人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自分を信じ、自分を愛す

2022-11-20 09:46:28 | 宗教
最近、旧統一教会問題絡みで、又”マインドコントロール“という言葉を毎日のように聞くようになりました。かつてのオウム真理教の時といい、宗教の問題には付きものですね。
これは、自分の外からの洗脳というものと結び付く訳ですが、直接そういうものを介さずとも自ら能動的にハマってしまう、盲信、妄信、狂信につながる道もあるのです。
それも、そういう教えなりが影響している訳で、間接的に洗脳されていると言ってもいいでしょう。
世間では、宗教と言えば”信じること“が大前提のように思われているようで、多少なりともそういうことにつながる要素はあると言えるでしょう。
だけど、そこにはもっと大前提となるものが蔑ろにされているのではありませんか!
これは、宗教に限ったことじゃないですが、それを信じるのは誰の問題なのか?、その人生は誰が生きているのか?、ということなのです。言うまでもなく自分自身ですね。
自分を信じることが出来ない!、だから他人の言説にハマってしまうのです。
自分を受け入れられない、愛せない...本当は自分を信じていなければ、人も神も信じられないはずです。
それは、そもそも何を信じ、受け入れ、愛するか分からないということなのだから...
人が生きるということの大前提は、“私はここに在る”と感じていることのはずでしょう?
自分が在る(”居る“とは、微妙にニュアンスは違うのです)から、他を信じられるのです。
他人の言葉を迂闊に信じない、ハマらない、ということは、自分で考えることが出来るということでは一応あります。
でも、それだけじゃない!...自分の思いを超えて、何か自分の中から照らしているようなもの...それに照らして、その言葉を信じるか、そうでないかが識別されるのです。
それは前者の場合、共感、共鳴という形で示されるのが普通でしょう。心に響くものがそこにあるのか!
私は現臨感が芽生えてから、自然とこうした感覚を覚えるようになり、オカルト的なこととか不確かな情報を短絡的に信じることが無くなりました。
もっとリアルな...そして自分の中に愛というものがあるのが感じられたからです。それからズレた、知的好奇心を満足させるだけのものには、意識が向かないから...
”自分を愛す”と言えば、五井先生の信者にも、狂信者というのは居るものです。
私が頻繁に道場に通って居た頃は、ほとんど見受けられなかったですが...
しかし、その先生当人は「一番最初に言いたいことは、神を信ずるとか、五井先生を信ずるとかいうより先に、自分自身を信ずることなんです」と教えているのですよ!
中には何が楽しいのか、それに縛られている人間もおりますが、その教義の中に「自分を愛す」という言葉があるのは、素晴らしいことだと思います。
私には、そこに向ける対象は無くとも、自分の中に元々ある”愛そのもの”につながることが示されているのを感じずにおれません。
我々の未来はそのことにかかっていると言っても過言ではないでしょう!
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 自分の胸に聞いてみる | トップ | 神の愛は失われていない! »

コメントを投稿

宗教」カテゴリの最新記事