スティーヴィー・ワンダーのライヴ @さいたまスーパーアリーナに行ってきた。初めてのこと。
スティーヴィー・ワンダーといったら、超有名アーティストだが、私は、アルバムを何枚か聴いたことがあるくらい。そんな私に、友達が、スティーヴィーの元妻であり、今は残念ながら亡くなっているシリータという女性が歌う「シーズ・リーヴィング・ホーム」(ビートルズの曲)を聴かせてくれた。もちろん、スティーヴィーも参加している。最初、それが「シーズ・リーヴィング・ホーム」だとは気付けずに、途中で「え? これって?」と気付いたのだが、私はショックを受けてしまった。私は、なんだかんだ言ってビートルズには誰も敵わないよなぁと思っている節があって、結局のところビートルズが自分の物差しの基準になっているのかなぁと常々感じていた。けれど、この「シーズ・リーヴィング・ホーム」を聴いたとき、初めて、「これは、ビートルズも敵わない」と思ってしまった。リトル・リチャードを聴いても、チャック・ベリーを聴いても、そんなことまでは思わなかったのに。
そんなスティーヴィーの歌が生で聴ける!
それなのに、出てきていきなり、私が思ったことといったら……。
スティーヴィー、可愛い!
なんであんなに可愛らしいの?
そう、スティーヴィーは、とても可愛らしかったのです。
次から次へと演奏される曲達は、眩暈がするくらいに美しかった。そんなことは、彼の作品を聴いたときに分かっていたはずだったけど。
「オーヴァージョイド」が演奏されたあたりで、私はこらえ切れず、涙をこぼしてしまった。なんで? なんで? 私には分からなかった。でも、本当は分かっているような気もした。
生きていくということは、あるときから、あらゆるものを失っていくことに変わるのかも知れない。ポールだって、ジョンを失い、リンダを失い、ジョージを失った。それだけじゃなく、若さを失い、体力を失い、人はあらゆるものを失っていくのだろう。
スティーヴィーが鍵盤を弾きながら歌っているその背中を見て、そんなことを思った。
それが全部、音楽になってるよ!
そんなことは目には見えないのだけど、それはそこには無いはずなのだけど、でも、失ってしまったはずのものも、何もかもが、そこにはすべてがあったような気がした。ノスタルジーとか、そういうものともちょっと違う、大きな何かだった。
そして、私はそれを、愛おしいと思った。生きていくって素晴らしいなぁ。そんな台詞も、今日ならすんなり言えてしまうような気がした。
スティーヴィーの音楽、または、ブラック・ミュージックやソウル・ミュージックを、私は、毎日聴きたいとは思わない。きっと、毎日こんな音楽に包まれていたのなら、私は、フワフワのフニャフニャになってしまうからだ。それよりももっと、聴かなければならない音楽、今の自分が必要としている音楽が、私にはある。大げさな言い方だけれども、ソウル・ミュージックは、今の私にとって、「共に戦える音楽」ではないのだ。もしかしたら、私の心は、ひどく殺伐としていて、複雑にこんがらがってしまっているのかも知れない。
けれど、スティーヴィーの歌を聴きながら、この音楽を否定することなんて、私にはできないと思った。不思議なことに、毎日聴きたい音楽ではないけれど、いつもすぐ側にいてくれている音楽のような気もしている。それが私の素直な感想だよ。
ライヴは、アンコールなしで終わった。終了後、友達は、「あの曲もあの曲も歌っていない! もっともっと聴きたい!」と言っていた。あんなに次から次へと美しい曲を演奏していたのに、スティーヴィーにはまだまだ歌わなければならない音楽があるのだ。
スティーヴィー・ワンダーといったら、超有名アーティストだが、私は、アルバムを何枚か聴いたことがあるくらい。そんな私に、友達が、スティーヴィーの元妻であり、今は残念ながら亡くなっているシリータという女性が歌う「シーズ・リーヴィング・ホーム」(ビートルズの曲)を聴かせてくれた。もちろん、スティーヴィーも参加している。最初、それが「シーズ・リーヴィング・ホーム」だとは気付けずに、途中で「え? これって?」と気付いたのだが、私はショックを受けてしまった。私は、なんだかんだ言ってビートルズには誰も敵わないよなぁと思っている節があって、結局のところビートルズが自分の物差しの基準になっているのかなぁと常々感じていた。けれど、この「シーズ・リーヴィング・ホーム」を聴いたとき、初めて、「これは、ビートルズも敵わない」と思ってしまった。リトル・リチャードを聴いても、チャック・ベリーを聴いても、そんなことまでは思わなかったのに。
そんなスティーヴィーの歌が生で聴ける!
それなのに、出てきていきなり、私が思ったことといったら……。
スティーヴィー、可愛い!
なんであんなに可愛らしいの?
そう、スティーヴィーは、とても可愛らしかったのです。
次から次へと演奏される曲達は、眩暈がするくらいに美しかった。そんなことは、彼の作品を聴いたときに分かっていたはずだったけど。
「オーヴァージョイド」が演奏されたあたりで、私はこらえ切れず、涙をこぼしてしまった。なんで? なんで? 私には分からなかった。でも、本当は分かっているような気もした。
生きていくということは、あるときから、あらゆるものを失っていくことに変わるのかも知れない。ポールだって、ジョンを失い、リンダを失い、ジョージを失った。それだけじゃなく、若さを失い、体力を失い、人はあらゆるものを失っていくのだろう。
スティーヴィーが鍵盤を弾きながら歌っているその背中を見て、そんなことを思った。
それが全部、音楽になってるよ!
そんなことは目には見えないのだけど、それはそこには無いはずなのだけど、でも、失ってしまったはずのものも、何もかもが、そこにはすべてがあったような気がした。ノスタルジーとか、そういうものともちょっと違う、大きな何かだった。
そして、私はそれを、愛おしいと思った。生きていくって素晴らしいなぁ。そんな台詞も、今日ならすんなり言えてしまうような気がした。
スティーヴィーの音楽、または、ブラック・ミュージックやソウル・ミュージックを、私は、毎日聴きたいとは思わない。きっと、毎日こんな音楽に包まれていたのなら、私は、フワフワのフニャフニャになってしまうからだ。それよりももっと、聴かなければならない音楽、今の自分が必要としている音楽が、私にはある。大げさな言い方だけれども、ソウル・ミュージックは、今の私にとって、「共に戦える音楽」ではないのだ。もしかしたら、私の心は、ひどく殺伐としていて、複雑にこんがらがってしまっているのかも知れない。
けれど、スティーヴィーの歌を聴きながら、この音楽を否定することなんて、私にはできないと思った。不思議なことに、毎日聴きたい音楽ではないけれど、いつもすぐ側にいてくれている音楽のような気もしている。それが私の素直な感想だよ。
ライヴは、アンコールなしで終わった。終了後、友達は、「あの曲もあの曲も歌っていない! もっともっと聴きたい!」と言っていた。あんなに次から次へと美しい曲を演奏していたのに、スティーヴィーにはまだまだ歌わなければならない音楽があるのだ。