人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈りは待ち望むこと

2020-09-20 09:13:12 | 祈りと瞑想
何度も言っているように、神(的なもの)に意識を向けるということ、これは祈りの根本にあるようなことを言っているのですが、"思い方"のことを言っているのではないのです。
例えば、マイナスのことを思わないようにしようとか、それをプラス思考に変えようとか、そういうことをイメージしようとか...ではなくて思考を超えたものにアクセスすることなのです。
まあ、このことですら、"思いを超えなきゃ"、とか"思いを超えたものって何だ?"と思念してしまう人も居るのでしょうけど...
中には何十年も祈りの修行をし続けている人でも、"念"というか自分の思いでどうとかしようとすることと、思いを超えたものに与ることの区別がつかない人も見受けられるのです。
(これは、その修行に対する思いというものがアダになっているのかもしれませんが)こういう人は、とにかく色んなオカルト的教説などに思いが囚われハマってしまいます。
その先入観、定見などで思いが囚われることは、"神的なハタラキが流入してくる"のを閉ざすものだということが分からないのです。
そういう人間も"精神的覚醒"について思ったり、口にすることもあるようですが、確証の無いことをやたらと信じ込んだり、ある特定の教えを狂信したりしている人間には、まずその門は開かれないでしょう。
ということは、自由な、開かれた意識に上よりの光が差し込むということなのですi
どこまでも思いの通路は、最愛なるものが通られるように開けとかなければならないのですi
しかしながら、人間はどこまでも考え続ける、どんな自然なことも、思いを超えた神でさえも思いの中に取り込んでしまう生き物です。
神的なハタラキによらずば、その幾重にも重ねられたフタは開かれることが出来ないことを知るべきなのです。
そして、そのハタラキの流入を待ち望まなければなりません。
その瞬間は、"こう思った"という、抽象観念でなしに、窓を開ければ新鮮な空気の流れが入ってくるような、具体的な感じを伴うものなのです。
感じ方はそれぞれでしょう。"あふん"となることかも分からないし、いつの間にか、寝て起きたらそうなってた(私の場合、これは結構あるのです)ことかも分かりません。
とにかく、そういうものに与ったならば、思ったり、信じたりする観念ごととは違うことが知らされるでしょう。自ずとそこに区別が、秩序(思いが先走らなくなるようなこと)が生まれるのです。
"そりゃ、どんなことだろう?"、なんて考えてたってしょうがありません。なってみたら分かります。
こうしてみると、祈りというのは、待ち望むこととも言えるでしょう。
そうなることを待ち望むというよりも、最愛なるものとの再会を...
もっとも、そうなる前から、理屈抜きに神的なものに惹かれてやまないものを感じられる人には何の説明も要らないでしょう。
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