人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自称覚者、自称覚醒者

2015-08-19 13:57:24 | 覚醒
ネットを見ていて最近少し気になった事が有ります。揶揄するような言い方で”自称覚者さん”という言葉が頻繁に見受けられます。
如何にも覚者然といったもの言いをする人は多いですが、その話題として取り上げられる覚者さんて、本当に自分でそう言っているんでしょうか?
私は詳しく読んでる訳では無いのでよく分かりませんが…
彼らはそう思ってるのかも分かりませんが(このような内心の誘惑というものは誰にもあるでしょう)、実際そう発信してる人が居たらかなりアヤシイ人であるのは間違いありません。
私は最終解脱者とか救世主だとか…一寸笑えない芸人みたいです。
ただ自分をパフォーマーとして割り切って覚者を演じている人が居たら、それはある意味でスゴイ人だと思います。
出口王仁三郎さんなんかはそういうところが有りました。
そうですね。覚者に見えます。ありのままを生きてる自分=覚者という思い込みから自由でいられるから…
このように他人が見て覚者のように感じられる人は確かに居ると思います。
そう言う人はまず自分で”そうだ”とは言いません。
覚者とは”They Say…”他称に限るものだと思います…。

一方、とても紛らわしい表現で”自称覚醒者”というのがあります。
果たしてこの覚醒者という呼び名が相応しいものなのか?…
一瞥体験とか覚醒に預かった事を発信している人たちのことなのでしょうけど(私もその端くれ)、言うまでも無くその人=覚者ではありません。
どうでもいいことかも知れませんが、”覚醒経験者”と言ったほうがピンときます。ヘンな誤解を与えずに済むし…
その体験というものがどういう種類のものかは別として、全くもって自分自身のことを伝えているのです。
これを自称云々というのは全く見当はずれです。
彼らは覚者でないので、当然人間臭い諸々の弱さも持っています(言っていることは夢みたいですが…)。
道を踏みはずすことだってあるでしょう。
ある人は何かと話題の大御所さんの一瞥体験を”魔境”と決めつけていました。
きっとそのように言える人というのは覚者なんだと思います。
でも、覚者が何を言おうと、生神様が言おうと所詮アカの他人のジャッジに過ぎません。
その中で何を感じ、何を悟った(深い意味とは限らない)かは本人じゃないと絶対分かりません。
分かるのでしたら本人の代わりに生きてみたらいいです。
だが先述したように生身の人間は、時にただ自分がその受けたいわく言い難い体験に、様々な人間臭い色、尾ひれをくっつけ、思い思いの解釈を施し、外部に流してしまうこともやりかねません。
又この世的に有名になったり、成功の甘い汁に酔いしれると自分の本当の依って立つところを見失ってしまいます。(これは別にAさんにかこつけてる訳じゃありません)
これがそもそもの魔境への変質のプロセスだと思います。(魔とはまさに他に向けられたときに”間”が差す…)
だから現在の自称覚醒者?が言うことと、彼らがどっかで語っているであろう、言葉で言い表せない体験の記述とは区別される必要があると思います。
もし、私が自分の先入観などの色眼鏡で、そのような記述に接してみて、何か黒いベールのようなもので覆われているように感じたら、悲しいかなおそらく私の眼がそうなっているのでしょう。
自称覚者も、自称覚醒者も幻想に過ぎません。
人それぞれの真実の無条件の愛の発露…多くの人はそれを裏切るかも知れない…
私は人を何人も裏切ってきました。だが、それだけは裏切りたくありません…。









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クエーカー❸ 沈黙の礼拝

2015-08-17 20:32:19 | 秘教、その他団体
クエーカーの礼拝会で認知されているものには凡そ次のようなものがあると思われます。
「牧師などによって仕切られるプログラムが存在しない。
一人一人が静黙のうちに神を待ち望み、やがて神の声を聞き、洗礼といった儀式に依らない、聖霊直々の洗礼に預かる…
礼拝中、神から霊感を与えられたものは、立ち上がって神よりのメッセージを述べる(感話)」

あらかじめ言っておかなければならないことは、これらのことはあくまで昔から”言い伝えられていること”を表明しているものだということです。
現実にそのように礼拝会が展開しているかどうかは別の話です。
ある時東京の集会で、初めて参会に来た方から礼拝後こんなこと言われてビックリしたことがあります。
「私には神の声など聞こえてきませんでした…」すかさず私は答えました。
「もし、本当に神の声が聞こえてきたら、貴方の耳を疑った方がいいです。」と…このように外部には”言い伝えられていること”ばかりが膨らんで認知されているようです。
どんなものでもそうですが自分の目で、存在で確かめる事が肝要ですね…。
そんな訳で私は平成13年春、初めてクエーカーの大阪の集会に参じました。その会場は大阪郊外の借家の何か倉庫のような一室でした。
集まる者は4,5人くらいで本当にこじんまりとした集会でした。
古い会員さんから「求めているものは、自分自身で見つけることが大切です」という意味のことを言われましたが、メンバーがそろうと、いつの間にかその沈黙の礼拝が始まったらしいです。
そして「沈黙の祈りというものはどうやってするのですか?」と尋ねると…「やり方というものは有りません。あなたの自由になさったらいいです」
と聞いて、私はすぐ”我が意を得たり!”と感じたものです。
”じゃ、何時も身に覚えているものを導かれるままにやればいいんだな”と…
これ以前に私はK先生という瞑想指導者から”元波動瞑想”というものを伝授してもらったことがあるのですが、その時と同じ感想を持ちました。
この特別なメソッドの無い、ある種の瞑想というか祈りというものは、ずっといつの間にか私に馴染んでいるものなのでした。
ただその瞑想との違いはこの沈黙の祈りは”ロハ”だという事です。
この2年後、私は転職の関係で故郷の東京に帰ることになるのですが、月一回ながらもその二年間は私にとりとても有意義なものでした。
もっとも以前の私だったら、多分続かなかっただろうと思いますが…自分以外のところに霊的なパワーのようなものを求めていましたから…
その集会はもしかして霊的な面で後退しているのかもわからない…でも私は私でただ与えられたものを受け取って、為されるべきものを為せばいいだけなのです。
その集会はチッポケな、心もとないものなのかもわかりません。でもそこから何かが育っていくんじゃなかろうか…それを集まる者と共に見守っていくのも楽しい…私はこれまで幾つか宗教的グループと関わってきましたが、おそらくそんな心境になったのは初めてだと思います。

聖霊の直接的な感応云々という事についてですが、そのような表現がふさわしいのかどうかは別として、他人の経験談というものはほとんど直接には聞いた事が有りません。ただ私は何度か上よりの力に捉えられてしまった事が有ります。本当にそれは”揺さぶられる、震える”ものです。
でもそれはその集会を覆っている何かに感応したという事とは違うと思います。別のところでも起きるものだからです。
よくそういうものは神の霊感によるものなのかどうか分からない…という声も聞きますが、神云々…それは私にも分かりません。
ただ、その訪れは、そうなったら分かります。”ああだろうか、こうだろうか”という思いを超えてやってくるからです。
こういう話については何時も、私は相反するものが去来してきます。
そういう神秘体験みたいなものは、有ろうとなかろうとどっちでもいい…
だが、もしそれが合理的精神の下で否定されたり、もっと悪いことに合理的解釈ですりかえられたら、とても反発を覚えずにいられなくなります。
その反目する思いは東京に帰った後、しばしば駆られたのでした…。









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クエーカー❷ 内なる光

2015-08-16 14:37:49 | 秘教、その他団体
「あなた方を神の方へ導き、あなた方すべてを平和と和合の中に保つ内なる神性に従って待ち望め。」(ジョージ・フォックスの書簡)

私がクエーカーの名を初めて知ったのは意外に早く、中学卒業した直後のことでした。勿論その頃はこういうブログ書いてるような人間ではありません。ただ変な帽子(トレードマーク?クエーカー帽。集会でたまに見かけました)をかぶって、変なことしてる人たちという認識しかありませんでした。その頃確かテレビの深夜映画でウイリアム・ペン(建国時代の米国で活躍したクエーカー教徒。ペンシルベニアの由来の人)の伝記映画を観たのですが、後にも先にもその時の一度だけしか観た事が有りません。機会が有ったらも一度観たいのですが…
それからずっと後になって昭和58年夏、19世紀米国の思想家R.W.エマーソンの書物で、クエーカーの存在を見出しました。
彼がそのメンバーだったという記録は在りませんが、自ら「自分は何よりクエーカーである…」と言い切るくらい、多大な影響を受けていました。
それは、”自己信頼”という事を強調しているところに垣間見れます。
そして私はこの前後…初めて人生の裏側へと足を踏み入れてしまったのです。
私は本当であるならば、この自己信頼という言葉の内実…”聖書に何が書かれ、誰それが何を言ったといった借り物でない、一切の虚飾の無い、内なる光への同調”をダイレクトに感得していてもおかしくなかったと思います。
しかし、現実には私は内なるものに昏かったと言わざるを得ません。
そうですね…私はこのエマーソンの文章に接しても、何かの一つの思想としか捉えていませんでしたから…
このもう少し後当時「東京キリスト聖書塾」から刊行中だった、手島郁郎先生の「使徒行伝講話」を読んで、その中にクエーカー、その創成時代の中心人物ジョージ・フォックスについて、先生が熱く語っているのに触れました。
まるでご自分の生き様をそれになぞっているかのように…(ちなみに言いますと、創成時代の教会を持たないクエーカーは、さしずめその当時の”原始福音、幕屋”といった趣が有ります。)
私はまだ探究意欲が盛んでしたので、”このクエーカー教ってのは、一寸スルー出来なくなってきたゾ!”とまたぞろ発作の兆候がもたげてきたのですが、その手島先生の講話の続きで、一気にそれがトーンダウンしてしまう事になってしまいました。
「今のクエーカーは聖霊が蒸発してしまって堕落してしまった」ですと…
そうなるともう、”なあんだ!じゃあ、しょうがないや…ヤメた!”で落着です…。
私はこの事を想起していて、もうある種の震えを禁じ得なくなってきました。
何という無知蒙昧なんだろうか!と…
知識も経験も無い、何も知らない人間(ああ、私はそういう人間だったらよかったのに…)ならいざ知らず、”通過儀礼”をしているのだから救いようが有りません。
こうなってしまう理由は今ではハッキリ分かります。
覚醒体験と言う…まさに体験そのものに捉われていたからです。
夏の花火大会のように、そのイベントが済んだら消えてしまって、夏の日の想い出になるだけです。
もう一つには意識的にか意識下でか、封印が行われたからです。これも摂理なのでしょう。
ある一瞬、私の内に火柱は上がりましたが、元の木阿弥…私は相も変わらず自分の外に光を求めなければならなくなってしまったのです。
光の無い、昏い教会には要は無い…

それから色々な事を経て巡り来たって、世紀も変わって18年後、私は神戸で仕事の関係でまるで子供のように、あるキリスト教の教えを盲信している男と知り合いになりました。口を開けば”聖書にはこう書いてあるよ””牧師先生はこう言っているよ””異教は信じちゃダメだよ”私はほとんどバカにして聞いていたものでしたが、段々このオウム返しに辟易して来て、この信仰の雁字搦めの対極にあるものが恋しくてたまらなくなってきました。
そして電撃のようにひらめきました…あの伝説…落ちてしまったかも知れないが…クエーカーをたづねてみよう、と…
月日もめぐり、内なる光は見いだされたのか…それは分かりません。
ただ明らかに心境は変わっていました。自分の周りには光が無いのかもわからない…すっかり形骸化して干からびてしまったのかもわからない…第一人が居るのだろうか…
でも、何であろうと私はそこで示されたことを受け入れて行くだけである…
かくして、長い紆余曲折を経て私は伝説のクエーカーの現実へと踏み入れることになったのです…。




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クエーカー

2015-08-15 14:03:06 | 秘教、その他団体
クエーカーと通称で呼ばれているキリスト教系の一派が有るのをご存知でしょうか?
一頃の五千円札の顔、新渡戸稲造先生がそこに関係していました。
その札幌農学校時代からの朋友、内村鑑三先生が始めた無教会主義なるものは、私は間違いなくこのクエーカーからインスパイアされたものと思っています。
その儀式、煩雑な教義を拝した牧会の在り方、非戦について言及などに伺われます。
ただ内村先生がそれに組しなかったのは、先生のオーソドックスな福音理解と相容れなかったためだろうと思います。
クエーカーはその明治時代には米英を中心に自前の教会を有していました。
だが17世紀英国に発祥して以来長い間文字通り無教会なのでした。
これは教会を持たなかったというより、持てなかったと言ったほうが正しいです。
これは体制を占める自称正統派教会から異端のレッテルを張られていたためです。
クエーカーという呼び名ですが、それは”震える人たち”という意味です。
正式にはフレンド会、基督友会です。クエーカーなる通称の起こりについては諸説が有るのですが、私はごく自然に脳裏に浮かべられるものに従いたいです。
”オヤッ!何だ、あいつら震えてやがるゾ! ケッタイだなあ…”と、その集会の模様を目撃した人間からおそらく広まったのでしょう。
彼らの集会は先の事情で多く野外で行われていたのです。
果たしてその震える集会というのは一体、どんなものなのでしょうか?

私は正直、このフレンド会、クエーカーについて書くのに、いささか躊躇いが有ります。
とても複雑な…相反する思いが今も去来します…一冊の本が出来ちゃうくらいです。
この一派はある面、私にふさわしい、私のために備えられた一群とも言えます。
まず抽象的教理などの夾雑物を介さない、直接経験を重んじること…さらに
牧師といった特定の権威者を置かない…開かれた精神、寛容性…
そして沈黙の礼拝と呼ばれる極めてユニークな…極めて普遍的な祈りの在り方…
だが、反面こんなにも私に似つかわしくない有り様は無い!です。
ある会員に言われました。”何処を見てもあなたにはフレンドらしいところは見当たらないですねえ…”
全くその通りですね…これは言われているイメージですが、”道徳に厚く、克己的であること”
頭のてっぺんからつま先を眺めても、私からはそんなクエーカー像など伺うことなど出来ません!
第一、当の本人が”そんな自分を律するようなごリッパな生き方などクソくらえ!”との賜っているくらいです。
又、クエーカーが世間で認知されているものに平和運動というものが有ります。
私はそれ自体を否定したいと思わないですが、私自らそれに積極的に参与したことはほとんどありません。
それは本当の意味の平和…魂の平安から導かれる平和というものをそうした人間的な話し合い、運動とは別のところに求めているという私自身の根本的な理念が有るためです。
これはまた、ある日平和についてのミーティングが持たれていた時、平和など何処へやらの喧々諤々の口論が始まったのを見て、とても嫌悪感を持ったことも大きな要因です。
こんなことを書いてるっていうのは、私が関係していたからだと思いでしょうが…ハイ、大阪と東京の股をかけてその集会に何回となく出没しましたよ。でもただの一度も正規の会員では無かったです。何せそこには相反するいくつかの思いが去来するもので…
こりゃあ、簡単に済みそうにありません。忘れられないことも、苦い思い出も…
追々綴っていこう…躊躇いながらも、身の震えを感じつつ…。



















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白と黒のコントラスト

2015-08-13 14:55:21 | スピリチュアル
こないだ、何かと話題のノンデュアリティ系の著者の本を書店で立読みしてたら、もう”ドヒャあ!”って感じになりました。
問題の種の”私”をどうするか、ということで、確か私というものは意識がそう認識させるものだから、意識が無くなればいい、と言う文脈だったと思います。
一体、どうやったら無くなるんだろ?…真夏日の炎天下で水も飲まずにずっと突っ立ってたら、運がよければ?そうなる可能性は高いですね。
でも、搬送先の病院で運悪く?意識が戻ってしまえば、再び悪夢の”私”との腐れ縁が始まるでしょうね。
熱中症になった方ならお分かりでしょうが、突如四肢などがマヒし始め、やがて思考回路もマヒし、立ってられない状態になる…いつの間にか路上で倒れてしまう…これは自意識(自分で働かせられる意識~意念)では如何ともし難くなってしまう状態というものを物語っているわけですね。
(随意、不随意…形が有る、無い…これらが人生の表側と裏側との境目であり、又それらはどっかで重合している、一如になっているところに人生、世界の妙が有る…という事を日夜綴っている次第なのです。)
意識というものは今まできちんと認識されてこなかったので、あくまで私の理解なのですが、随意的な思考と区別して純粋意識という言い方をしますが、これは不随意的なものです。
先の著者はもしかしてまだ随意と分離していない準純粋意識?(これは実に曖昧な表現をしています。どういうのか私にはわかりません。)の領域のことを述べているのでしょうか?
そうでなかったら、もう”死者をして語ってもらうしかない!”

私はしばしば”上よりの恩寵に捉えられる”という事を言います。
そうなってしまった時、いつも心象に映るものが有ります。(映像が映る訳ではありません)
ちょうど、天候が不安定な時分に黒雲と白い空、雲とがくっきりとした輪郭で浮かび上がる光景にも似た、モノクロームのコントラストといった感じです。
そして又、それはこの世の終わりと新たなる世界とが同時にすべてを覆い、開かれる…といった何とも言い表しがたいものです。
それが、随意的なものを手放し、不随意的なものが顕れる、ということと関係していることは何となく分かります。
ある人にその事を話したら「善と悪との戦いですね」と言われましたが、それはちと違います。
黒、闇というのはその場合悪というより、随意的なものをスポイルさせる何か…”自分は何でも出来る”とか”何でも知ってる”という思いを無力化させる、恩寵のあらわれだと思っています。
このようになるのにも、熱中症のように前兆というものもあります。ジンジンという感覚などがまさにそうです。
ただほとんどはいつの間にか起きてしまうのですが…
そしていよいよと言う時に、”神、恩寵の手がかかる”と表現していることが起きます。
これが恩寵に落ちてしまうシグナルのことで、そうなるに任せる他に道が無いとしばしば言っていることなのです。随意的な力が落ちるためです。
これが起きないうちでしたら、”逃げるのなら今のうち”です。
千歳一隅の機会、何回も生まれ変わってようやく巡り会ったとしても…それはどうしようとあなたの任意です!
あなたの時はまだ来なかったらしい…果たしてその時はやってくるのかどうか…知りません!
でも私はこれと真逆なことも言ってみたいです。
あなたの時はまだ来ていないのかもしれない…でも神の時は何時だって来ている!
何でいつも逃げてばかりいるんだろうか?
それに預かるかどうかは、あなたの自由です…。
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