人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

思いを超えた心の声

2024-05-26 09:34:05 | スピリチュアル
私はいつも”思考を超える”、ということを言っていますが、具体的にそれはどういうことなのか、について改めて書いてみます。
言うまでもなく、それは自分から超えるということではありません。そうなさしめるものを受けるということなのですが、それは現実に思考機能が後退してしまうことで分かることなのです。そのように思考を無化させるハタラキがある。そういうものに出くわす!...
これは、私が“神の手に捉えられる“と呼んでいる、覚醒体験などに導かれるような契機について言っているのですが、それで、頭がすっかりカラッポに、無意識になってしまうかと言うと、そうじゃない。意識というのはある...だから”ああ...自分は何も考えられなくなってしまった!”という自覚はあるのです。
ただ、それ以上、例えば”何でこんなことになってしまったのか?”とか能動的に考えられなくなるということを、こう言っている訳です。
代わりに、その自分がこれまで考えたこともない、そういうものとは全く比ぶべくもないような、何て言うか、”超智”のようなものを受ける、自ずと湧き上がるのです。
これが仏教などが目指している仏智のようなものなのでしょう、そこで分別智を超えなければ、それに与れないと言っている通りです。
もっと平たく言うと、それを何かの啓示、神の声のようなもののように感じたとしても、不思議ではないでしょう。
といってそれは、そういう言葉として聞くのではなく、よく言われる内なる、心の声のようなものなのです。
このように書くと、そのように思考が働かなくなってしまうと、それが本当に心の声なのか、邪霊の誑かしなのか判断出来なくなるではないか、と思う向きもあるかもしれません。
まず、そのことは、“頭が働く内“は、疑わしいものは疑い、よく判断した方がいいでしょう。あなたが迷っているなら!...
だけど、あのようになってしまったのなら、もはや迷いは無い!...道はただ一つ、それを受け入れるしかありません!
私はむしろ、そういう迷いを断絶するために思考が奪われるのではないか、と感じています。
そして、そこには、考えている自分からは与り知れないような愛、幸福、リアリティがある...これなんです!
そしてこれは、こうした突出した体験が無くとも、心の奥で感じることが出来る、と私は思います。いや、心の声は感じられるはずなんです。
だって、それはあなたの本当の、内心の声であるはずでしょう?
あなたが何が真実か、自分が本当は何をしたいのかと迷っている時、あなたは本当は分かっているのではありませんか?
自分は、ただ興味本位なものに、実用的なものに、プライドに囚われているのではないか?
思考というものは、かかる表層的なものと容易に結びつくものです。
何があなたの本当なのか?...決め手になるものは、そこに愛、幸福、リアリティが感じられるかどうかということでしょう。これが本当に、ホント~に人生で大きなことと言わねばなりません!
当たり前のことですが、思考が働いていようと、なかろうと本当のあなた自身は在り続けるのです。
この意味で、それは思考を超えて在るということでしょう?
何かの契機で、人はそのことを具体的に目の当たりにする...かもしれない?...

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