目になった」、「『よく生きること』に執着しながら実は『うまく生きられない』とボヤいてばかりいた」そんな現代に生きるすべての人、とまでは言わないが、多くの人にこの祈りが届いたら良いなぁ。
例えば、この日記で私が書いてたようなことが、書きたかったであろうことが、書かれているような気さえしてしまった。恐れ多くも。
「一切をあれかこれかで分けられる者は生も死も輝かしいものにすることができるでしょう。しかし、あれかこれかを永遠に思い悩む私は結局、生からも死からも逃げ続けることしかできない。でもそれでいいのだとも思います」とか「私は自分に正直であるために生活の信条も理想も持たないのだ。時にはしたくないことも進んでする。もちろん、したいこともする。だからといって、何でもするわけではない。私は迷い続ける限り、自分に正直でいられるし、不安や苦痛と馴れ合っている限り、幸福でいられる男なのだ」とかは、「You say yes, I say no」の【前編】と【後編】を通して私が書きたかったことのような気もしてしまった。同じようなことを考えてる人がいるんだ!と嬉しくなってしまった。恐れ多くも。
でも、読みながら、不安にもなった。この物語は一体どこに私を連れてくんだろう?って。でも、それは、その小説と「魂の交流」ができてる証なんだろう。そして、最後は、なんと! 彼岸も此岸もあの世もこの世も来世も現世も何もかもごちゃ混ぜの世界に私を導いてしまった! 嘘も本当もフィクションもノンフィクションも何もかもがごちゃ混ぜの世界。凄いよ、これ。部屋にいながらにして、300円ぐらいで買った小説一冊で、こんなところまで連れてこられちゃうなんて。「どこまでが現実でどこまでが夢だったんだ?」みたいな「夢と現実の境界のあやふやさ」を訴えかけてくる小説とかは結構あるけど(そしてその面白さも否定しないが)、その先をいってる、それを繋げようとしている。“命がけの祈り”なんだ。そうだよ、そうだよ、だからこそ表現っていうか、表現がそれをしないでどうする?だよ。読んだ後に、「ここからここまでが現実で、ここからここまでが夢だったってことでしょう?」なんて言いながら友人と確認し合うなんて悲しい。その表現が悲しい。そんなことのために表現ってあるのだろうか。だって、表現なんだから、その中に「夢と現実の境界線」を引くこと自体、根本から矛盾しているでしょう? 最後は己自身も食ってしまいますよ? この中には、夢も現実も嘘も真もすべてがある。壮大なフィクションでありノンフィクションである。夢と現実の境界線を引くことも、あれかこれかを分けることもしなくて良い。「何をしたって生きられる」。「何者であっても生きてゆける」。
彼岸と此岸の狭間で生きるすべての人達に、あれかこれかを永遠に思い悩む(私のような…笑)すべての人達に、読んで欲しい。
「僕達はロマンティストであるくせにリアリストなんだよ。どっちかに片寄っていれば、こんなに胸が痛むことはないのに」――及川光博とリリーフランキーはよくこんなことを話していたそうだ。そんな人達に。
こっからは余談ですが、この本、グッとくる言葉が色々出てきたって書きましたが、特にエレカシとのリンクを勝手に感じて喜んでしまいました。ニーチェも出てくるし(エレカシ最新作『風』のブックレットにはニーチェの言葉が載っている)。それをちょこっと挙げてみたいと思います!
――でも、パパ、時間は一つだよ。
――違うな。そう思うのはおまえが誰かの都合で生かされてるってことだ。テレビやラジオを消してごらん。集団の意見を疑ってかかり、個人の呟きに耳を傾けてごらん。そうすればわかるよ。この世には様々な時間が流れてることがね。世界の支配者になろうとする者は時間を征服し、一つに統一しようとする。それはいけないことだ。文化っていうのは統一された時間に亀裂を生じさせることなんだ。おまえも自分の時間を生きろ。
これを読んだエレカシファンはきっと「勝利を目指すもの」を思い出すでしょう。<俺の時間を生きなきゃ なるまい>ってそのまんまだし。もしかしたら違う曲も…「個人の呟きに耳を傾けてごらん」なんて、言葉こそ違えどモロに…。「テレビやラジオを消してごらん」とか「化ケモノ青年」だったり(笑)。他にも“エレ歌詞”を感じるところはあったのだけど、どこにあったかとか細かく覚えてないから探すのが大変なのと、個人的思い入れが多分に入っているため挙げるとキリがないのとでやめておきます。しかし、爆笑問題との対談でも「100年後の人々の幸せを考えてるかどうかがポイント」というようなことが語られてて、それも「勝利を目指すもの」を思い出してしまいました。<その生き様が まだ見ぬ友へ 未来の人の“喜び”となるように 行かなきゃなるまい>とか<未来指向するもの>とか。だから、「勝利を目指すもの」、やってくれないかなぁ、次のライヴで!(それは関係ないか…笑)←そんなことがあったので余計に「勝利を目指すもの」がライヴで聴きたくなったのです。あ、「人間って何だ」の<未来の友へ、架け橋たる存在>ってのもそんな感じかも。まぁ、私の勝手な思い込みなんだけど。それに、その島田雅彦との対談のタイトルが、これまた「破壊と創造」だったんだもん。「JAPAN CIRCUIT -vol.20-」のエレカシのところで私が書いたのとリンク。島田雅彦と宮本浩次(エレカシ)って志が近いのかも~なんて思っちゃうよ、勝手に。スーパーマン(超人)を目指すしかあるまい!
爆笑問題よ、運命の出会いをありがとう。
トドメがこれ。各対談の後に、その対談を爆笑問題の二人が振り返るのだけど、島田雅彦のことを「凄いことを言う割には、物凄い照れくさそうに話す人でしたね」と言っていたのだ。いや、「物凄い照れくさそうに話す割には、凄いことを言う人でしたね」だったかも。いずれにせよ、この「照れくさそう」ってのが決め手! 照れくさそうな人ほど信用できる!?(私の場合) しかも、照れくさそうな割に、凄いことを言う! これ、私のハートを射止める大鉄則かも!? 逆に(?)、何ともないことを大げさに言うってのも有力です。(射止めたい方、参考までに…爆)。
まんまとハートを射止められた私は、もちろん、彼の作品が読みたいー!という気持ちで一杯になり、古本屋で『彼岸先生』と『僕は模造人間』を見つけ購入。まず、『彼岸先生』を読み終えた。
久々にドキドキしながら本を読んだ。私の解釈が合ってるとは限らないし、よく分かってないところもたくさんあると思うけど、でも、なんか、もう、そういうんじゃないのだ。フィーリングがもう、オーラがもう。たとえ私が分かってなくても、そんなの遥か彼方に飛び越えて、作者の気迫というか“命がけの祈り”が伝わってくるのだ。それは、どんな祈りかというと、「何をしたって生きられる」とか「何者であっても生きてゆける」とか、多分、そういうことだ。
ストーリーがどうと言うより、とにかく、そういう、血がググッと熱くなっちゃうような“命がけの祈り”を感じる文章が頻繁に出てくる。これは、ストーリーを読ませるものではなく、よりよく生きるために捧げられた“命がけの祈り”を届けるための物語なんだ。そのためには喜んで犠牲になる。ストーリーなんて忘れられても一向に構わない。人の記憶からは、ストーリーは何十年後かには消えてしまうかも知れないが、“祈り”は何百年後だってずっと残る。うん。うん。表現って本来そういうものだよね。そうか、私が読みたかったのはこれだったんだ。それは、あくまでも私にとってだけかも知れない。でも、それで良い。私の中でこの小説は死なない。
ここで凄いのは、よりよく生きるために捧げられた祈りが、結局は、「何をしたって生きられる」、「何者であっても生きてゆける」ということに辿り着いている点だ。「自分は何者であるか、何をして生きていこうかにこだわり過ぎるあまり、不自然な生き方を選ぶ羽目になった」、「『よく生きること』に執着しながら実は『うまく生きられない』とボヤいてばかりいた」そんな現代に生きるすべての人、とまでは言わないが、多くの人にこの祈りが届いたら良いなぁ。
例えば、この日記で私が書いてたようなことが、書きたかったであろうことが、書かれているような気さえしてしまった。恐れ多くも。
「一切をあれかこれかで分けられる者は生も死も輝かしいものにすることができるでしょう。しかし、あれかこれかを永遠に思い悩む私は結局、生からも死からも逃げ続けることしかできない。でもそれでいいのだとも思います」とか「私は自分に正直であるために生活の信条も理想も持たないのだ。時にはしたくないことも進んでする。もちろん、したいこともする。だからといって、何でもするわけではない。私は迷い続ける限り、自分に正直でいられるし、不安や苦痛と馴れ合っている限り、幸福でいられる男なのだ」とかは、「You say yes, I say no」の【前編】と【後編】を通して私が書きたかったことのような気もしてしまった。同じようなことを考えてる人がいるんだ!と嬉しくなってしまった。恐れ多くも。
でも、読みながら、不安にもなった。この物語は一体どこに私を連れてくんだろう?って。でも、それは、その小説と「魂の交流」ができてる証なんだろう。そして、最後は、なんと! 彼岸も此岸もあの世もこの世も来世も現世も何もかもごちゃ混ぜの世界に私を導いてしまった! 嘘も本当もフィクションもノンフィクションも何もかもがごちゃ混ぜの世界。凄いよ、これ。部屋にいながらにして、300円ぐらいで買った小説一冊で、こんなところまで連れてこられちゃうなんて。「どこまでが現実でどこまでが夢だったんだ?」みたいな「夢と現実の境界のあやふやさ」を訴えかけてくる小説とかは結構あるけど(そしてその面白さも否定しないが)、その先をいってる、それを繋げようとしている。“命がけの祈り”なんだ。そうだよ、そうだよ、だからこそ表現っていうか、表現がそれをしないでどうする?だよ。読んだ後に、「ここからここまでが現実で、ここからここまでが夢だったってことでしょう?」なんて言いながら友人と確認し合うなんて悲しい。その表現が悲しい。そんなことのために表現ってあるのだろうか。だって、表現なんだから、その中に「夢と現実の境界線」を引くこと自体、根本から矛盾しているでしょう? 最後は己自身も食ってしまいますよ? この中には、夢も現実も嘘も真もすべてがある。壮大なフィクションでありノンフィクションである。夢と現実の境界線を引くことも、あれかこれかを分けることもしなくて良い。「何をしたって生きられる」。「何者であっても生きてゆける」。
彼岸と此岸の狭間で生きるすべての人達に、あれかこれかを永遠に思い悩む(私のような…笑)すべての人達に、読んで欲しい。
「僕達はロマンティストであるくせにリアリストなんだよ。どっちかに片寄っていれば、こんなに胸が痛むことはないのに」――及川光博とリリーフランキーはよくこんなことを話していたそうだ。そんな人達に。
こっからは余談ですが、この本、グッとくる言葉が色々出てきたって書きましたが、特にエレカシとのリンクを勝手に感じて喜んでしまいました。ニーチェも出てくるし(エレカシ最新作『風』のブックレットにはニーチェの言葉が載っている)。それをちょこっと挙げてみたいと思います!
――でも、パパ、時間は一つだよ。
――違うな。そう思うのはおまえが誰かの都合で生かされてるってことだ。テレビやラジオを消してごらん。集団の意見を疑ってかかり、個人の呟きに耳を傾けてごらん。そうすればわかるよ。この世には様々な時間が流れてることがね。世界の支配者になろうとする者は時間を征服し、一つに統一しようとする。それはいけないことだ。文化っていうのは統一された時間に亀裂を生じさせることなんだ。おまえも自分の時間を生きろ。
これを読んだエレカシファンはきっと「勝利を目指すもの」を思い出すでしょう。<俺の時間を生きなきゃ なるまい>ってそのまんまだし。もしかしたら違う曲も…「個人の呟きに耳を傾けてごらん」なんて、言葉こそ違えどモロに…。「テレビやラジオを消してごらん」とか「化ケモノ青年」だったり(笑)。他にも“エレ歌詞”を感じるところはあったのだけど、どこにあったかとか細かく覚えてないから探すのが大変なのと、個人的思い入れが多分に入っているため挙げるとキリがないのとでやめておきます。しかし、爆笑問題との対談でも「100年後の人々の幸せを考えてるかどうかがポイント」というようなことが語られてて、それも「勝利を目指すもの」を思い出してしまいました。<その生き様が まだ見ぬ友へ 未来の人の“喜び”となるように 行かなきゃなるまい>とか<未来指向するもの>とか。だから、「勝利を目指すもの」、やってくれないかなぁ、次のライヴで!(それは関係ないか…笑)←そんなことがあったので余計に「勝利を目指すもの」がライヴで聴きたくなったのです。あ、「人間って何だ」の<未来の友へ、架け橋たる存在>ってのもそんな感じかも。まぁ、私の勝手な思い込みなんだけど。それに、その島田雅彦との対談のタイトルが、これまた「破壊と創造」だったんだもん。「JAPAN CIRCUIT -vol.20-」のエレカシのところで私が書いたのとリンク。島田雅彦と宮本浩次(エレカシ)って志が近いのかも~なんて思っちゃうよ、勝手に。スーパーマン(超人)を目指すしかあるまい!
爆笑問題よ、運命の出会いをありがとう。
あたしもその爆笑問題の本持ってるよ~。
古本屋でたまたま買ったら、面白かった。
ついでに言うと、島田雅彦もなかなか好き。
学生時代に読んだよ、「サヨク」とかね。
アナタの熱い文章を読んだら(いつもだけど 笑)、
また彼の本を読みたくなったよ。
ちなみに私の好きな村上春樹を、島田氏は大嫌いのようだけれども、
そんなことはどうでも良いわけです。
わたしはどっちサイドでもありませんから(彼岸?うふ)。
そんなわけで、
物語にズブズブと入りこむ幸せは、何ものにも変えがたいもんですね、はい。
爆笑問題の本はそこでたまたま読んだだけで、持ってはいないんだよ。
「また彼の本を読みたくなったよ」って、それだけで嬉しい(はぁと)。ありがとう!
対談の中で村上春樹のこと言ってたね~。でも「嫌い」とは言ってなかったよ(読んだ人の中にはそう感じる人もいるかもだけど、私は“嫌ってる”とかそういう風にはとらなかったよ)。その対談の中でしか島田雅彦が村上春樹について言ってるのを読んだことないから分からないけど、その中だけでは、「嫌い」っていうより「批評」って感じがしたよ。「こういう人よね~」ってそれだけっていうか。毒づいてるだけじゃん?(笑) でも、島田雅彦は「まぁ、彼岸でる…おっとっと、ひがんでるわけです」って自分で自分に突っ込んでたけど(笑)。←「彼岸でる」は私が勝手に面白いと思ったから打っただけ。近親憎悪のようなものかもよ?(笑)
ま、たとえ、島田雅彦が村上春樹を嫌ってるからといって、私まで村上春樹を嫌いにはなりませんからご安心を! 『ノルウェーの森』しか読んだことないけど。他のでオススメがあったら教えて! 対談の中で赤川次郎のことも「批評」していたけど、赤川次郎も私、読んだりしたし。
自分の好きな村上春樹。その村上春樹を嫌ってる(かも知れない)島田雅彦。そのどちらもを「好き」と言えちゃうfunkaloveちゃんが私は大好きよっ★ その姿勢、いつまでもそのままに~。まったく、男ったら…って感じよね。女はfunkaloveちゃんのようでなくっちゃ! なーんちゃってね。意味不明かな?(笑)
色々なものを読めるのは幸せよね~♪
フォローしているあなたが面白いわ。
いやね、なんか彼は色んな所で春樹批判をしているもんだから、
有名な話なんだと思うよ。
まあ、ほんとね、そんなことはどーでも良くて。
だってさ、同じファクターで成り立ってる人なんていないわけだから、
まぁ、人それぞれですよね。最大公約数はあると思うけど。
だって実際に春樹も島田雅彦も好きなわけだし、わたし。
でね、私的春樹のおすすめは、うーんなんだろう、
連作で読むなら「風の歌を聴け」→「1973年のピンボール」→「羊をめぐる冒険」→「ダンス・ダンス・ダンス」と読んで欲しいところですが(「羊・・」が最高に好き。これのために前2作を読んで欲しいくらいだわ)、
あんまりにも迂遠ですので、
そうだな~ 「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」なんかお薦めかな。新潮社から出てるよ。
あとは短編集なら、中公文庫から出てる「中国行きのスロウ・ボート」が良い。「世界の・・・」を読めば彼の世界観がなんとなくつかめると思います。
メジャーだから馬鹿にされがちだけど、メジャーになるだけの理由があると私は思うのよね。
ちなみに今中国で村上春樹が大人気なんだって。なんか凄い。
なはは…。funkaloveちゃん鋭い!
そうだよね。なに私、一生懸命フォローしてんだろ。バッカみたい。またやっちったよ。「必死だな」って言われちゃうんだろうね(笑)。もちろん、そんなことは「どーでも良い」わけで、そんなこと皆百も承知なはずなんだけど、そういう「どーでも良い」ことで人を振り回そうとする見えない敵を感じて、フォローしようとしてしまう、せずにはいられない私はドンキホーテ?(笑) そんな敵どこにもいないのにね。いるとしたら自分の中になのにね。一体、何をフォローしようとしてんだか。島田雅彦を?村上春樹を?funkaloveちゃんを?それとも自分自身を?…たぶん全部だろうね。欲張りなんだよきっと。こうやって文を書くのも、そしてそれが長文なのも、フォロー…つまり全部言い訳なんだよ(笑)。どうせ私の人生、語呂合わせですから(笑)。残念!
そうね。同じファクターで成り立っている人なんていないもんね。それなのに、エレカシを引き合いに出して巻き添えにしちゃったりして。私ってば!島田さんもエレカシもミッチーもリリーフランキーも、本当にごめんなさい。まぁ、それが私のファクターっちゃファクターって言えるんかも知れないけど、でもやっぱり、ごめん。「余談」だから許してちょ☆
ま~だから結局、私が言いたいのは、皆それぞれあってのもの、ってことなんだよねぇ。結局は皆、支え合ってるのさ~。皆そんなこと百も承知かも知れないけどね。でも、本当にそうかな?なんか、それがないがしろにされちゃってる気がしたりしちゃってねぇ(そう思うってことは、ないがしろにしてるのは他でもない私自身なのかも知れないけど…笑)。皆、支え合ってる。そうすると何かを否定するということは自分も否定することになっちゃうと思うんだよね。そこまでイッちゃうの。そうすると私は何も言えなくなる!あれかこれかを分けられなくなる!(笑) だから、全身全霊でフォローしていこうと決めたんだよ(カッコつけすぎ)!きっとね。何をかは分からないけど。ああ幼稚!(恥)
もちろん、何でも良いわけではありません。イケナイと思ったことはイケナイと言います。しかしそれは否定ではない。肯定でもない。否定も肯定もないよ。この世に存在しているのだから。肯定も否定もないところで言うんだよ!うう、うまく言えないなー。っていうか、こんなこと、ちょっと前までは、そんな考えてなかったんだけどねー。ここ最近、一周しちゃうような(?)出来事がありまして。そのせいでかなぁ。トランス状態(笑)もそのせいかなぁ。まぁ、それは後々…。
で、オススメ挙げてくれてありがとう!しかもたくさん!(笑) そう言われると「風の歌~」から読みたくなるじゃないか!そういや、そういうオリジナル・ラヴの歌あったよね?違う人だったかな?「世界の~」探してみるよ。短編といえば、ヘミングウェイの短編、良かったわぁ。funkaloveちゃんはもう読んだかな?
へ?メジャーだからバカにされんの?バッカみたい!だ~か~ら~、メジャーもマイナーも一緒なんだよ!メジャーあってのマイナー、マイナーあってのメジャー。何も変わりはありません。メジャーになるからにはそれなりの理由があるんだよ!理由もなくメジャーにはなれない。そんな生易しく甘いもんじゃないメジャーって。というか「メジャー」なんていうモノはどこにも存在しないし(笑)。それ、ただの概念ですから。残念!「メジャー」じゃなく「マイナー」じゃなく「作品」を読め!聴け!見ろ!感じろ!考えろ!その上で言え!(スイマセン、独り言です)
コメントまで長く、しかも、これ一つで日記書けそうな勢いで、しかもネチッコイ文章ですみません。そんなシリアスにならずに笑って読んでもらえたのなら嬉しいのです。活字になっちゃうと、それだけだと、シリア~スな感じになっちゃうけど。
いやいや、あたしがいいたかったのはね、
みんな違うファクターで成り立ってるけど、
どこか必ず重なってくるってことよ。
だから、島田雅彦とエレカシとミッチーとリリーが(後ろ三人、怪しいな、表記すると 笑)
あなたの中で繋がっても、それは素晴らしいことじゃーないのさ!
あたしなんてしょっちゅう色んなモノをリンクさせてはほくそ笑んでるよ。
だから、正しいとか、間違ってるとかじゃなくて、
たとえそのファクターやリンクが自分の中だけで起こってることでも、
それはそれで真実なわけよね、自分の中では。
でね、そこに気付けるのはとっても幸せなことだと思うのよ。
でさ、あなたが何と闘ってるかといったら、
おそらくそういう一人一人の内側のことをさ、
何だのかんだのいって「それは間違ってる!」とかいうアホよね。
間違ってるもなにも、アンタ、みたいな感じよね。
「その解釈は間違ってる!」とかさ。
国語のテストじゃないんだっつーの 笑
そんなわけで、お互いを嫌い合ってる子たちでも、
その両方と友達でいられるようなもんで、
だからあたしはハルキも島田雅彦も、ファンクもクラシックも、
ぜーんぶ好きでいられて、さらに開き直れるわけよ。
だから、他を否定することで成り立つものは、あまり好きじゃない。
私はHIPHOPを好むけど、ディス(貶し合い)し合ってるのを見るとガッカリするし。
アメリカとかで、CMや選挙でライバルの欠点を言い合ってるのとか見ると、
ほんとに未成熟な文化だな~と思うしね。
もっと他にすることあるだろ?って感じ。
まっ私達はそんなことには我関せず、涼しい顔して楽しいことしましょーね☆
風の歌を聴け、あるのよ、オリジナルラブに。
アルバム名なんだけど、わたしはそのアルバムがだ~~い好き☆
ぜひぜひどちらもチェックしてみてねん☆
funkaloveさんの言いたいことは十二分に分かってるから大丈夫よん♪ 私が「エレカシを巻き添えにしちゃったりして~」とか書いちゃったからかな? それは自分を茶化しただけだから(^^) ややこしいことして、更に説明させちゃってごめんね。そう、素晴らしいことよね! だから、もっちろん、これからもそういうことバシバシ書いていきますわよ! ただ、ミッチーとリリーは全然知らなかったのだけどね。たまたまそのコメント読んだだけで。そう、そういう繋がりなんていくらでもあるっちゅうか、もう全ては繋がっちゃってるから!(笑)
そうそう「間違ってる」とかいうアホ(笑)いるよね~。もはや、そういう人等に向けて書いてたんだよね。だから、funkaloveさんの言いたい事は十二分に分かってたから大丈夫なの♪
で、私ももちろんfunkaloveさんと同じ意見なんだけど、そこで開き直れるfunkaloveさんが素敵だと思って。いや、私も全然開き直ってたんだけどね。ここ最近、だからまぁ、一周するような出来事があって(笑)、色々考えさせられちゃったわけよ~。開き直っていた私も、自分と向き合わざるを得なくなったと。でも、そういうものに出会えたってことは、そういう自分を発見できたってことは、素晴らしいことだと思って。
人は、ある程度、価値観とかできてくると、それで固定されがちっていうか、形成されていくでしょ? それで良いんだけど、時に、それを覆されるようなものに出会ってしまい、いかに自分の価値観があやふやなものかに気付かされるのよね。で、そういう機会っていうのは滅多にないと思って。で、そういうのに出会えたことっていうのは凄く素敵なことだと思って。
いくら固定されたとか完成されたとか思ってても自分の価値観なんて、いつ崩れるか分からないっていうか、元々あやふやなものなんだなって。というか、永遠に完成する日はこないんだなって。だからこそ、面白いんだな~と思って。それを感じられるようにちゃんと受け止められるように生きていきたいなと。常に自分の価値観の「破壊と創造」(笑)を繰り返していきたいなと。
そうね。私達はこれからも楽しいことしましょーね☆ これからもよろしく☆ 戦友よ!(笑)