所謂悟りとか魂の目覚めについて語る人というのは、ほとんどと言っていいほど禅だとか瞑想などに関連したインド、仏教系の道の影響を受けているように感じられます。
私の場合も勿論そうしたものにも触れていますが、より多くキリスト教的なものに影響を受けている点で一寸異色になるのかもしれません。
とにかく最初に私の意識に”恩寵の光を受けて精神が変容する”という事態のことを知らされたのは、キリスト教に伝えられる所謂”聖霊のバプテスマ”のことだったのです! この事を知った頃は他の道ではほとんど聞いたことがありませんでした。(東洋インド系のものというとヨガ瞑想とか修行系のものが多かったようです。私にはただメンドクサそうなだけでした)
と言っても、初めに昭和53年初夏の頃原始福音の「生命の光」誌で手島郁郎先生のコンヴァージョン(宗教的回心、覚醒)の説明に接してもチンプンカンプンだったというのが正直なところでした。
これが、54年春頃、急速に関心を持つようになり、意識がそっちに向けられるようになったのです。
この頃は超宗教結社?道院に定期的に通うようになったのですが、時を同じくして関西の女性霊感者Mさんの縁で、数人の若い人が道院に入ってきました。(私は自身の見えざるルート?に依るものでたまたま時期が重なったのです)
集会でその人たちと会う事が多かったのですが、彼らの間でいつも何か霊的なものが見えたとか、幽体離脱をしたとか、神秘的な事が話題になっていました。(道院の番頭格のNさんは何か言いたそうで、ジッと我慢してる様子でした)
私は…この時分すっかりそうした話には興味を失っていました。というよりいたずらに神秘めいたものに首を突っ込むべきじゃない、我々の日常を超えた意識の内面とか霊的な事は甘く見るもんじゃない…と、当時私が見舞われた意識障害?(これは元はと言えば私の軽はずみの行動が招いた〉のことが脳裏にあってか、その話には一寸距離を置いていたのです。
私がそれまで身に着けていなかったもので、この神秘めいた話に夢中になってしまう空気に感じられないもの…それは敬虔さというものだと思います。
20世紀のドイツの宗教哲学者ルドルフ・オットーはその著「聖なるもの」の中で、宗教的感情の根底にあるものとして戦慄、畏怖、畏敬などの感覚を呼び起こすもののことを”ヌミノーゼ”と呼びましたが、こうした”おののき”と相反する”抗しがたい魅惑”という感覚も伴うものであると述べています。
実にその通りだと思います。これが神的なものを目の当たりにする、ということでしょう。
それは又思われたままの世界が突破される、ということです。
我々はこのものに出くわすまでは、神的なものを思い描くことしか出来ないのです!身が震えない限り、いくら見えないものが見えようとも同じ事です。
分かったつもり、知ったつもりになっていても何も知らない事と同じです。…又知らないという自覚、自我の限界が示されなければ、自己を超えた領域は開かれず、受け入れることが出来ません。
神的なものは、この思われたままの自己とは全く違う!…この現実と彼の世界には決定的な断絶がある…オットーらキリスト教の哲学者、神学者が言うように、神はある意味では超越的な”絶対他者”なのでしょう。(ただそれだけという訳にはならないでしょうけど…)
宗教的回心の道は敬虔ということの分からない者が無暗に近づくものでは無い…当時の私はこの事を身をもって知らされていたのです。
と同時に聖霊というか、神的なものが直接臨むという事態には恐ろしさを覚えると同時に、思いを超えて惹きつけてやまないものがあることも覚え始めたのでした。
それからしばらくして、小冊子を通じて小池辰雄先生と出会った時、ホントに身が震えたこと昨日のように覚えています。
敬虔ということは倫理とかモラルの話(大きなお世話の説教聞いてりゃいいってもんじゃない!)じゃなく、学習して身に付くものでもありません。
(この辺りインド系の道では蔑ろにされている傾向も見受けられます)
あの”おののき〝、”ウマしき誘惑”…分かる人には分かります。これはある感性によって養われるものです。私はキリスト教に特有の教理偏重の色に染まるでもなく、ごくシンプルなキリスト道によって開眼されたのです。
この事がこれまで安直な思い上がった神サマ気取りの誘惑(これに陥るといよいよもって度し難いことになります)に走らずにしているのでしょう。
私の場合も勿論そうしたものにも触れていますが、より多くキリスト教的なものに影響を受けている点で一寸異色になるのかもしれません。
とにかく最初に私の意識に”恩寵の光を受けて精神が変容する”という事態のことを知らされたのは、キリスト教に伝えられる所謂”聖霊のバプテスマ”のことだったのです! この事を知った頃は他の道ではほとんど聞いたことがありませんでした。(東洋インド系のものというとヨガ瞑想とか修行系のものが多かったようです。私にはただメンドクサそうなだけでした)
と言っても、初めに昭和53年初夏の頃原始福音の「生命の光」誌で手島郁郎先生のコンヴァージョン(宗教的回心、覚醒)の説明に接してもチンプンカンプンだったというのが正直なところでした。
これが、54年春頃、急速に関心を持つようになり、意識がそっちに向けられるようになったのです。
この頃は超宗教結社?道院に定期的に通うようになったのですが、時を同じくして関西の女性霊感者Mさんの縁で、数人の若い人が道院に入ってきました。(私は自身の見えざるルート?に依るものでたまたま時期が重なったのです)
集会でその人たちと会う事が多かったのですが、彼らの間でいつも何か霊的なものが見えたとか、幽体離脱をしたとか、神秘的な事が話題になっていました。(道院の番頭格のNさんは何か言いたそうで、ジッと我慢してる様子でした)
私は…この時分すっかりそうした話には興味を失っていました。というよりいたずらに神秘めいたものに首を突っ込むべきじゃない、我々の日常を超えた意識の内面とか霊的な事は甘く見るもんじゃない…と、当時私が見舞われた意識障害?(これは元はと言えば私の軽はずみの行動が招いた〉のことが脳裏にあってか、その話には一寸距離を置いていたのです。
私がそれまで身に着けていなかったもので、この神秘めいた話に夢中になってしまう空気に感じられないもの…それは敬虔さというものだと思います。
20世紀のドイツの宗教哲学者ルドルフ・オットーはその著「聖なるもの」の中で、宗教的感情の根底にあるものとして戦慄、畏怖、畏敬などの感覚を呼び起こすもののことを”ヌミノーゼ”と呼びましたが、こうした”おののき”と相反する”抗しがたい魅惑”という感覚も伴うものであると述べています。
実にその通りだと思います。これが神的なものを目の当たりにする、ということでしょう。
それは又思われたままの世界が突破される、ということです。
我々はこのものに出くわすまでは、神的なものを思い描くことしか出来ないのです!身が震えない限り、いくら見えないものが見えようとも同じ事です。
分かったつもり、知ったつもりになっていても何も知らない事と同じです。…又知らないという自覚、自我の限界が示されなければ、自己を超えた領域は開かれず、受け入れることが出来ません。
神的なものは、この思われたままの自己とは全く違う!…この現実と彼の世界には決定的な断絶がある…オットーらキリスト教の哲学者、神学者が言うように、神はある意味では超越的な”絶対他者”なのでしょう。(ただそれだけという訳にはならないでしょうけど…)
宗教的回心の道は敬虔ということの分からない者が無暗に近づくものでは無い…当時の私はこの事を身をもって知らされていたのです。
と同時に聖霊というか、神的なものが直接臨むという事態には恐ろしさを覚えると同時に、思いを超えて惹きつけてやまないものがあることも覚え始めたのでした。
それからしばらくして、小冊子を通じて小池辰雄先生と出会った時、ホントに身が震えたこと昨日のように覚えています。
敬虔ということは倫理とかモラルの話(大きなお世話の説教聞いてりゃいいってもんじゃない!)じゃなく、学習して身に付くものでもありません。
(この辺りインド系の道では蔑ろにされている傾向も見受けられます)
あの”おののき〝、”ウマしき誘惑”…分かる人には分かります。これはある感性によって養われるものです。私はキリスト教に特有の教理偏重の色に染まるでもなく、ごくシンプルなキリスト道によって開眼されたのです。
この事がこれまで安直な思い上がった神サマ気取りの誘惑(これに陥るといよいよもって度し難いことになります)に走らずにしているのでしょう。